第18話 悪魔ゼルペンティーナ
「悪魔……!」
アゼルは慄然とした。本能的な恐怖に身体が強張る。
と。
するり……。
アゼルが固まっている内に、蛇は幹を伝って地面に降りてきてしまう。
そしてそのまま這ってくると、アゼルから少し離れた場所で留まった。
沈みゆく太陽を背にして。
「まずは自己紹介ね」
蛇は言った。知性を感じさせる、女の声音だった。
アゼルから見てちょうど逆光となる位置だった。翳りゆく夕陽の中で、蛇――いや蛇の姿をした悪魔は、まっすぐアゼルと向かい合った。
そしてゆっくりと口を開いた……。
「私の名前はゼルペンティーナ」
(ゼルペンティーナだって?)
相手の名前を心中で繰り返す。
なんて異教的な名前だろう、と思った。
(やっぱりこいつは悪魔に違いない)
その奇妙な響きから、アゼルはそう確信した。
しかし同時に、「なんて美しいんだろう」とも思ってしまった。
沈みゆく夕陽が墓地を黄昏色に染め上げていた。太陽は輝くような蜂蜜色からオレンジがかった茜へと変わり、やがて赤々とした琥珀へとその色調を変えつつある。
たっぷりとした蜂蜜に緑や紫の染料を溶かし込んだような……そんな何色とも名付け難い、複雑に織り込まれた綾のような黄昏時の陽光が、ゼルペンティーナの爬虫類の身体をぼんやりと浮かび上がらせていた。
すると夕陽は、小柄な蛇の全身を覆っている緑がかった鱗を、黄金のように煌めかせるのだった。
あたかも名高いドワーフの工匠が巨大な緑柱石を磨き抜いてものしたとでもいうような、精緻な彫像であるかの如く……。
『金緑色の蛇』。
それこそがこの蛇の姿をした優美な悪魔――ゼルペンティーナを、もっとも端的に表す言葉だった。
だが、これは本当に悪魔なのだろうか?
天の恩寵のような陽光を浴びて美しく燦めいている、神々しささえ感じさせるその姿を前に、アゼルはついそんなことを考えてしまった。
(いや、騙されちゃだめだ)
つい気を許しそうになっている己を叱咤する。
(この美しさこそが罠なんだ。人間をたぶらかす悪魔の手管だ)
「どうしたのかしら、さっきから黙り込んで。私に見惚れているのかしら?」
「そんなわけないだろ」
虚勢を張ってアゼルは立ち上がった。
(とにかく逃げなくちゃ。いや、誰かに伝えるんだ)
悪魔相手に自分が敵うわけがない。なにしろ昨日は一匹の悪魔相手に街の騎士団が総がかりでも苦戦したという。
こんな小さな見た目でも、この悪魔だってそのぐらい強いのかもしれない。
だが、幸いここは修道院だ。シスター達がいるし、教会騎士団もいる。悪魔に対抗する手段はきっとあるはずだ。
(こいつの目を盗んで誰かを呼ぶ。いや、大声で助けを求める?運がよければ誰かの耳に……)
「やめておきなさい」
「え?」
「誰かを呼ぼうと考えているのでしょう?それはやめておいた方がいいわ。ここから追い出されてしまうわよ?」
「え……」
「何を意外そうな顔をしているのよ」
蛇は呆れたように(蛇の表情はわかり辛いが、声の調子でそれとわかった)言った。
「さっきあのマルクという坊やが言っていたでしょう?悪魔は堕落しかけている人間の魂を通じてこちらの世界にやってくるってね」
「どうしてそれを。……お前、聞いてたのか?」
「もちろんよ。だって私、ずっとこの木の上にいたんですもの。貴方とマルクの会話も、あのヴェロニカとアンジェリカっていう二人組とのやりとりも、全部すっかり知っているのよ」
アゼルは歯噛みした。聞かれたからといってどうという訳でもないが、なんだか気分が悪い。
そんなこちらの気持ちに頓着した様子もなく悪魔は続けた。
「だからね、私はそちらの事情をすっかりわかってるってわけ。貴方は聖女候補であるリタのお情けでここに置いてもらっているだけの、この修道院にとっての厄介者だってことをね」
「……」
「そんな貴方が『悪魔に会った』だなんて言ってごらんなさい。悪魔に憑かれかけているって追い出されるならまだマシ。最悪、悪魔憑きとして処刑されちゃうわよ?」
「……っ」
アゼルは押し黙った。悔しいが、相手の言う通りだった。
リタやマルクが庇ってくれれば処刑まではされないかもしれない。しかし修道院からすれば、悪魔憑きになりかけている人間を置いておくわけにはいかないだろう。
良くて追放。いや、悪魔憑きを野放しにする危険性を考えれば、拘束される可能性の方が高い。
どこかに幽閉され、逃げられないように監視される……そんなところだろうか。
そんなのは御免だ。
(いや、そうじゃない)
アゼルはかぶりを振った。
問題はそこではない。いま考えなければならないことは……。
「じゃあ、お前は……」
「お前じゃなくてゼルペンティーナよ。呼びにくければゼラでもいいわ」
「どっちでもいい。お前はやっぱり、僕が喚んでしまったってことなのか?」
マルクは言っていた。人間の心が負の方向に振れた時、魂が魔界に繋がるのだと。
自分の目の前に今、悪魔が現れた。それはつまり、自分の心が堕落しかけているということなのか。
その自覚がなかっただけにアゼルはショックだった。
「ええ……そうよ、アゼル」
動揺するアゼルに構わず、ゼルペンティーナが無情にも肯定する。
「貴方の魂の門を通じて私は貴方の前に現れた。この私、ゼルペンティーナがね」
「ウソだ……。僕はお前なんて呼んでない」
「いいえ、喚んだのよ。貴方は私を求めた。叶わない願いを叶えるために、私という悪魔を求めたのよ」
「僕には願いなんてない。そんなもの、あるもんか」
「自分に嘘を吐いているのね?だけど私にまで嘘を吐くのはおよしなさい。だって、そんなのまるっきり無駄なんですもの」
ゼルペンティーナは突きつけるように言った。
「なにしろ私は、貴方の願いをすっかり知っているんだから」
「僕の、願い……」
「そうよ、アゼル――」
悪魔はそこで一旦言葉を切ると、固唾を呑んで見守るアゼルに向けて、改めて告げた。
「――貴方、リタが好きなんでしょう?」
その言葉を聞いた途端、アゼルは脅かされたように震え上がった。
「ちがう!僕は、そんな……」
「違わないわ、嘘吐きさん」
動揺するアゼルの様子を一頻り眺めて愉しむと、悪魔はまた口を開いた。
「貴方はリタを愛している。友人としてではなく、一人の異性として」
唄うように、嬲るように。そして嘲るように、ゼルペンティーナは嘯いた。
「だからこそ、婚約者であるマルクを妬んでいる。リタを奪ったマルクを憎んでいる」
「違う……」
「いいえ、違わない。その嫉妬という負の感情が、私をここに喚び寄せたのよ」
「ウソだ……っ」
弱々しい声でアゼルは呟いた。その声は震えていた。
本当に、そんな感情を抱いているつもりなどなかった。
(でも……そうなのか?)
アゼルは自問した。
本当に、心からそう言えるだろうか?と。
リタとマルクが二人並んで、仲睦まじく歩いている姿を見て。心がざわつくことがまるでなかったと――そう胸を張って言えるだろうか?
リタの隣に立つのが自分だったら……。そんな虚しい妄想をしたことがなかったと、本当に言えるのか?
「いいえ、嘘じゃないわ」
その迷いを見透かしたようにゼルペンティーナが鎌首を振る。
「私が貴方の前にいる。これ以上の証拠はないでしょう?」
(そうだ……その通りだ)
認めざるを得なかった。いくら否定しようと、無駄なのだ。
現に悪魔が目の前にいる。自分の弱さが喚びだしてしまった、悪魔が。
それは否定しようのない事実なのだから……。
こうしてアゼルを黙らせると、ゼルペンティーナは舌舐めずりしながら近づいてきた。
「私なら……その願いを叶えてあげられる」




