第17話 金緑色の蛇
思わぬ災難に見舞われたものの、その後は邪魔が入ることはなかった。なのでアゼルは順調に仕事を進めることができた。
その甲斐あって、夕方までに首尾よく墓穴を掘りあげることができたのだった。
「……終わった」
鍬を放るように投げ出し、大きく息を吐く。
墓穴から這い上がり、アゼルは久方ぶりに地上に戻った。
空を見上げると日はだいぶ傾いていて、辺りを薄い夕暮れの色に染めている。
それでも日が沈む前に終わったのだから、アゼルとしてはこんなにありがたい話はなかった。
「ふぅ……」
全身に疲労感があった。だが、いつもだったらこんなものでは済まない。立って歩くのもやっとという有様なのだ。
本当にマルクにはどれだけ感謝しても足りない。
もちろんこんなことはこれきりだろう。しかし、それでもいいのだ。
リタ以外にも自分を気に掛けてくれる人がいる。それを知れただけでも、随分と救われた思いだった。
感謝しながら道具を片付け、荷物を置いておいたニワトコの樹の下に行く。
するとその根元に、畳んだ上着の下に隠すようにして、何かが置いてあるのがわかった。
何だろう?と思って手に取ると、それはクッキーが入った包みだった。
包みには何やら文字が記されている。
アゼルは字をあまり読めないが、そこに書かれた文字は読むことができた。これ以上ないほど簡潔な文だったからだ。
『これはリタからだ』――と、それだけ記されている。マルクが置いていってくれたのだろう。
(僕は恵まれている)
それを見た時、心からそう思えた。
この修道院には亜人に否定的な感情を抱く人達がいる。それは否定できない事実だった。だがそれを言うなら、外には自分よりも劣悪な扱いを受けている亜人だって掃いて捨てるほどいるのだ。
それに比べたらリタやマルクに気に掛けてもらえる自分は、十分すぎるほど恵まれている。
これ以上を望むのは、贅沢というものだ。
(リタもマルクも、本当にいい人達だ)
アゼルは改めてそう思った。
(あの二人には幸せになってもらいたい)
心から、そう願う。
リタが聖女になろうとなるまいと、それはどちらでもいい。あの素晴らしい二人が結ばれて、いつか生涯を終えるその日までの時間が、幸福に包まれたものであってほしい。
そうでなくてはならない。
それこそが正しい、あるべき未来だ。
(――でも)
……『でも』?
『でも』って、なんだ?
ふいに自分の心に浮かんだ思いに、アゼルは戸惑いを覚えた。
他に何を望むというのだ。
自分には他に、望んでいる未来があるというのか?
『過去に天使を喚べなかった聖女候補が、還俗して市井に戻った例が……』
(いけない)
余計なことを思い出しそうになった自分の頭を呪う。
(リタはマルク様と結婚するのが一番幸せなんだ)
自分自身にそう言い聞かせる。
そうだ。……リタの幸せを願うなら明らかにそれが最善だ。
身分や家柄だけではない。マルクは人柄も素晴らしい。リタの結婚相手としてこれほど相応しい人物はいない。
マルクになら安心してリタを任せられる。
彼ならきっと、リタを幸せにしてくれる。
だったら僕は、それを応援したい。
「でも」
(……え?)
「でも、本当にそれでいいの?」
「え?」
戸惑いの声を口に出す。
今のは自分の心の中の声ではない。
それに、空耳でもなかった。
間違いなくこの耳で聞いた、誰かの肉声だ。
「誰か……いるんですか?」
周囲に向かって声を掛ける。
しかし返事はない。……見回しても、誰の姿もなかった。
ここにいるのは自分一人だ。
女の姿なんてどこにもない。
(……そうだ。女だ)
先ほどの『声』を思い出す。
(あれは確かに、女の人の声だった)
耳に入れただけで、なんだかゾクッとするような。無性に身体をむず痒くさせるような、そんな声。
初心なアゼルがまだ出会ったことのない類の、妙齢の婦人の声。
それはきっと、この修道院にいてはならない類の女性だった。
(でも、どこに?)
どこにそんな女がいるというのか。
そんな女性が修道院の敷地に、しかもこんな寂れた場所にいれば目につかない訳がないはずだ。
なのに、どれだけ目を凝らしても見つからない。
やはり空耳だったのだろうかとアゼルは思った。
しかしあの声は確かに、この耳で聞いたはずなのだが……。
その時、こちらの困惑を見透かしたようなタイミングで、またあの声がした。
「どこを見ているの。こっちよ、こっち」
(やっぱり聞こえる!)
夢や幻じゃない。ましてや空耳でもない!
「こっちって、どっち?」
アゼルは内心飛び上がりそうなほど驚きながらもそう問い返した。
すると『声』が返事をした。
「こっちと言ったらこっちよ。わからないの、アゼル?」
「どうして僕のことを!」
仰天した。
この声の主が誰であるにせよ、自分に用があるなどとは露ほども思っていなかったのだ。
せいぜい道でも聞かれるのだろうと考えていたのに、名前を知られているということは自分に用があるのだろうか。
でも、いったい自分などに何の用があるというのだろう。
『声』は答えた。
「もちろん知っているわ。私はずっと、ずっと貴方を待っていたのよ」
「待っていた?……僕を?」
「ええ、そうよ」
「貴女は誰なんですか?僕に一体、何のご用があるんですか」
「敬語なんて使わなくていいわ。私達はこれから対等な関係を結ぶのだから」
「対等な関係……?」
「ところで、私がどこにいるかわかったかしら?」
「いいえ」
「仕方のない子ね。それなら降りていってあげるわ」
「降りていく?」
降りていくということは上にいるのだろうか?
アゼルは上を見上げた。確かに頭上にはニワトコの樹が茂っている。
だが、ネコじゃあるまいしこんな木の上にご婦人がいる訳がない。
バカバカしいと思いつつも、念のためにアゼルは枝の上を見上げた。と……
「えっ!?」
声の調子から漠然と思い描いていた麗人はもちろんそこにはいなかった。
代わりにいたのは――蛇。
太い枝の上から、一匹の蛇がアゼルを見下ろしていた。
輝くような青い瞳をした蛇が……。
「へ、ヘビっ!?」
アゼルは危うく転びかけた。唐突だったし、それが初めて目にする種類の蛇だったからだ。
(なんだ……この蛇?)
呆然と見入ってしまう。
本当に、こんな蛇をアゼルは今までに見たことがなかった。
まず目に入ったのはキラキラと光を放つ青い瞳。その宝石のような輝きに思わず目を奪われる。
それに加え、ほっそりとしたその体を覆う翠色の精緻な鱗はどうだろう!それはガラスのように透明感があり、また光沢を帯びていて、その蛇を生き物というよりはまるで、一箇の極上の宝石細工であるかのように見せていた。
気付くとアゼルは、息をするのも忘れて見入っていた。なんという美しい生き物だろうと思った。
そして同時に、「こんな蛇がそこらにいる訳がない」とも思った。
しかし見たことがないということは、毒を持っているかもしれないということだ。いくら美しいからといって迂闊に近づくことはできない。
警戒するアゼルを見て『声』は呆れたように言った。
「失礼な子ねぇ。この私の姿を見て、そんなに怖がるだなんて」
「え……?」
アゼルは戸惑った。それは一体どういう意味だろう?
それではまるで、この蛇こそがこの『声』の主だと言っているようではないか。
だけど言われてみれば確かに、この『声』は蛇がいる辺りから聞こえた。
それに……この蛇は今、口を開けていなかったか?
まるで本当に喋っているかのように。
でも、まさかそんな……。
すると蛇は言った。
「そうよ、アゼル」
固唾を呑んで見守るアゼルの前で、確かに口を動かして、蛇が言葉を発したのだ!
「いま貴方と話しているのは私。この私なのよ」
「ひ……っ!」
アゼルは短く悲鳴を上げ、今度こそ転倒してしまった。
蛇がしゃべっている。……間違いなく、しゃべっている!
(いや、違う!)
そう、蛇がしゃべるはずがない。
ではこの蛇は何なのか?考えられるとすれば、それは。
それは……。
「ええ、そうよ」
声を出せないでいるアゼルに代わり、蛇は自分から正体を明かした。
「私は蛇なんかじゃない。貴方が考えている通りの存在――悪魔よ」




