第16話 『エッチ』の語源について
驚愕したヴェロニカが大きく目を見開く。
――それにはこうした理由があった。
『エッチマー伯爵の華麗にして数奇なる遍歴』という小説がある。
およそ百年ほど前に匿名で出版された通俗小説で、エッチマー伯爵という架空の人物を主人公にした荒唐無稽な物語である。
その内容はというと、女好きで軽薄な主人公がことある毎に女性を口説き、それにより巻き起こる危機や珍騒動を持ち前の機知とユーモアで切り抜けるというものだった。
いわゆる艶笑譚の類だが、主人公の人物造形がとにかく秀逸で、不道徳で好色なくせに不思議と憎めないその言動が広く大衆の支持を集めていた。
今ではすっかり定着した『エッチ』という言葉は、この愛すべき主人公の名前が語源なのである。
その具体的な変遷をたどれば、
「ははは、それじゃまるでエッチマー伯爵だよ」
「君は何を言っているんだい?エッチマー伯爵じゃあるまいし」
「……あら。どうやらエッチマー伯爵が紛れ込んでいるようですわね」
から、
「おいおい、おまえ頭エッチマーかよ」
「やーいやーい!○○のエッチマー!」
「……お前ってさ。意外とエッチマーなんだな……」
となり、
「み、見たでしょ!?バカ!エッチ!」
「やーい、やーい、○○のエッチー!エッチ大臣ーっ!」
「……エッチ。」
――といった具合である。
世間に浸透するにつれ、使われやすいよう短く省略されていったのだ。
現代における用法としては、由来となったエッチマー伯爵の人気もあってか非難の意味合いはさほど強くない。
そちらの意味の言葉としては「スケベ」「変態」「破廉恥」「エロエロ」などの多彩な言い回しが既に存在するからである。
ゆえに「エッチ」は主に相手をからかう意図で使われるのが一般的だった。友人同士などの親しい間柄で使われても直ちにケンカに発展するような言葉ではない。
……とはいえ、思春期の少女が面と向かって言われればそれなりにショックを受けるであろう言葉ではある。
それが普段は取り澄ましている生真面目な少女であれば、尚更のこと……。
「な、ななな……っ!?」
ヴェロニカが目に見えて狼狽えているのはつまり、そのような訳なのだった。
「な、なんなのよいきなり!何で今のがエッ……になるわけ!?」
「あ、やっぱわかってなかったんだねー」
アンジェリカが納得したように頷く。
「おかしいと思ったんだよ。いきなりヴェラがそんな際どいこと言い出すなんて」
「だ、だから何なの?何でそうなるのよ!」
気の毒なほどに狼狽えているヴェロニカを見てアゼルは危うく吹き出しそうになった。
なんというか、溜飲が下がったという思いだ。
声を出して笑いたかったが、それをすると矛先が自分に向きそうなので我慢した。
と……耳が上に引っ張られる。
顔を上げるとそこには、顔を茹でダコのようにまっ赤にしたヴェロニカの顔があった。
「ちょっとアゼル、そうなの?亜人の尻尾って、そういうアレなの!?」
「あ、いえ。別にそういうことは……」
「そ、そう?そうよね」
「基本的には」
「基本的って何よ!?」
「あの、ちょっと落ち着いて……」
食って掛かってくるヴェロニカを宥める。
実際問題として、亜人にとって尻尾は特に性的な部位というわけではない。デリケートな付け根の部分を除けば、手足と変わらない扱いである。
なので尻尾に触ったり、尻尾で触ることに特に性的な意味合いは含まれない。
ただし尻尾は手足と違い、あまり強度がない。ケガをしやすい部分なので親しい人間以外にはあまり尻尾を触らせたりはしない。
もちろん付け根に触ることを許されるのは、本当に特別な相手だけである。
アゼルが『基本的に』と言ったのはつまり、そういう理由だった。
「だから基本的にって何なの!?はっきりしなさいよ!」
「えっと……」
しかしそんな込み入った事情を、恐慌をきたしている今のヴェロニカに説明するのは困難に思えた。ただでさえ、口にするにはちょっと躊躇するデリケートな話題だというのに。
そんな訳でアゼルが困っていると。
「よくわかんないけど、とにかく違うから!私は別に……っ」
彼女がなおも言い募ろうとした。
――その時だった。
「痛……ッ!」
左耳に鋭い痛みが走り、アゼルは顔を顰めた。
ヴェロニカには別に苛虐の意図はなかったのだろう。
それはアゼルにもわかった。
だが耳を掴んだままだったヴェロニカが力んだ拍子に、親指の爪が耳の先端に刺さったのは事実であり、それでアゼルが強い痛みを感じたこともまた事実だった。
痛みに耐えかね、思わず頭を大きく振る。
すると髪の毛が跳ね、それがヴェロニカの手に当たった。
「きゃっ!?」
その感触に驚いたヴェロニカが悲鳴を上げ、パッと手を引く。
そして。
「何すんのよっ!」
ドンッ!
「っ!?」
一瞬、何が起きたかわからなかった。
腹に衝撃を受けたと思うまもなく、アゼルは自分が掘った墓穴の中に転がり落ちてしまった。
ヴェロニカに蹴落とされたのだと悟ったのは、穴の底でしたたかに腰を打ちつけた後だった。
「ごほっ、ごほっ……」
しばらく息ができず、咳き込みつつ腹と腰の痛みに呻いていると、アンジェリカが覗き込んできた。
「アゼル~、大丈夫ぅ?」
「は、はい。なんとか」
少し痛みはあるが、どこかを傷めたわけでもなさそうだ。
「ヴェラ~、さすがにやりすぎじゃない?」
「い……いいのよ、そんな奴っ」
一方、蹴落とした張本人であるヴェロニカはそれでも多少気まずいのか、視線を逸らした。
そして何やら自分の手を気にしている。
「あれ、どうかしたの?」
「……そいつの髪が手に触れたのよ。汗でビショ濡れの髪がねっ」
そう言うと穴の底のアゼルをジロッと睨んだ。
「あんたの汗が手に付いたわ。どうしてくれるのよ?」
(そんなこと言われても)
そう思いはしても、もちろん口に出せない。
口を開くのもしんどかったが、なんとか声を絞りだす。
「申し訳、ありません……ヴェロニカ様」
「ふん」
するとヴェロニカは何を思ったか、その手を自分の鼻先に近づけると、すんすんと匂いを嗅いだ。
「汗くさい。……男の子の匂いがする」
さらに当てつけるように付け加えた。
「最悪」
「すみません……」
アゼルは消え入りたい思いだった。言いたいことは山程あるが、女の子の手に自分の汗を付けてしまったのは事実だったからだ。
すると、いたたまれなさと羞恥に耐えているアゼルに向けて、ヴェロニカが手を伸ばしてきた。
「ハンカチを出しなさい」
「え?」
「私のハンカチをあんたの汗で汚したくないの。さっさと出しなさい」
「えっと……持ってません」
「呆れた。ハンカチも持ってないの?これだから平民は……」
ヴェロニカはしばらく手を眺めて逡巡していたが、
「……仕方ないわね」
そう呟くと、自分の修道服の胸元にこすりつけた。
無造作に見える手付きで、ゴシゴシと拭いた。
「後で洗濯しなくちゃ。……あーあ、まったく。とんだ災難だわ」
そしてあてつけがましくそう言うと、こちらを見向きもせずに立ち去ってゆく。
アゼルは呆気にとられてその背中を見送った。
するとアンジェリカが穴の縁に屈み、手を合わせて謝罪のポーズをとった。
「なんかごめんね~?まあ、許してあげてよ」
「あ……はい。もちろんです」
溜息を吐きつつ頷く。別に怪我したわけでもない。
それにこの程度のこと、慣れている。
しかしアンジェリカはそうは思わなかったらしい。
アゼルの顔を覘き込むようにしながら念押しするように続けた。
「ねぇ、このことは誰にも言わないでね?お互いのためにも」
「お互いのため?」
「うん。だってこんなこと、リタには知られたくないでしょ?」
「……っ」
咄嗟に浮かべたこちらの表情に満足したのか、アンジェリカはニッコリと頷いた。
「ふふ、話が早いねぇ。アゼルのそういうとこ、わりと好きだよ?」
「……恐れ入ります」
「じゃあ、お仕事がんばってね~」
そう言い残してアンジェリカも立ち去ってゆく。フワフワとした軽い足取りで。
アゼルがようやく起き上がった時、アンジェリカが前を歩くヴェロニカに追いついたところだった。
二人がこちらを指差し、また何やら言い合っているのが見えたが……正直もう、どうでもよかった。
「……なんなんだ」
誰にも聞こえない声でぼやき、アゼルは小さく息を吐いた。




