第1話 アゼルとリタ①
カ――――ン…………。カ―――ン…………。
夜明けを告げる鐘の音で、アゼルは目を覚ました。
商都ドローデンの市中から少し離れた郊外に、女神イシュターを信奉するサリーガルテン修道院はある。
五百年前に建てられたこの由緒ある女子修道院は、その周辺一帯をのどかな草地や森に囲まれているが、それらは全てこの修道院に寄進された領地である。
その広大な敷地の外れ。ほとんど森の中といっていい一角にひっそりと、粗末な小屋が建っている。
まるで恥ずべきものであるかのように生い茂る樹木に覆われかけている、そのみすぼらしい納屋が今のアゼルの住処だった。
夏は暑く、冬は寒い。元々は薪を伐る道具や割った薪の保管、或いは休憩所として使われていた納屋なので、それも当然だ。
壁にあちこち穴が開いているので、隙間風も入れば、虫やネズミも我が物顔で入ってくる。……もっともネズミは、中に食べる物がないと見るやとっとと出て行ってしまうけれど。
それでも。寝起きできる場所があるだけ幸運だ、とアゼルは思っていた。
たとえネズミや隙間風が入り放題で、おまけに暖炉がないボロ小屋でも、路地裏で寝起きするよりはるかにマシだ。
なにより、近くに小川が流れているのがありがたかった。
「……ふう」
朝起きたら川に行って顔を洗い、冷たい水で喉を潤す。それから桶に水を汲んで納屋に戻り、水甕に注ぐ。
それを何度か繰り返し、その日使う分より少し多めの水を常に溜めておく。
それがアゼルの朝の日課だった。
数往復してようやく水が溜まった頃、後ろから二人分の足音が近づいてくるのがわかった。
アゼルが振り返ると、二人の内の小柄な方――紺色の修道服を纏った少女が、ちょうど口を開くところだった。
「おはよう、アゼル!」
「おはよう、リタ」
いつもの朝の挨拶を返すと、幼馴染の少女は朗らかな笑みを浮かべた。
頭に被ったヴェールから、明るい蜂蜜色の前髪がこぼれている。柔らかそうな前髪がさらりと揺れて、少女の白い額をくすぐった。
(いけない)
思わず見入りそうになっていた自分に気付いて自制する。
そして訪ねてきたもう一人の人物――リタの隣に佇む鎧姿の少年――に向き直り、頭を下げた。
「おはようございます、マルク様」
「……ああ」
マルクがそれだけ言い、小さく頷く。
この愛想に欠けるリタの連れは、いつもこうだった。
この一年間、ほとんどずっとだ。
マルクはヘルブラント辺境伯家の子息だと聞いている。貴族社会や階級のことはアゼルにはよくわからないが、武門の誉れ高き家柄で、彼自身も既に教会騎士団に所属していた。
もちろん13歳であるマルクはまだ見習いという扱いだが、それでも剣技にかけては既に大人顔負けの腕前なのだという。
リタや自分と同い歳のはずなのに、到底そうは思えないほど大人びているこの少年のことを、アゼルは少し苦手にしていた。
というより、どう接していいかわからないのだ。
いかにも貴族らしい豪奢なブロンドの髪。巻き毛にでもすればさぞかし優雅であろうそれを、彼は惜しげもなくバッサリと刈り込んでいる。
それがまたよく似合っていたし、彼の気性を表してもいた。
透き通るような青い瞳は碧玉のように美しい。……しかしそれをうかつに覗きこむ粗忽者は鋭い眼光に撥ね返され、直ちに後悔することだろう。
その精悍な顔つきといい、寡黙な佇まいといい、マルクはこの歳にして既に軍人と呼ぶにふさわしい風格と威圧感をその身に漂わせているのだった。
そんな彼に気後れを感じつつ、アゼルはまた頭を下げた。
「いつもすみません、マルク様」
「何がだ」
「本当なら僕の方からパンを受け取りに行かないといけないのに。リタ……様やマルク様に、毎朝足を運んでいただくなんて……」
この一年、何度となくしてきた謝罪を再び口にした。
アゼルが孤児院を出て、ここに住まわせてもらうようになって一年が経つ。この一年間、ほとんど毎日この二人はこうして朝方にアゼルを訪ねてきてくれるのだ。
彼の分の食料を届ける、そのためだけに。
リタの付き添いのためとはいえ、貴族であるマルクが平民の自分に毎朝パンを届けに来てくれるのである。アゼルとしては生きた心地がしなかった。
「……」
マルクはそんなアゼルを見下ろすと(マルクは彼より頭半分ほど背が高い)、深々と息を吐いた。
「いつものことだ。……もう慣れた」
「す……すみません」
取り付く島がないとはこのことだ、とアゼルは思う。
彼はいつも仏頂面で感情の起伏が少ない。おまけに受け答えも最低限なので、何を考えているのかまったくわからない。
ただでさえ身分が違いすぎる相手である。その上こんなそっけない態度を取られては、こちらとしては萎縮するしかなかった。
いったい彼と、どう接すればいいのか。それはこの一年、アゼルの悩みの種の一つとなっていた。
「もう、いつも言ってるでしょう?私達にそんなに気を遣わなくていいのよ」
一方、そんな悩みなど知る由もないリタは、こちらは年齢相応の快活な笑みを浮かべていた。
「パンを届けるのなんて、ただのついで。私にとってはいい息抜きなの。あなたとお話できるのが一日の楽しみなのよ」
そう言うとリタは誇らしそうに胸を張った。
「だからこの役目、自分から買って出たんだから」
(それはどうだろうな)
口には出さず、アゼルは内心で呟く。
押し付けられたとは言わないが、それは半ば義務のようなものだったろう。
そもそも本来なら、リタやマルクにパンを届けてもらう必要などない。食事を恵んでもらう側であるアゼルの方から出向けば済む話だ。立場からいっても身分からいっても、それが本来あるべき姿だった。
だが、そうはいかない事情があった。なにしろこのサリーガルテンは、女子修道院なのだ。
パンを焼く厨房は修道女たちの生活の場である僧坊と同じ建物に入っている。そこに――まだ子供とはいえ――世俗の若い男性を近づけるわけにはいかないのだ。
そしておそらくその判断には、アゼルが亜人であるということも含まれている。
そこで、アゼルをここに住まわせるように修道院に嘆願したリタがその責任を取る形で、食事を届ける役目を買って出てくれたのだった。
以上のことは、リタの口から直接聞いた訳ではない。だが他の見習い修道女の口振りからその辺りの事情はおおよそ察していた。
「ホントに気にしなくていいのよ。私はお散歩になるし、マルクはほら、私についてくるのがお仕事だし」
「ついて行くのが仕事じゃない。俺の役目はお前の護衛だ」
マルクが腰に佩いた剣を示す。彼はリタの守護騎士の役に就いていた。
リタはそれを聞くと、これ見よがしに溜息を吐いた。
「いつも思うけど、護衛なんて大げさよね。どうせここの敷地からは出れないのに、いったいどんな危険があるって言うのかしら?」
「大袈裟なものか。お前は聖女候補なんだ」
マルクが渋面を作る。
「いいかげん少しは自分の立場を自覚しろ」
「はいはい、ちゃんとわかってます」
マルクの小言を軽く受け流すと、リタは納屋に向かって歩き始めた。
二人のやりとりに気を取られていたアゼルはそれに気付くのが遅れてしまった。
急いで後を追い、リタが抱えている小さな籠に手を伸ばす。
「僕が持つよ」
「いいわよ、ぜんぜん重くないもの。……って」
いつものように納屋の戸を潜りながら、リタはふと沈んだ声を出した。
「それを喜んでいてはいけないわよね」
納屋の中は積み上げられた薪の束や農機具の類で雑然としている。そんな中、空いた一角に簡素なテーブルが置かれていた。




