第100話 結末③
「――っ!」
リタが息を呑む。
ゼルペンティーナは、少し驚いたようだった。一瞬だけ目を見開く。
しかしすぐに瞼を閉じ、アゼルの背に腕を回した。
まるで、本当の恋人のように。
――その抱擁と、口付けを。
「……っ!」
ヴェロニカは、目を逸らさずに凝視していた。鬼気迫る形相を浮かべ、目を炯々と血走らせ、血が滲むほどに強く唇を噛み締めながらも、屈辱を胸に刻みつけるように瞬きもせずに凝視し続けていた。
「…………」
マルクは、気まずげに視線を逸らした。そして額に手を当て、苦悩の色をありありとその顔に浮かべると、二、三度大きく首を横に振った。
そして、リタは。
「――――」
リタは最初、何の反応も示さなかった。
表情をほとんど変えず、目だけを大きく見開いて、自分の幼馴染が見知らぬ悪魔と口付けを交わす姿を、ただただ呆けたように眺めていた。
目の前で起きていることが何なのか、わかっていないというように。
やがて、ようやくその瞳に理解の色が生じ――。
目にしている光景が現実で、夢でも幻でもないと悟った時。彼女は――。
「――――……っ」
ただ一筋の、涙を流した。
「……これでわかったか」
長い口付けを終え、アゼルが振り向く。
リタはその顔を、なぜか直視することができなかった。
無意識に目を逸らす。
……と、女悪魔の顔が目に入った。
キスを終えたゼルペンティーナがこれ見よがしに舌舐めずりし、明らかに自分を見ながら薄く嗤ったその顔が、リタの脳裏に深く刻み込まれた。
その唇が、濡れているのを見た時。
心が――ざわついた。
「……殺してやる」
リタの肩がビクリと震える。
しかし、それを口にしたのは彼女ではない。
「……っ!」
ヴェロニカだった。幽鬼じみた形相を浮かべたヴェロニカが、殺気すら籠もった視線でゼルペンティーナを――そして、アゼルを睨みつけていた。
「私はあんたたちを許さない。絶対にクラリモンド様の仇を取る」
アゼルは彼女と目を合わさなかった。
一方のゼルペンティーナはニヤニヤと、挑発するような笑みを浮かべて彼女を見返した。
それを見たヴェロニカの眼がますます吊り上がる。
「私は絶対にあんたたちを殺す! 首を洗って待ってなさい、アゼル! ……ゼラァァ!!」
「あらぁ! いいじゃない、それ!」
ゼルペンティーナが場違いな華やいだ声を上げる。
「はぁ!?」
いきり立つヴェロニカをまったく無視し、ゼルペンティーナはアゼルに向かって言った。
「アゼルとゼラ! なんだかいい響きじゃない。ねえ、私たちこれからそう名乗りましょうよ!」
「好きにしろ。呼び名なんてどうだっていい」
「馬鹿にして……!」
ヴェロニカが歯軋りする。悔しさのあまりか、彼女は目尻に涙を浮かべていた。
「そうやって余裕ぶってなさい。……私は必ず強くなる。強くなって、あんたたちを地面に這い蹲らせてやる。いいえ、八つ裂きにしてばら撒いてやる!」
「それは楽しみね。せいぜい頑張りなさいな、お嬢ちゃん」
ヴェロニカの相手をゼルペンティーナに任せ、アゼルは踵を返そうとした。
……と。
「アゼル」
呼び止められ、足を止める。
振り向くと、リタが自分を見ていた。
リタはこれまでに見たことのない憔悴した顔を浮かべていた。
「アゼル……行ってしまうの? 本当に行ってしまうの?」
ポロッと涙を零し、縋るようにリタは言った。
「私を置いて、行ってしまうの?」
「……そうだ。俺はお前を置いて行く」
彼女に向き直り、アゼルははっきりと告げた。
「俺は、翼を手に入れた。何にも囚われることなく、自由にどこへでも行ける翼を」
マルクが羨むような顔を浮かべる。
「それに俺は、力を手に入れた。他者の願いを撥ね退け、それを踏み躙る力を」
ヴェロニカが歯を食い縛る。憎悪に燃える眼でアゼルを睨む。
「そして……俺は、女を手に入れた。何でも俺の思い通りになる、理想の女を」
ゼルペンティーナを引き寄せ、見せ付けるようにその腰を抱きながら、リタに冷たい目を向ける。
「お前はもう、いらない」
「――っ!」
リタは殴られたようによろめいた。
膝からガクリと力が抜ける。
堪え切れずにその場に膝を着く。
床に手を付くと、ひとりでに嗚咽が漏れた。
幼馴染が何を言っているのか、リタにはわからなかった。
そして、どうして自分がこんなにもショックを受けているのかも、彼女には何一つとしてわからなかった。
ただ、身体に力が入らなかった。
指一本動かせなかった。
立ち上がることなんて、二度とできないのではないか――そう思えるほどに。
後から後から、涙が溢れた。
視界が滲んで、何も見えない。
彼の姿が、もう見えない。
声だって、出せない。
今引き止めなければ、彼は行ってしまうのに。
そして、もう二度と……逢えないかもしれないのに。
何か言わなければいけない。
なのに、喉が引き攣って、どうしても声が出せない。
噎び泣くことしかできない。
しゃくり上げることしか、できない。
「みっともなく泣いちゃって、情けない子ねぇ。ホントにこんなのが聖女なの?」
そんなリタを見下ろし、女悪魔が蔑みの言葉を放った。
床に置いたリタの手が、ピクリと動く。
「ねぇ、もう行きましょうよ。こんな埃っぽいところウンザリだわ。おまけに辛気臭いったら」
ゼルペンティーナはアゼルに擦り寄ると、当て付けるように甘ったるい声を上げた。
「そうだな」
「待て!」
最後に呼び止めてきたのはマルクだった。
「行くなアゼル。ここに留まれ!」
いつになく険しい表情を浮かべてアゼルを見据える。
「俺が全部なんとかしてやる! だから、ここに残れ!」
「その必要はない。自分の面倒ぐらい自分で看られる」
「そんなことを言ってるんじゃない! リタにはお前が……」
「マルク。お前はお前の役目を果たせ」
「……!」
マルクがハッと息を呑む。
それを見届けると、アゼルは改めて相棒に声を掛けた。
「ゼラ」
「はぁい」
ゼルペンティーナがアゼルの背中に抱きつく。
すると見る間にその姿は黒い靄へと変わり、アゼルの全身を少しずつ覆っていった。
「……っ」
顔を上げたリタは息を呑んだ。
同じ光景を、彼女は目にしたばかりだった。
それはあのロミュオーという悪魔が、修道院長にとり憑いた時と同じ。
悪魔が、人間を。悪魔憑きへと造り変えていく光景。
アゼルの姿が。……大切な幼馴染の身体が、闇を思わせる黒い色へと染まってゆく。
二人の身体が溶け合い、一つになってゆく。
それはリタの目に酷く忌まわしい光景に映った。
「やめて……」
それ以上見るのに堪えられず、俯く。
溢れ出る涙をどうすることもできないまま、やっとのことで声を絞りだす。
「アゼルを……穢さないで……っ!」
「――勘違いするな」
バサッという羽音が響き、リタは顔を上げた。
黒い大きな翼を広げ、悪魔そのものの姿と化した幼馴染が宙に浮かび、冷たい目で自分を見下ろしていた。
変わり果てた姿のアゼルは言った。
「俺はもう……穢れている」
それが最後だった。アゼルはもう一度、今度は大きく翼をはばたかせると、彼らの手が届かない高さへと一気に飛翔した。
そして天井の穴から外に飛び出すと、それきり二度と戻らなかった。




