第99話 結末②
「――ごふっ!」
クラリモンドが、吐血する。
それを顔に浴びてもアゼルは避けもしなかった。
「……え?」
ヴェロニカは呆けたように呟いた。
「ゼラ、どれだ?」
「魔力を感じ取りなさい。口で言うよりその方が早いわ」
指示とも言えないその言葉に従い、アゼルはクラリモンドの心臓を探す。
人間の体内を手でまさぐる感触は喩えようがないほどに気色悪かった。
だが幸い、心臓はすぐに見つかった。
魔力についてはよくわからなかったが、ドクンドクンと脈打っているので間違いなかった。
心臓を掴んで、力任せに引きずり出す。
ブチブチと血管が千切れる厭な音と共に、大量の鮮血がクラリモンドの胸から迸った。
「ああぁっ!」
クラリモンドが断末魔の絶叫を上げる。
その胸からは冗談のように夥しい血が噴き出た。
――酸鼻を極める、悪夢のような光景。
目の前で繰り広げられる、そんな残虐な光景の一部始終を、ヴェロニカは声も出せずに眺めていた。
「……これか」
「ええ、それでいいわ」
アゼルの掌の中で生々しく脈打つ心臓を見て、ゼルペンティーナが満足そうに目を細める。
と――変化が生じた。
剥き出しになった心臓が、手の中で形を変えていく。
「これは……」
アゼルは驚嘆の声を洩らした。
今の今まで確かに掌の上にあった血塗れの心臓は姿を消し、代わりにそこに現れたのは見事な黄金の杯。
燦然と輝くその杯は、満々と神秘的な色の液体を湛えていた。
「そのまま持っていて」
「ああ」
アゼルの首の後ろからゼルペンティーナが抜け出る。
と、アゼルは元の姿に戻った。
ゼルペンティーナがアゼルの右腕を伝い、黄金の杯に顔を近づける。
どうするのかと思って見ていると、ゼルペンティーナはそのまま頭を液体に突っ込み、呑み始めた。
一方……。
「あ……あ……っ」
ヴェロニカは彼らを見ていなかった。
彼女はただ為す術も無く、急速に身体の輪郭が崩れつつある恩師の姿を見つめていた。
「ヴェロニカ……馬鹿な子ね。こんな私を……庇ったりして……」
苦しい息の下でクラリモンドは言った。
「クラリモンド……様……」
「さっきの守護障壁……見事だったわ」
「え……」
「おかしなものね。天使も、それに選ばれる人間も憎んでいるはずだったのに……貴女が天使に選ばれたと知って、私は……喜んでしまった。我がことのように嬉しく思ってしまった……」
「……っ!」
ヴェロニカの瞳が揺れる。
「もっと早くに、そう思えていたら……こんなことにはならなかったのかしらね……」
「クラリモンド様!」
崩れ落ちるクラリモンドに駆け寄る。
しかしその姿はもう、ほとんど原形を留めてはいなかった。
その手に取り縋ってヴェロニカは哭いた。
「ヴェロニカ……貴女は間違えては駄目よ」
「え……?」
ヴェロニカが涙に濡れた顔を上げる。
朽ち果てていく師の顔は、それでも穏やかな微笑を湛えていた。
「私達の腕も、人生も……何もかもを手に入れるには、短すぎる。だから……本当に大切なものを掴みなさい」
「……」
「それを間違えたら……私のように、なって……しまう。いいわね。大切なものを……間違え、ない……で」
「……!」
もはや声もなく、コクコクと頷くだけの教え子を愛おしげに見つめると、クラリモンドは最期にその頭を撫でた。
「こんなことになってしまってごめんなさいね。さようなら、ヴェロニカ……」
「クラリモンド様!」
完全に形を失い、崩れ去るクラリモンドにヴェロニカは縋りつこうとした。
だが彼女が消えた後には、僅かな灰が残っているのみ。
縋るようにその灰を握り締め、ヴェロニカは嗚咽を漏らした。
そんな彼女を、アゼルはただ黙って見下ろしていた。
――やがて。
力なく床に座り込んだまま、彼女は小さく呟いた。
「……なんで?」
涙に濡れた顔を上げ、ヴェロニカはアゼルを見上げた。
「どうしてクラリモンド様を殺したの。そんな必要なかったのに」
途方に暮れたような声だった。
或いは、親に捨てられた子供のような。
「ねえ……答えてよアゼル。あんたにはその義務があるはずよ」
その声に非難の響きはなかった。
ただ、純粋な疑問だった。
「――力を手に入れるためだ」
だからアゼルは、そう答えた。
「ちか……ら?」
まるで初めて耳にした単語のように、たどたどしくヴェロニカが繰り返す。
アゼルは拳を握った。決して、彼女からは見えない位置で。
「ゼルペンティーナは本来の力を失っている。それを取り戻さなければならない」
「……」
「悪魔が強くなるには、他の悪魔を喰らうのが一番てっとり早いからな」
ヴェロニカは大きく眼を見開いた。
「そんな……理由?」
信じられないと。
そう言いたげに。
「そんなことの為にあの方を、殺したっていうの……?」
そして――アゼルは見た。
ヴェロニカの顔から表情が、少しずつ失われていくのを。
いや、……壊れていくのを。
「……クラリモンド様は罪を犯した。だから、誰かに裁かれなくてはいけないとわかっていた」
そう言うヴェロニカの顔には表情がなかった。
無表情のまま、彼女は涙を流していた。
それを拭いもせずに続けた。
「でも……私は、それがあなたであって欲しくなかった。あなたにだけは、それをして欲しくなかった」
「……」
アゼルは目を伏せようとした。
が、すんでのところで堪えた。
ヴェロニカの視線を正面から受け止める。
自分を糾弾する、彼女の視線を。
非難の言葉を。
「だから私は、あなたにお願いした。なのにあなたは、聞いてくれなかった……」
代わりに顔を伏せたのはヴェロニカだった。
アゼルは不思議に思った。
どうして彼女の方が目を逸らすのだろう、と。
罪を犯したのは、自分だというのに。
「裏切ったわね……アゼル」
ポツリと。
ヴェロニカは言った。
次に彼女が顔を上げた時、そこには悲しみとは別の感情が宿っていた。
「私の想いを、裏切ったわね!!」
血を吐くようなその叫びと、その顔にはっきりと浮かんだ憎悪に押され、アゼルは僅かによろめいた。
「アゼル!」
別の誰かの声が響いたのは、その時だった。
「!」
アゼルはパッと振り向いた。
その声が、リタのものだったから。
それを見たヴェロニカの形相がさらに険悪なものに変わったが、それには気付かなかった。
「アゼル! こっちに来て、早くこっちへ!」
久しぶりに見たリタは、元気そうだった。
彼女の無事な姿を見て、アゼルは心の底から安堵した。
どこかを負傷している様子はない。少し顔色が青白く見えるが、それは魔力切れのせいなのだろう。
だったら、心配はいらない。
彼女を心配した様子のマルクが肩を貸そうとしているが、それにも気付いていないようだった。
「何をしているの? そこは危険よ、早く!」
祭服を纏ったリタの姿は、花嫁のように見えた。
アゼルはふとそんなことを思った。
いつもの修道服と違い、白い衣装だからそんな連想をしたのだろう。
花嫁姿のリタが、マルクと寄り添っている。
それを見たアゼルは湿っぽい気分に囚われたが、すぐにその感傷を振り払った。
(……これでよかったんだ)
哀しむ必要なんてない。
むしろ、誇るべきだ。
(僕は二人を護ることができた。あるべき未来を、この手で護ったんだ)
そう思い、自らを慰めた。
「アゼル! 聞いているの? 私の話を聞いて!」
……それにしても、どうしてリタはあんなに慌てているのだろう。
アゼルは不思議に思った。
危険というのは何のことだ?
それならもう、去ったはずだが。
一向に動こうとしないアゼルに焦れたのか、リタは切迫した表情を浮かべると、さらに声を張り上げた。
「その女の人は悪魔よ! お願いだから、早くこっちへ!」
女の人?
そんなものが一体どこにいるのか。
怪訝に思いながら後ろを振り向いたアゼルは――
「!?」
そこに見知らぬ女が立っているのを見つけ、ギョッとした。
「な……」
思わず息を呑む。
このような妖艶な女を、アゼルは未だ嘗て見たことがなかった。
絹のように艶やかで、長く豊かな黒髪。
豊満な胸と、よく締まった腰つき。
女性らしい魅惑に溢れた肉感的なその身体を、女は奇妙な意匠の黒い布地で覆っている。
しかしその艶かしい肢体を覆う布地の面積は明らかに少なく、露わな白い肌が扇情的な雰囲気を醸し出していた。
そしてその切れ長の瞳は、夜の星のように青く神秘的に輝いていた。
見る者の目を奪わずにはおかない、魔性の美貌。
この女を一目でも見て、僅かでも心を動かさない男はいないだろう。
だが男の目を惹きつけてやまないその姿態は、溢れ出る魅力と同時にひどく油断のならない、一筋縄ではいかないような危険な印象をも観る者に与えていた。
当然ながらアゼルも、唐突に現れた見知らぬ女を警戒した。
が――すぐに気付く。
「お前……ゼラか?」
「――あら、何を言っているの?」
女はクスリと微笑んだ。
「もちろんそうに決まっているじゃない。私は貴方のゼルペンティーナよ、ご主人様」
「……何がご主人様だ」
アゼルは呆れたという声を出した。
それには構わず、見るからに上機嫌な様子でゼルペンティーナは続けた。
「ようやく人の姿を取れるようになったわ。小物とはいえ腐っても中級悪魔ね。いい養分になってくれたわ」
そう言うとアゼルに魅せ付けるように、その場でクルリと回転してみせる。
なんとも優雅な仕草だった。
とてもさっきまで爬虫類の姿をしていたとは思えないほどに。
だが、その背中に蝙蝠のような羽が生えていることにアゼルは気が付いた。
それによくよく見れば、彼女が纏っている黒い衣装は自分が纏っていた魔鎧と同質のものだ。
「どうかしら。お気に召してくださった?」
「もっとうまく化けられないのか」
そっけなく告げる。
パッと見は確かに人間のように見えるが、角や羽は隠しようがない。
おまけに尻尾も生えているし、魔鎧も見る者が見ればそれとわかってしまうだろう。
「失礼ねぇ。やろうと思えばできるわよ」
ゼルペンティーナは不服げに頬を膨らませてみせた。
いかにもわざとらしい声と、仕草だった。
「もっと他の感想はないわけ? せっかくあんたの好みに合わせてあげたっていうのに」
「……は?」
「あんた、こういう外見が好きなんでしょ? せっかくどんな姿にもなれるってのに、わざわざあんたの理想の姿になってあげたんだから。もっと素直に喜びなさいよ」
「お前、何言って……」
言いかけて、途中で言葉を飲み込む。
相手の目配せに気付いたからだった。
「アゼル、何をしているの!? 悪魔と話しては駄目よ!」
またリタの声が響いた。
振り向くと、リタはマルクに肩を抑えられていた。
よほど危機感を抱いているのだろうか? こちらに駆け寄ろうとして止められたようだ。
(え?)
その表情を見て、アゼルは少し驚く。
あんなに切迫した顔のリタを見たのは初めてだったから。
(……いや)
アゼルは疑問に思った。
あれは、「切迫」だろうか?
なにか違和感があった。
リタのあの顔は、切迫というより――。
(敵意?)
ゼルペンティーナに険しい目を向けるリタの顔には、確かにその表現の方が合っている。
だからこそ、違和感がある。
リタが誰かにあんな敵意を向けたことなど、かつてあっただろうか?
ゼルペンティーナは悪魔なのだから、警戒するのは当然かもしれない。
だが、それにしても……。
驚きに目を瞠るアゼルの肩を、ゼルペンティーナがちょんちょんと突つく。
顔を向けると彼女は意味深な笑みを浮かべ、目線でリタを示した。
「……?」
アゼルには咄嗟に、その意図が理解できない。
すると、それを見たリタがさらに声を張り上げた。
「アゼル、早く離れて!」
いつになく強い声の調子に、驚いて彼女を振り向く。
そして、その表情を見て。
(え……)
唐突に気づいてしまった。
――あれは。
――まさか。
(……『嫉妬』?)
突如として行き当たったその答えに、信じられない思いで呆然とする。
その衝撃が冷めやらぬ中、ふと、視線を感じて顔を上げた。
ゼルペンティーナが、自分を見ていた。
蛇の姿だった時と同じ。あの神秘的な青い瞳で……。
(ああ――そうか……)
それを見たアゼルは、ようやく彼女の意図を理解し――。
全てを受け入れ、或いは……。
諦めた。
「アゼル、何をしているの!?」
視線を交わす二人を見たリタがまた声を上げる。
「悪魔と口を利いては駄目! たぶらかされてしまうわ、早く――」
「必要ない」
「――え?」
「こいつが俺に危害を加えることはない。だから、そちらに行く必要はない」
「アゼ……ル?」
幼馴染の様子がいつもと違うことに、リタはようやく気が付いた。
彼女は戸惑った。
いったい彼は何を言っているのだろう? あれはどう見ても、危険な悪魔だというのに。
困惑するリタに向け、斬りつけるようにアゼルは続けた。
「この女は俺の『力』だ。だからもう、離れることはない」
「一体、何を言って……」
「俺はこいつと契約した。……そう言っているんだ」
「!」
リタは大きく目を見開いた。
「アゼル、何を言っているの? そんなわけ……」
否定しようとするも、その声は震えていた。
別人のように冷たい目で自分を見据える幼馴染の姿に、リタはショックを受けていた。
フラフラと歩み出ようとしたところを、マルクが引き止めた。
「事実だ」
「マルク……」
「あいつは悪魔と契約した。その力でクラリモンドを倒したんだ」
「――っ!」
リタが愕然とマルクを見返す。
相手の顔色からそれが冗談ではないと悟ると、今度はヴェロニカに視線を向けた。
そしてただならぬ形相でアゼルを睨みつけるヴェロニカを見て、言葉を失う。
口を開きかけ、また閉じ。
それを何度か繰り返し。
死人のように血の気の失せた顔で、リタはやっとのことで口を開いた。
「だい――大丈夫よ、アゼル!」
ヴェロニカから目を逸らしながら、震える声で続ける。
「聞いて! 私、聖女になったの。もう候補じゃなくて、本物の聖女よ。ウソみたいだけど本当なの!」
場違いなほどに明るい口調だった。緊張した場をほぐすように、リタは笑顔を浮かべていた。
無理をして作ったとイヤでもわかる、強張った笑みを……。
「聖女なら悪魔憑きを浄化できる。私はあなたを人間に戻せる!」
リタは駆け寄ろうとしたようだった。
しかしマルクに抑えられ、軽くつんのめる。
抗議の目で見られても、マルクは首を横に振るだけだった。
人間の姿になったゼルペンティーナが信用できるのか、マルクは測りかねているのだった。
諦めて、リタは再びその場から呼びかけてきた。
「だからアゼル。安心して――」
「……なぜだ」
「え?」
「なぜ失わなければならない。せっかく手に入れた力を、何故?」
「アゼル……?」
「仮にそうしたところで、俺はどうなる? こいつを祓われて人間に戻ったとしても、俺が一度悪魔憑きになったという事実は変わらない。教会は俺を罰するだろう」
「そんなことないわ! だって、アゼルは何も悪いことをしてないじゃない!」
「……っ!」
ヴェロニカが表情を歪めたことにアゼルは気付いた。
が、リタは気付かない。
「本当にそうか?」
アゼルも彼女には構わず、リタとの会話を続ける。
「教会はこの事件の真相を隠そうとするはずだ。修道院の司祭が悪魔憑きになって聖女を殺そうとしただなんて、公にするわけにはいかないからな」
「それは……」
「下手したら俺は犯人に仕立て上げられる。そうじゃないか?」
「そんなこと!」
「確かに教会は隠蔽を計るだろう」
否定しようとするリタに対し、マルクは一応の同意を示した。
その上で首を振った。
「だが、お前を犯人になど決してさせない。聖女になったリタだってそう証言する。教会上層部とて俺たちの声を無視できないはずだ」
「ええ……マルクの言う通りよ。あなたを犯人になんて、絶対にさせないわ」
「ふん、そうか? ならそれはいいさ」
アゼルはどうでもいいと言わんばかりに腕を振り、ぞんざいな口調で続けた。
「だが、だから何だ? せっかく手に入れた力を奪われて俺に何が残ると言うんだ。また何もできない無力な子供に戻れというのか。亜人の子供として蔑まれながら、他人の顔色を窺って生きろと? ……冗談じゃない」
マルクとリタを睨みつけながら、告げる。
「お前らのお情けに縋って生きるのは、もうご免だ」
「アゼル……そんな風に思っていたの?」
リタは哀しげに俯いた。内心の動揺を押し隠し、気遣わしげな表情を浮かべて。
それを見たアゼルは、密かに奥歯を噛み締めた。
「私達があなたに同情していると思ってるの? 私はただ、あなたの力になりたいだけよ。……だって、幼馴染じゃないの。困った時は助け合う、それが当たり前だわ」
「……」
「マルクだってあなたのことを心配して……」
「それが同情だと言うんだ。上から目線で見下ろして、俺を哀れんでいたんだろう」
「そんなことない!」
「どうだかな。……どちらにせよ、誰かに頼って生きるなんてもうまっぴらだ。せっかく悪魔の力を手に入れたんだから、この力を使って好き勝手に生きてやるのさ。お前らともこんな場所とも、今日限りでおさらばだ」
「アゼル……どうしてしまったの? あなたがそんなことを言うなんて」
リタは戸惑っているようだった。
「私には信じられないわ。あなたはそんな人ではない筈よ」
「……口で言ってもわからないようだな」
アゼルは一つ歎息すると、傍らで高みの見物をしていたゼルペンティーナの肩を掴んだ。
「え……」
リタがサッと顔を強張らせる。
それを横目で見ながら、アゼルは。
ゼルペンティーナの顔を引き寄せ、その唇に口付けした。




