第9話 江戸①
未来から来た男、秋月大地。暗い目をした彼こそが、容保とともに世界を修復するために必要なもう一人の人物だった。
大地は自分の働く会社の長い廊下を歩く。いつものように薄暗い廊下。
隣を歩く同僚が、ふと思い出したように呟いた。
「俺、主任になったから」
「おや、そうかい」
まるで気に留めていないふうに大地は言葉を返す。そして彼は事務所の自分の机に座る。
ふと気づくと、先ほどとはまた別の同僚がいた。しかし、座っている位置が違う。そこは彼の席だったろうか? 大地は思い当たって、ホワイトボードを確認した。所属者の名前が並ぶ一番上に、その同僚の名前が置かれていた。
「俺、課長になったから」
「たいしたものだね」
事務所を出て、また廊下を歩く。なんだかあまりに暗い。そしてこんなに長かっただろうか。階段を登り、また廊下を歩く。
途中で何人もの社員とすれ違う。誰も大地に言葉を掛けない。目すら合わせない。
やっと気づく。彼らには自分がもはや見えていないのだ。蛍光灯が点滅するのが気に障った。
向こうから女性が二人、連れ添って歩いてくる。彼女たちにも大地の姿は見えていない。見えても見えていなくとも彼女たちにとっては何の違いもない。二人の内のひとりは岬だった。
「わたし、総務の加納さんと結婚するの」
それは素晴らしい。
目を開けたとき、自分はどこかの旅館にでも泊まっていただろうかと、大地は勘違いしそうになった。
花が活けられ、掛け軸まである広い和室に彼はいた。日干しした布団の良いにおいが鼻をくすぐった。
「おや、目を覚ました」
ふわっとした声のほうを見ると、すこし離れたところで落ち着いた雰囲気の女性が座っていた。彼女は積んである書物の整理でもしていたようだ
年は大地よりも少し上だろうか。小柄で、明るい山吹色の着物がよく似合っていた。頭には小さな菊の花を象った黄金色のかんざし。髷の種類は岬ならば分かるのだろうか。
帯には短刀が差してある。
高貴な身分の女性なのだろうと、大地は思った。
顔立ちは地味だがとても品があった。
「死んだのかと思いました。覚えていますか? あなたは人の顔を見て倒れたのですよ。失礼なお方ですねえ」
「そうだったかな……どうも記憶があいまいで」
「気分はいかが? 朝餉を準備させましょう。宜しければご一緒に」
少しずつ意識がはっきりしてきた大地は、自分の着物が白い寝間着になっていることに気付いた。
「ここはあなたのお屋敷ですか?」
「わたしのものではありませぬが、住まいです」
ふすまの向こうを、何か運んでいる途中らしい人影が小走りでぱたぱたと通り過ぎるのが見えた。邸で働く女中さんたち、という感じだった。
「どうも迷惑をかけてしまったようですね。僕はここにいても問題ないのですか」
「みなには拾ってきたとだけ申してあります」
「それで納得するものですか?」
「するわけがないでしょ」
彼女が笑うと、細い目が何とも言えない愛嬌を醸し出す。
何も気にしていないような彼女の様子を見て、大地は少しずつ落ち着きを取り戻した。
気持ちの悪い揺らぎが今は消えていた。この時代に着いたときは、ほんとにヤバかったのだ。
「僕の連れもこのお屋敷にいるのですか?」
「あの二人は行かなければならない場所があると言って、すでに出立しました」
別行動、岬とかわひらこと。江戸時代で。
恐るべき事態だったが、それほど怖くはなかった。この女性の持つ穏やかな空気が、なんとかなるんじゃないの? という気持ちにさせてくれた。
「僕は秋月大地と言います。お名前を伺ってもいいですか?」
「照と申します」
大地は朝ごはんをご馳走になった。いわゆる上品な味付けで、彼の時代の食事と想像したほどの差違はなく、美味しかった。
黒い膳の上に乗っているのは、お吸い物に煮魚。野菜を煮たもの。それらの片隅に、大きめの湯呑があった。覗いてみると、なにやら白い液体が入っている。
向かいに座る照がその湯呑を両手で持って、中を見つめていた。しばらくそのまま固まって何かを考え込んでいるようであったが、ついに意を決した彼女は、くいとその白い液体を飲んだ。
「おお」
動物のフンでも踏んでしまった時のような悲しげな表情で、照はお腹へと流れ込んでいく液体の余韻を味わっていた。
「いとおかし」
「照さん?」
お付の女性が大地を睨んだ。睨まれても、どう彼女を呼ぶのが適切なのかよく分からない。
「美味しくないですか」
「薬だと思って飲んでいるのですが、慣れぬ」
「なんです、これ?」
「聞いたら驚く。牛の乳じゃ」
牛乳みたいだなとおもっていたら、やっぱり牛乳だった。この時代の日本で、牛乳はまだほとんど普及していなかったと聞いたことがある。
「へえ」
大地も飲んでみた。生ぬるいけども、確かに牛乳だ。味が濃くてなかなかおいしい。
「なんと。そなたは好き嫌いがない子なのか」
「そうでもないですけども、飲んだことあるんで。これってご飯と一緒に飲むものではないですよ。たまに平気な味覚の人もいるみたいですが」
「そんな気がしていた」
「コーヒーとか混ぜれば少し飲みやすくなると思いますが……」
「こおひいとは?」
そっちはまだ彼女の元には伝わっていないらしい。
「豆を炒って、すりつぶして煎じて飲みます。まっ黒で苦いです」
「その説明で飲みたいとは思わない」
食事が終わり、整った庭園を二人で眺めながらお茶を飲んだ。朝の陽ざしにつつじの葉の緑色がきらきらと映える。
屋敷の長い廊下は人通りが多い。ここは地方企業の東京本社のような場所のようだ。大地はそう理解した。それぞれの仕事の話が大地の耳に入ってくる。
何の話かわからないものもあったが、事前の根回しなど業務のノウハウのようなものは大地の時代と相通ずる部分がたくさんあるようだった。
「大地殿、町に出てみましょうか。お伴をしますよ」
「悪いです」
「遠慮しないで。どうせ退屈していました」
次回第10話 江戸②
2026年6月11日更新予定




