第65話 爆発
うちもうちなりに、守りたいものってあってな。
兎奇子が照姫に言った言葉は本心だ。
うちのいる時代、幕末のこの人たちから見れば、数百年後のはるかな未来。そこには歴史がない。
天変地異と、人の落ち度、両方が原因らしい。未来の人類は、過去の記録を一度バッサリ失ってしまった。
時間を移動する技術は、『歴史』を取り戻すために開発された。
未来から過去の時代へ向かう目的が人を傷つけることではなかったとしても、来られる方からすればうちらは侵略者。どうしても戦う準備が必要である。だからうちが遣わされた。
頼母じーさまはうちに教えてくれた。人は、ただ生きているだけでは人ではないらしい。
学び続けてこそ、人は人なり。
その考え方がなんだか気に入った。未来に持って帰りたいと思った。
未来にも学ぼうとしている人はいるのだと、だから自分はやって来たのだと、じーさまに伝えたかった。
「大砲……!」
兎奇子は身構えた。
日新館の南門前を守る、兎奇子、そして照と斎藤一。
それぞれが一騎当千の強さを見せつけ、手を焼いた西軍の兵たちが大砲を持ち出してきた。
照が斎藤に声をかけた。
「斎藤殿、これはさすがにわたしに任せてください。兎奇子も下がって」
彼女は聖刀を手に進み出る。
至近距離から砲弾が放たれた。それと同時に照は自分の目の前の中空を真一文字に切り裂いた。
彼女によって生じた黒い光はいままでとは比較にならないほどの規模と大きさで、飛んでくる砲弾に絡みついた。砲弾は黒い壁にぶつかり、龍の咆哮のような音を立て、もがいた。
無理やり軌道を変えられた砲弾は、照たちの上に逸れて、門に直撃した。大きな音とともに南門の屋根が砕け、たくさんの瓦が音を立てて落ちた。たくさんの土煙が上がり何も見えなくなる。
視界が晴れると、砲弾は地面に転がっていた。兎奇子がそれに気づく。荷車のすぐそば。そこには容保と春英が汗だくになってかき集めた書物がたくさん積まれていた。
(あれ、この砲弾って時限式でどかんと来る奴?)
兎奇子は叫んだ。
「照姫、あんたの力で砲弾を包み込んで!」
「え?」
照の反応が一瞬遅れた。
(あ、しまった。照姫は時限式の砲弾を知らなかったか)
じゃあ、しゃあないな。
兎奇子はこのとき思った。
荷車のすぐそばで爆発したら、積んである本は駄目になってしまうだろう。でもそれは仕方がないことだ。
兎奇子は駆けだした。
もともと助ける義理などない。西軍から書物を守るために思わず槍を振るってしまったが、こんなこと、与えられた業務でも何でもない。
兎奇子は砲弾の上に覆いかぶさった。その瞬間、爆発が起こった。ものすごい衝撃。
(あれー。うち、なんでこんなことしてもうたんやろ?)
南門で騒動が起こっている一方で、容保と春英は焼けた日新館の中を歩き回り、汗まみれ、煤まみれになって残った書物をかき集めていた。
「静かになったようですな」
春英が南門のほうを見た。
「うむ……。任せてしまったが、いざこざは終わったのだろうか」
容保もそちらを向いた。
池の前に兎奇子が立っていることに容保は気づいた。手には本を持っている。
「兎奇子殿、無事であったか」
容保は兎奇子に向かって歩いていく。
兎奇子は持っていた本を、近づいてくる容保に向けて差し出した。
「焦げてもうた。でも、まだ読めるよ」
兎奇子の手から本がすっと零れ落ちた。庭の芝の上で、本はパサリと音を立てた。
そして、兎奇子は後ろ向きにゆっくりと倒れた。池に落ちて、水しぶきが上がった。
「兎奇子殿!」
容保が駆け寄った。門の向こうには、敵をすべて追い払った照と斎藤もその様子を見て茫然としていた。
***
会津戦争のあとの話を少しだけ。いわゆる(余談ではあるが)というやつ。
会津の武士たちは、新政府により会津を立ち去ることを命じられた。
移ったさきは、のちの世の呼び方で言えば青森県。未来では住みよい場所であるが、このころはまだ開拓されていない土地がたくさんあった。会津の人々が移り住んだ場所もそのひとつ。
想像を絶する苦労の日々が始まった。厳しい寒さと雪。食べ物がほとんどない。それまでそんなことをやったことのない彼らは必死に新たな田畑を興そうとしたが、一年や二年でうまくいくはずもない。病で死ぬもの、餓死するものが続出した。
『斗南』とあらたに名付けられた会津人たちを率いたのは山川大蔵。大地たちと一緒に彼岸獅子を利用した鶴ヶ城侵入作戦を思いついたあの人。若い彼にとってそれはあまりに過酷な役目でした。
地獄の日々のなか、彼らは斗南の地に学校を作る。斗南藩校日新館。
他に優先すべきものがあるのではという声は、当然少なからずあった。しかしそれはある意味いつものこと。
人材の育成、子供たちの教育。苦しい時だからこそそれは最優先事項とすべきこと。それが先人から受け継いだ会津人の愚直な信念だった。
もちろん学習に使う書物は足りない。でも少しならあった。会津の日新館から燃え残った書物を持ち出せるだけ持ち出していた人々がいた。そしてそれを遠く青森まで運んだ。
未来の会津若松で江戸時代の日新館の書物が新たに発見されることは、残念ながらまずない。しかし、青森ではたまにある。
藩校というものは元来武士だけが通うもの、男子だけが通うものだったが、会津の人々が斗南に作った学校は、武士の身分でなくとも学ぶことができる、そして女子でも入学を許される学校だった。新しい時代の学校を会津の人々は夢に見た。
しかし斗南藩校日新館が長く続くことはなかった。数年後には、新政府によって全国の武士による統治の仕組みが完全に廃され、斗南も解散を命じられる。
歴史の中でほんの短いあいだだけ存在した学校。しかし意味がなにもなかったわけではない。
斗南の日新館があったおかげで教育を受けることができた青森の子供たちが確かにいた。
そのなかには後に全国に近代的な学校が設置される時代になった時、教職を得ることができた、青森県の近代教育の礎となった人々がいたと言われている。
彼らの夢に意味はきっとあった。




