第63話 屋根の上の兎奇子
「兎奇子殿か。そんなところでどうした?」
屋根の上に立つ兎奇子の手には本があった。それをぺらぺらとめくり、それから容保たちを冷たく見つめた。
「容保はん、あんたら急いでいるとちゃうん。何を寄り道してんの?」
容保が自分の隣の二人の様子を横目で伺うと、照の顔には緊張の色があった。春英は何が起きているのか理解できずにいるようす。
「わたしは日新館に焼け残っている本をできるだけ集める」
「ふうん。こんなものをねえ」
兎奇子は手にした本を眺めて、書かれている言葉をもういちど読んだ。
博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う。
「頼母のじいさまにいろいろ教えてもらったけど、書かれているのは結局きれいごとやな」
「いまの言葉も頼母が教えたか?」
「そうや。繰り返し繰り返し、そらで言えるくらいに」
「近く思う、『近思』は頼母の父上の名だ」
「え、そうなの?」
兎奇子の顔に戸惑いが浮かんだ。
「頼母は、父の名を、そなたに伝えたかったのだろうか」
「どうして?」
「聞いてみなければわからないが……、ただ、頼母は娘を亡くしている。だからかもしれぬな。あるいは」
兎奇子はそれを聞いて、容保から顔をそむけた。
「容保はん……本を集めてどうなる?」
「誰かがいつかそれを読む。そなたのように」
兎奇子は容保のいうことなどに興味がないかのようにため息をついた。
「うちはちょっと通りかかっただけや。あんたらと戦うのは別に今夜じゃなくともいい」
大成殿の屋根の上からふわっと飛び上がり、兎奇子は姿を消した。
春英が容保に問いかけた。
「何者ですか、いまのは?」
「前に少し世話になったが、何者かと言われれば、まあ敵だろうな」
容保は兎奇子のいなくなった屋根を少しの間見つめて、それから春英に向き直った。
「邪魔が入ってしまったが、大丈夫なようだ。さて春英殿、わたしに手伝わせてくれ。本を集めよう」
「ええ、そうですね。急がないと」
夜間にもかかわらず、日新館の近くでいまも戦闘が発生しているようだった。銃声が断続的に聞こえてくる。
危険な状況だった。急がなければならない。
春英が先頭になり、東塾の建物へと入っていった。焦げた臭いが強まる。
平和な時代は、武士の少年たちの声が響き渡った教室。
提灯で照らしながら本を探す。焼けた建物はところどころに隙間があって、差し込む月明かりが容保たちの探索を助けてくれた。
「あった……が、これはさすがに損傷が大きすぎるな。どうだろう、春英殿」
「ああ……それはさすがにちょっと。あきらめるしかないですね。でもある程度の焼け方のものならば集めておきましょう。一部でも読むことができるなら、使い道はある」
「わかった」
照も、おぼつかない足取りで暗い建物のなかを歩き回っていた。
「いろいろなものが散乱している。姉上が歩き回るのは危ないですね」
「でもわたしも手伝いたい」
「そうですね、では姉上は、見つかった本を南門に置いた荷車まで運んでください」
「わかりました。どんどん見つけてくださいね」
容保と春英は、状態の良い書物を見つけると廊下に置いた。数がたまったところで、照は本を両腕で抱えて持ち出した。
南門に出ると、荷車の脇にはここまで一緒に来た編み笠を深くかぶった男が立っていた。
「ああ、本が見つかったか。良かった」
「これ、お願いして宜しいですか?」
「そこにおいてくれ。俺が積んでおく」
「次々ともってきますので、頼みますね」
「あまり無理をするなよ」
その男に本を任せて、照はふたたび日新館のなかへ戻った。二つ目の門の下で、照はいまの男のほうを振り返った。
「いまの人……何者?」
容保と春英は次々と本を見つけることができた。東塾の探索が終わると次は西塾。その次は大学と礼式方を順にまわった。
「容保さま、大丈夫ですか?」
提灯の明かりに照らし出された容保と照は、ふたりとも服が本についた煤で黒く汚れていた。
容保の額には汗が光っている。
「姉上こそ大変でしょうに。わたしは、……やってみるとまあ大変ですが、何故だか気分がいい。……まっとうなことをしている。未来につながる仕事をしているという気分です」
汗だくの容保は嬉しそうに笑った。
照は荷車との間を6回往復したところで、さすがにちょっと疲労を感じた。
「ふう、わたしは少し休憩」
照は大成殿と礼式方を結ぶ渡り廊下にもたれた。
「疲れたやろ、飲む?」
「きゃ」
兎奇子が後ろから竹の水筒を差し出した。
「兎奇子……?」
照は怪訝な顔で、兎奇子と水筒を交互に見た。
「毒かも知れんね」
水筒を左右に揺りながら兎奇子は笑みを浮かべた。
「なんなのよ」
照は水筒を兎奇子の手から奪って飲んだ。普通のおいしい水だった。
飲み終わって、水筒を兎奇子に返した。
「ありがとう兎奇子。……わたしなら手段を選ばないけどね。あなたが殿に仇名すというならば」
「ほう」
「わたしはただ殿を守ることができればそれでいい。あなたが死ねばそれでいい。わたしは黒い人」
「うん、さざえ堂で長い時間一緒だった時、そういうのは感じ取れたよ。怖いなあと思っていた」
「あれはお互いに疲れる時間だったね」
それから二人は黙った。
「戦いなんてやめちゃえばいいのに」
「そうもいかんのよ。うちもうちなりに、守りたいものってあってな。容保はんはやさしくていい人やから、やっつけるのがもったいないなとは思うんやけど。男前やし。……照姫はん、顔がごっつ怖いで?」
「べ、別にですねえ……」
照がなにか言おうとしたとき、南門のほうから、言い争うような声が聞こえてきた。
荷車の周りに人だかりができていた。
「敵兵だわ」
照が飛び起きて、走りだした。




