第62話 春英の思い
照は空をにらみつけていた。そこにいる兎奇子と寅太に、今のところ彼女だけが気づいているようだ。
戦う覚悟はあったが、春英を巻き込むことは避けたい。
「西塾と東塾も、8月になると負傷者の治療場所として使われるようになりました」
春英が語り出した。焼焦げたにおいのする日新館の建物を見渡しながら。
容保は黙ってそれを聞いている。
春英は目を閉じた。過ぎ去った日の記憶が脳裏に浮かんでいるのだろうか。
『おじゃましまーす!』
『こら、また来たのか。訓練はどうした?』
『休憩時間ですよ。本を読ませてもらいます』
『それどこじゃない状況が見て分らんかねえ』
その若者は白虎隊士だった。訓練の合間に、家に戻るよりも日新館のほうが近くて、何度も春英のもとを訪れた。
「わたしは素読の試験を受けるんです。この前、一等に落ちちゃったので、今度こそは」
『試験か……しかし今はいくさの真っ最中だ。次の試験は恐らく中止だろうよ』
『だったらいくさが終わってから、その次の試験を受けるよ』
日新館には生徒のための書物がたくさんあったが、いまは部屋の端のほうへ追いやられ、積み上げられていた。
たくさんの生徒たちが座り、大きな声で書物を読んだ教室が、その頃は傷ついた兵士たちを寝かせる場所に変わった。
退屈しのぎに積まれた本の一冊を読む男がいた。足に銃弾を受けて歩くことのできない兵士のひとり。
『懐かしいなあ。ここで勉強していたころは苦手だったけれど、いま読むと面白い。年取ってからのほうが、いろいろ腑に落ちる』
包帯の準備をしながら春英は、ぼそぼそとつぶやいた。
『面白いと思う感性があるやつがうらやましい』
『おや、春英先生はつまんないのかい?』
『おもしろいのかつまらないのかなんて、考えながらやったことがないね。生きるために必要な技術を身に着けることがすべてだった』
春英は日新館で学んだことがない。この学校は会津の若者のなかでも、上級武士しか入学ができない。農民の出である春英は、会津の医師に弟子入りして医学を学んだ。
仕事が終わり、ひとりになった春英は本をぱらぱらっとめくってみた。
『そうか、これって人によっては面白いものなのか……』
春英は目を開けた。そして、焼けた日新館を眺めた。
「みんな死んでしまった。あの子はもう試験を受けることができない。あの男が面白いと言った本も、日新館と一緒に焼けてしまった」
「無念であったろうな」
容保も彼と一緒に、月の光を受けて浮かび上がる建物を見ていた。
「しかし焼けずに残った本が、ここには探せばまだある。数は少ないが、雨風でだめになってしまう前に、わたしはそれを回収しようと思う」
「そうか、それがここにきた理由か、春英」
春英は小さく一つうなずいた。
(本……。誰もが目の前のいくさのことで頭がいっぱいの時に、この男は本を)
容保が春英の思いについて考えを巡らせていたその時、甲高い音が聞こえた。
照が一瞬、空のほうを見て、それから周囲を確認した。
「銃声ですね」
さきほどから大砲の音は時折聞こえたが、それとは違う。音は一度で収まらなかった。二度、三度と響き渡る。
「戦っている、近そうだ。春英殿、今日は戻った方がいいようだ」
容保は呼びかけたが、春英は聞こえていないかのように動かない。
「容保さま、それはだめです。戦況は良くない。今夜を逃したら、次があるかなんてわからない。なあに大丈夫、敵がここまでくるとは限らない。わたしは本を探す作業をはじめます」
春英はそういうが、銃声はどんどん数を増し、重なり合う。
(小競り合い程度ではない、大きな戦闘になるかも)
容保は思った。
外で待っているかわひらたちも気にかかる。
「春英殿、本も大事だが、自分の命を大切にしなければ」
「恐れながら容保さま、時として本はわたしの命などよりも大事なのです」
「どうして、そこまで」
「自分が本のおかげで人生を切り開くことができた人間だからこそ、わたしは切にそう思う。本を残すことは、生きている者たちの責務。届けなければならぬのです、それを必要とする未来の誰かのために。そして、この本を読んだ今はいない者たちのために!」
(これほどの熱情を持つ男であったか、古川春英)
この世界のために自分ができること。春英もまたそれを探す人間だった。
未来の誰かのために、彼は本を残す。
照が不安げに容保を見つめている。姉上、わかっております。ここは退くことが正しい、けれども。
このとき容保はなぜだか、未来の世界で出会った頼母のことを思い出した。本の読み方を教えていた。近所の子供たちに、それから……。
「この容保に手伝わせてくれ、春英」
気づくと容保はそう口にしていた。
「いやいや、あんたは逃げてくださいよ。ケガでもさせたら償いきれない」
「お前が逃げるなら、わたしも逃げるよ」
容保が照のほうを見ると(しょーがねーなー)というような苦笑をしていた。
「姉上もお付き合いいただけますか」
「わたしだけ逃げろなんて言ったら、ある程度ひっぱたくところでしたよ」
遠くでは、銃声に加えて、人の叫びまで聞こえたような気がした。やるのであれば急ぐ必要がある。
その緊迫した中で、場違いに思えるような澄んだ声がした。
「博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う」
容保たちが声のしたほうをみると、大成殿の屋根の上に兎奇子が立っていた。




