第6話 秋月大地②
赤いセーターにジーンズをはいた岬の笑顔がそこにあった。今日の昼間に他の男と結婚することを自分に話した彼女。
彼女の暖かい安らいだ表情は、大地が今までに見たことのないもので、彼は何も言葉を返すことが出来ずにいた。
大地が知る、もうひとつの世界での、会社での彼女と違って髪は短く、まるで別人のようだったが、確かに大地がずっと好きだった岬だ。
大地の落ち着かない様子を見て、岬の笑顔が深みを帯びた。
「ビール飲む?」
彼女は大地の戸惑いを、仕事が大変だったのだろうと受け取ったようだ。察してくれたようだ。
岬に促されて大地は靴を脱いで『我が家』の中へと歩みを進めた。途中で振り返ると、閉じる扉の向こうでかわひらこが口の動きで「また明日」と言っていた。
リビングでは大きな液晶テレビで野球中継が流れていた。片方のユニフォームに見覚えがない。
大きなリビング。大きなベージュ色のソファー。ガラス製の品の良いテーブル。
促されるままに大地はカバンをソファーに置いて、ネクタイを外した。
小ぶりの食卓には、レタスを下敷きにして大きなコロッケが山のように盛られていた。大地の好物だ。
岬が冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、二つのグラスと共にテーブルに置いた。
「米は後でいいよね」
彼女は大地にグラスをわたしてビールを注いだ。それから瓶をテーブルに置こうとして、一瞬の躊躇の後、自分で自分のグラスにビールを注いだ。
「ほい、乾杯。お勤めご苦労様でした」
カチンとグラスを鳴らして。岬はビールに口をつけた。大地もそれにならった。
実はもう僕は、世界の裂け目とやらに落ちて、すでに死んでしまっているのではないか。部屋をもう一度見回しながら、大地は思った。
本当はかわひらこも赤毛の牛なども存在していなくて、いまわの際に凝った設定の幸せな夢をみているだけなのだろう。それでよかった。
「ねえ」
空いた彼のグラスに、再びビールを注ぐ岬に向かって、秋月大地は尋ねた。
「ん?」
「あなたの名前を教えてください」
「えー?」
岬は首をかしげた。何の冗談かとでもいうふうに。大地が「どうか教えてください」と繰り返すので、「いいよ」と彼女は姿勢を正して、こほんと咳払いをした。
「秋月岬です。以後お見知りおきを」
大地は天井を見上げた。二人を幸せに照らし続ける明かりを見つめて、彼は涙をこらえた。
「ありがとう。ずっとこんなふうになりたかった」
「うん、わたしもありがとう。コロッケ食べてよ、大ちゃん」
岬の作った大きなコロッケを小皿によそって、箸でほぐした。口に含むとジャガイモの香りが広がって、とてもおいしかった。それからソースをかけて二口目を食べた。
「うまいなあ」
岬もコロッケを口に入れて、満足そうに、自慢げに、微笑んだ。
「おいしいね」
大地がビールの瓶を持って岬に向かってかざすと、彼女は嬉しそうにそれをうけた。
食事のあと、大地はお風呂に入った。自分のアパートの風呂よりもだいぶ大きい湯ぶねに肩まで浸かりながら、彼は深く息をついた。
もしかしたら今頃、向こうのアパートの小さな風呂では、こっちの世界の自分がわけもわからずに湯ぶねにつかっているのではないだろうか。そんな想像をした。
風呂から上がり、明かりの消えた寝室をのぞくと、岬はすでにダブルベッドにもぐりこんで眠っていた。
大地は家の中を歩き回った。マンションの間取りは2LDK。大地の書斎らしき部屋があり、三段の本棚には、大地が読んだことのない本がびっしり並んでいた。
デスクトップのパソコンを見つけたので机に座って電源を入れた。
パソコン画面にはログインパスワードの入力画面が表示された。大地の誕生日を入力してみたが違った。正解は岬の誕生日のほうだった。彼女の誕生日くらいは知っている。
仕事に関するものは少なかった。セキュリティの問題で家に持ち帰ることがはばかれるからだが、下準備としての資料集めの痕跡が見つかった。こちらの世界の大地は意欲的に仕事と向かい合っている様子がうかがえた。務めている会社は同じのようだ。
扱っている製品や、顧客状況が色々と異なっていて、大地はそれらを興味深く眺めた。
「こっちで働こうと思ったら、ことあるごとに勘違いを起こしそうだな」
しかし、できないこともなさそうだ。
岬と撮った写真がまとめられたフォルダーがあった。
函館の夜景や横浜中華街で撮られた二人の写真。新婚旅行はイタリアにいったようだ。
まるで彼女の作ったコロッケのような、ほくほくとした時間が写真の中から伝わってきた。大地の知らない岬。そして大地の知らない大地がそこにいた。
「フリーズ」
ふいに背中に指を突きつきられた。パソコンの画面に意識を集中していて、岬の接近に気が付かなかった。
「起こしちゃった?」
平静を装いながら大地が振り返ると、岬の強張った目が彼をじっと見つめていた。
「大ちゃん、もしかして記憶がどうかなっちゃったの? 晩御飯の時からあなたは少し変だった」
「そうとも言える」
「まじめに話して、お願い。必要ならばお医者さんに行かなくちゃ」
「僕自身もよく分かっていないんだ。説明するのは難しい」
「それでも話して。わたしはあなたを失うわけにいかない」
「うれしいよ」
かわひらこと赤べえに会わせよう。大地は思った。
ビジュアルに訴えるのが最善だ。
「暖かい格好をしなよ。外で見て欲しいものがある」
二人は、フリースやらを着込んでエレベーターに乗り込んだ。
下る四角い箱のなかで、大地は岬の顔を覗き込んだ。彼女はうつむいたままだった。
「きゃ」
「どうも、こんばんは」
大きな赤べえと、小さな平安貴族かわひらこを目の当たりにして、岬は驚いた。
「わたしはかわひらこ、千年以上の昔、皆さんのいうところの平安時代からやってきました。時空間に異常が発生していないかを管理することがわたしの役目でおじゃる。いま、世界は大変なことになっています。二つに分かれて乱れている。このままではすべての世界が……」
話を聞きながら岬がどんどん引いていく。危ない人を目の前にしたときの顔になっていく。
「えっとね、大ちゃん。わたしは、救急車とパトカーのどちらを呼ぶべきなのか、もしくは両方か。そこのところをどうか教えてください」
岬の様子を見て、かわひらこは不満げに口をとんがらかせた。
「岬さん、失礼」
「え、ちょっと、何すんのよ!」
「えい」
かわひらこは岬を両手で突き飛ばして牛車の中に押し込んだ。
かわひらこも中に乗り込むと、赤べえが走り出した。そしてすぐに牛車ごと浮かび上がった。
空をかける赤べえと牛車は、ある程度の高さまで上ったところでシャボン玉がはじけたかのように、ぱっと姿を消した。
「……これは、だいじょぶか?」
何もない空中をみてぽかんとする大地。しかし次の瞬間、牛車は戻ってきて大地のそばに停車した。
中からは興奮気味の岬が飛び出してきた。
「とんでもない。これ、マジの奴だ」
どうやら彼女も納得したようだ。
次回 第7話 秋月大地③ は6月8日(月)に投稿予定です。
来週もよろしくお願いします。感想、ブックマーク等いただけますと大きな励みとなります。




