第53話 いつかまた陽の照らす場所へ
汽船の甲板で、慶喜と照姫は並んで手すりに持たれていた。
穏やかな海を月の光が淡く照らし、夏の夜の風が心地よくふたりの頬に触れる。
慶喜は何杯目かのグラスを空けた。
「照姫殿も一杯どうだ」
「船酔いが大変なことになりそうですが……いいですよ、一杯だけ」
慶喜がボトルのワインをグラスに注いで、彼女に手渡した。
「この年になって、これほど気持ちよくだまされるとは思わなかったぞ。しかも会津の姫君に。あなたとはもっと早くに会いたかった。善き友になれた気がする」
「それはきっと、いつごろ出会うかによりますね。時期によっては友どころかとても険悪なことになっていたかも」
「言えてるな」
照はグラスを傾けて、それから柔らかい笑みを慶喜に向けた。
「慶喜さま、わたしは楽しかった」
「そうかね」
「わたしはこれから戦争の時代に戻らなければなりません。会津へ。わずか数日ですが、この時代のことがとても名残惜しい。見ることができなかったはずのものを、わたしは見られた。それからあなたにも会えた」
「どうしても行かねばならぬのだな?」
「わたしにしかできないことがあります。そして、兎奇子とも決着をつけなければならないでしょう」
照はわずかに残っていたワインを飲んで、グラスを置いた。
「来てくださいね、わたしのお墓参りに」
「もちろんだ」
そして彼女は慶喜の胸に近づき、ぽふんと顔をうずめた
両手にグラスとボトルを持っていた慶喜は手を広げて少し慌てた。
「おっと」
「どうかあなたは長生きしてくださいネ」
***
翌日の東京は曇りだった。厚い雲が空を覆う。
上野駅では人だかりができていた。
その中心には、松平容保がいる。すっかり白くなった髪と、端正な顔に刻まれた深いしわが、会津戦争からの20年を感じさせる。
明治21年7月15日の磐梯山大噴火による被害状況は、新聞でも報道が始まっていた。
死傷者が数百人に及ぶのではという恐ろしい情報があるなか、容保は被災地の近く、猪苗代へと向かうことを決断した。
会津松平家家臣のうち、東京に住んでいるものたちがそれを聞いて急遽、上野駅に集まった。何人かは猪苗代まで一緒に向かう。
ホームで彼らは福島へと向かう汽車を待っていた。
緊急の事態ではあるが、久々に会う面々も多く、ぽつりぽつりと会話が続いていたが、そのとき遠目からでもわかるほど、容保を囲む一団に緊張が走った。
会津松平家の旧家臣たち、そして容保の前に、徳川慶喜が姿を見せたのである。彼はひとりだった。
それがどういう意味を持つかは、そこにいる誰もが理解していた。
江戸時代のころ、家臣たちにとって慶喜は雲の上、天の上の存在だった。このときはじめて姿を見たものも多くいただろう。
慶喜にいい感情を持たない会津の家臣は多い。容保自身もとても複雑な思いを抱いているはずだった。
徳川慶喜はゆったりした歩みで容保に近づいていく。慶喜の表情は硬い。こちらからは容保は背中を向けていて、その顔が見えない。
突然家臣たちが一斉に慶喜を見た。彼が何か言葉を発したようだった。
慶喜の言葉を受けて、容保の両肩がすこし揺れた。彼は笑っているらしい。
そして慶喜が二言三言と言葉をかける。慶喜も笑っている。容保がそれに応える。
ふたりの20年ぶりの会話は続いた。まわりの者たちはとても不思議なものを見ているような顔で、そのなり行きを見守っていた。
猪苗代に到着してのちのこと。容保は義援金を集める活動に移る。
会津戦争に敗れて20年後の会津松平家家臣団は、苦しい生活を強いられている者も多かった。しかし 容保の呼びかけに、できる限りの募金が全国より集まったと言われている。
そして松平容保は、この数年後に59歳でその激動の生涯に幕を下ろす。
これが最後の会津だろう、このとき本人もおそらくそれが分かっていた。
明治時代に入ってからの彼が残した言葉は多くない。
ただ『向陽處 』という書を容保は書き残した。
会津戦争の敗戦後、それぞれの場所でつらい思いに耐え忍ぶ自分の家臣に向けた言葉。
今はつらくても、いつかまた、陽の照らす場所へたどり着こう。
容保と慶喜の会話が終わり、家臣たちの緊張が少し和らいだようだ。
ホームへ容保の乗る汽車が煙を吐きながら近づいてきた。
そのとき、曇り空の隙間から陽射しが漏れた。
その美しい筋が容保たちを照らす。
容保は空を見上げ、それからふと振り返った。線路を挟んだ向こうのホームのほうに目をやった。
そこに照はいた。
この時代の照姫は4年前に亡くなっている。
しかし今、若くて元気だったころの照が、線路の向こうから年老いた容保を見守っていた。
暖かい陽射しのような微笑みを浮かべて。
容保は安らいだ表情でしばらく照を見つめていた。そして最後に右手をほんのわずかに上げて、小さく笑った。
照も笑顔を返して、容保に向かって深くお辞儀をした。
やがて汽車が北へと走り去った。長い煙の尾がいつまでも空に続いて、照はそれを見つめていた。
それから駅のホームのほうへ視線を戻すと、松平家の人々はもういなくなっている。
人が少なくなったホームの、そのもっと向こうにはひとり人影があった。その人は照のことをじっと見ている。
若き姿。その瞳はこれからの使命を前に力強い光を宿している。
松平容保。
時空の果てに飛ばされたもうひとりの彼もまたこの時代にたどり着き、こうして再び照とめぐりあった。
容保に向けて照は語りかけた。
「さあ殿、わたしたちの続きをはじめましょうか」




