第52話 もういちど、やり直すことができたなら
そのとき慶喜の口から出た言葉に、おそらく彼自身が一番驚いていた。
照を相手にした芝居、練習であるとはいえ、いま彼は、容保に本心からの言葉を伝えた。
あのころ徳川第十五代将軍として、そのような言葉を京都守護職松平容保に伝えたというのは、きっと一度もない。
「慶喜さまが、わたしなどにそのようなことを申してはなりませぬ」
「なぜだ。これはわしの本心だぞ」
ここは明治21年。東京へと向かう汽船の甲板。新しい時代。
しかし、このときそこにいたのは、確かに若き日の松平容保と徳川慶喜。
照は目をつむり、うつむき、それから顔を上げて穏やかにささやいた。松平容保として。
「慶喜さま」
「容保よ」
容保はそっと横を向く。そして夜の海を見つめる。まるでそこに冬の風が吹いているかのように。
その向こうで徳川の兵たちが今でも戦っているかのように。
容保はゆっくりとつぶやいた。
「わたしはどうしてここにいる?」
慶喜はその言葉を聞いて、自分の血が熱をもって逆流するような思いだった。
容保がなおも続ける。
「わたしはどうしてここにいる?」
(これが一番良い方法だ)
あのとき慶喜はそういった。時、慶應4年1月、場所は幕府の軍艦、開陽丸の甲板。
京での大きな戦いのさなか、慶喜と容保は戦場を離れた。兵たちを置いて。
慶喜は大きく左右に首を振った。そして容保を見据えて言葉を絞り出した。
「最悪の事態を避けるために下から二番目の選択をするのだ。不満はわかるがこらえてくれ。わしの判断のせいで、このいくさ、徳川は負ける」
彼は幕府が勝つことよりも、『徳川慶喜は帝とは戦わない』という姿勢を示すことを選んだ。
戦っている部下たちを置いて。
「兵たちは!」
容保が叫んだ。
「自分のすべてを自分の人生にぶつけたいのです。われら指揮官が自分を信じていると思い込むことができれば、きっと全力で戦い満足して死んで行く。それは武士である我らが彼らに与えることのできるたったひとつのもの。しかしあなたとわたしはそれを奪おうとしている」
「言っていることは分かる。しかし容保、『お前を信じる』などと、口で言うのはたやすい。それだって結局はどう言い繕っても、わたしが兵をだましていることに変わりなかろう」
「だましてくださいよ」
容保のまっすぐな言葉に、慶喜はたじろいだ。
「わたしも戦いたいのです。あなたに信じてもらっていると思い込みながら」
慶喜は目を閉じた。乱れそうな呼吸を深く吐いた。
「……一生に一度しか言わぬから、聞くのだ容保」
「はい」
「失敗を恐れるのがわしの仕事だ。だからわしは退く。だが勘違いをするな。戦って勝てぬとは思っていない。わしはお前たちを信じている。俺の徳川はもっとやれたんだ……!」
知恵ものぶってみたところで。慶喜は思った。
神君家康公が我らの血に残した猛き思いは、そう簡単に薄れるものではなかったか。
「……慶喜さま、わたしたちがいるこことは違う世界があるというのです。そこでわたしは晴れやかな心で戦うのだろうか?」
「ふむ」
海の向こうを見つめる慶喜の目は穏やかだった。
彼にとっての鳥羽伏見は今ようやく終わったのかもしれなかった。
「もし俺とお前が、ただの武士として戦うことができる世界があるのなら。俺をそこへ連れて行ってくれ、容保」
「ええ、必ず」
汽笛が鳴った。その大きな音で、自分が明治21年にいることを慶喜は思い出した。
目の前には照がいる。慶喜は彼女を見つめて、一度二度と大きくうなずいた。
「いや、見事であった、照姫殿。この慶喜、感服いたした。まるで本当にあのときの容保と話しているようだった。おかげで、わしもつい必死になって思いのたけをぶつけることができた。そなたとの練習、きっと本番に生かしてみせるぞ」
慶喜の熱っぽい言葉に、照は何も答えない。口元に小さく笑みを浮かべただけ。
気づくと照のそばに、彼女と一緒にこの時代に来たかわひらことやらが浮かんでいた。
かわひらこは手にした扇子を照に向かって振りかざした。
すると、ぱちん、と音が鳴ったかのように、照の表情が変わった。彼女はあたりを少し見まわしてから、慶喜をみていたずらっぽく微笑んだ。
「いまのが本番だったのですよ? 慶喜さま」
「照姫殿?」
慶喜には照の言ってる意味がまったく分からない。
照はうれしそうに体を揺らし、笑っている。
「このかわひらこが不思議な力をもつことはご存じでしたよね。彼の力を借りて、いまこのとき東京にいる容保さまの意識だけを一時的にわたしのからだへと移し替えました。先ほどあなたが話したのは本物の容保さまです。慶喜さまの言葉はすべて容保さまに伝わりましたよ」
「は?」
慶喜は固まった。動きも、思考も。
意味もなく月を見て、空になったワインの杯を見た。
汽船の機関音がせわしなく耳に響く。さっきまで気にならなかったのに。
「あなたは、何を……してくれているのじゃ」
あまりに予想を超えた照の言葉に、慶喜は唖然とするほかない。
「実のところ、あなたがわたしの予想を超えて本音を話すのが不得手そうだったので、こうするのが一番良いのではと考えました。申し訳ありません、さんざん貴方に向かって、正直にだの、素直にだの申しておりましたが、策を弄したのはこの照のほうでした」




