第51話 続・慶喜の練習
東京へ向かう夜の船の上で、練習が続いている。
20年ぶりに、慶喜が容保に会いに行き、そして話しかける練習。
「あのとき……もっと良い方法がなかったかと。この20年、わしは片時も会津のことを忘れたことはなかった」
「まった。慶喜さま、それ本心ではないですよね。あなたは会津のことなど忘れていませんでしたか?」
照の手厳しい指摘に、慶喜はうなずいた。
「はい、やりなおし」
「……この慶喜にはいままで幾人もの家臣がいたが、容保、そなたほどの優れた男はほかにいなかった。明治の世になっても、政府から誰か良い人材の紹介を求められるたびに松平容保の名をあげたものじゃ。世相がそれを許してはくれなかったがの。……照姫殿それはどういう顔じゃ」
「なんででしょうか? 自然とこういう顔になってしまう。ねえ慶喜さま、歯の浮くようなお世辞ってこの場面で必要ないのでは? いまのがあなたの正直な気持ち? 違うでしょう?」
そのあとも何度か繰り返したがどうも良くない。
「だめだ。何度やってもだますときの導入部分みたくなってしまう」
「あなたは難儀なお人ですねえ」
慶喜は、彼にはとても珍しいことに、弱気の虫が顔を出している。
「結局のところわしはそういう人間なのだろうか。だまされるよりはだます側でありたい人間」
「そのようなことを考えないで。人はそんなに単純に種類分けできるものでないでしょ?わたしのなかにだっていやな部分はたくさんある」
「まあ確かに、あなたは心の奥底に言いしれない毒を感じる」
「なんてこというのよ」
「容保はいいやつだったな……」
慶喜は夜空に向かってひとりごとのように呟く。
「役職上わしが上だから、容保はわしに対してしかたなくいいひとを演じているのだろうとずっと思っていた。しかし、あいつはもしかしたらほんとにいい奴だったのか? と、後から思った。いまになって、なにか取り返しのつかないことをしたような、虚しさが消えない」
「だから、素直にそれを言えば良いではないですか。あなたはちゃんとそのように心根を言葉にできるではありませぬか」
「できぬ。そなた相手ならまだしも、容保本人を前にしたらと思うと、言える気がまるでしない」
「もう!」
照は天を仰いだ。そしてふと動きが止まった。まるで何かを見つけたかのように。
「慶喜さま、すこし外します」
「わかった。わしも休憩したい」
後ろ向きに歩きながら、照は慶喜に向かって呼びかけた。
「このままではいくらやっても埒があきません。ここからはこの照も真剣勝負で容保さまの役を務めたいと存じます」
「受けて立つ。ありがとうよ」
照が甲板のすこし離れたところまで歩いてから夜空を見上げると、月を背に宙に浮かぶ、かわひらこと赤べえの姿があった。
「かわひらこ、来てくれたのね」
「照姫さま、ようやく赤べえも牛車も修復が終わったでおじゃる。やっと力が戻った。これで過去の会津へ戻ることができるでおじゃる」
「それは良かった。ただね、ちょっと待っていてほしいの」
「なぜでおじゃる?」
「説明が難しいのだけれど、なんだか妙なことになっていてねえ……」
「ほう」
慶喜は甲板に座り、グラスに自分でワインを注いで飲んでいた。
照がなかなか戻ってこない。船酔いがまたひどくなったのだろうか?
(もしも、もしもだが……。容保がわしの立場だったら……、あいつは容保に対して、いったいなんという?)
「慶喜さま」
照がゆっくりとした歩みで戻って来た。すこし緊張して見える。
彼女のその表情に慶喜は『真剣勝負』を感じ取った。
のぞむところである。
「容保、久しいな」
「あなたとは、つくづく不思議な縁で結ばれている。因縁というべきか」
照の澄んだ声が甲板の上に響いた。
いいじゃないか。
慶喜は照に向かってグラスを掲げ、ワインを一口で飲み干した。
「もうわしに会わずに済むとでも思っていたか? 悪いがそうはいかぬぞ」
「静岡でのくらしはどうですか?」
「おう、のんびりやっている。近頃では写真に凝っていてな」
二人とも言葉が途切れた。
慶喜は懸命に頭を巡らすが、次に話すべき最適な言葉がわからない。
(情けない、この慶喜ともあろうものが!)
「……やめた」
口を開いたのは照だった。
「照、いや……容保?」
「慶喜さま。きっとあなたは、このわたしに何を言えばよいのか分からないのでしょう。それはこの容保も同じこと。いつかあなたにまた会う時のために、言葉をずっと練ってきた。しかし今実際あなたを目の前にしたら、全部どこかに行ってしまった。残念ながらわたしは器用に要領よく立ち回ることなどできない」
照は慶喜を静かに見つめている。そのまなざしは、風がなく一つの波もない水面のようだった。
慶喜はうなずく。
「それが容保、お前の良いところだ」
「何を人ごとのように」
「何?」
「あなたも別に器用ではないですよ。自分でどうお思いかは知りませんが。あのとき『徳川慶喜』という偶像に時代が求めた役割を、あなたは自分で的確に理解して選択して、それを誰よりも上手にこなしたつもりでいるのかもしれません。でも結局のところ、あなただってあれしかできなかった。他のやりかたなどできなかった」
「容保、その言い方は少し無礼であるぞ。わしは……」
「あなたはいつも言った。『これで一番良いのだ』『こうしなければもっと悪いことになっていた』わたしはその言葉を聞いて悩んだものです。どうしてこれが最適なのだろう。慶喜さまの考えがわたしなどでは分からないのか。でもあなたは、本当はこう言いたかったのですね。『これしか自分にはできない』」
慶喜は黙って言葉を聞いていた。聞きながら、心の中であのときの容保と向かい合っていた。あの時の自分自身と向かい合っていた。
若き日の慶喜が、心細そうな顔でこちらを見つめている。
「慶喜さま、あなたにそれを言わせなかったのはわたしです。そこまで考えようとしなかったあのときの容保はあなたに不誠実だった」
「そなたが不誠実だったら、誠実な人間などどこにもおらんわ!」
慶喜は叫んだ。




