第50話 慶喜の練習
「会津には家訓というものがある。容保がどうしても首を縦に振らぬときは、その話を持ち出すのが良いだろう」
あのとき、慶喜は越前の松平春嶽とそのようなことを話した。
京都の治安を維持し帝を守護する新たな役目、京都守護職。誰がそれを担うべきか。
その役目を受けることは、すなわち矢面に立つということ。
徳川幕府と考えが異なる敵対勢力に、誰を恨めば良いのかをはっきり示すこと
そんなことは誰でもわかる。だから誰もやりたがらない。
家訓は、会津松平家の始祖保科正之公が定めた掟。
「家訓ではな、春嶽。主君の命は絶対であり、背くものは自分の子孫ではないとまで言っている、苛烈な掟。徳川への絶対的な忠誠を強いるもの、とも読み取れる。違う考えもあるがな」
「しかし上様、遺訓を守って家が滅んだら元も子もない。身の程以上の役目を背負うことより、自分の家を守ることが武士の第一の務め。わたくしならば、家訓は尊重すべきと表ではいいながら、何かほかの理由をつけてかわします」
「その通りだ。わしもそうする。ところが容保はそれをしない」
「……と申しますと?」
「容保は、岐阜は高須家からの養子じゃ。お前も身に覚えがあろう。会津松平家家中からは、よそものに会津の伝統を理解することができるのかという雑音が常にあるはず」
「ああ……、あるでしょうな」
「ある。嫌だよなあれ。容保がもし家訓を軽んじるような物言いをすれば、家中での信用をたちまち失うだろう」
そして容保は京都守護職の就任要請を受けた。1000人の兵を率いて京に向かった。
うまくいったと慶喜は思った。悪いことをしたとは考えなかった。
要請を受けたら受けたで家中からは相当な非難を受けているはず。
自分だったら同じことを言われたとしても逃げ切ることができた。
うまく立ち回ることができなかったのは結局容保本人の資質の問題であり、慶喜の心配することではない。
しかしそれと同時に、慶喜はこんなことを思った。あの男はこんな小細工などしなくても、慶喜が心から頼んだら、『だれも引き受け手がいなくて困っている。どうかこのわしを助けてくれ』と言ったら、引き受けてくれたんじゃないか。
慶喜は少しだけそのようなことを思い、すぐに首を振ってその幼稚な考えを頭から打ち消した。
何をバカな、そんな人間がいるはずない。世の中はそんなに甘くない。
そして現在、明治21年、東京に向かう汽船の甲板で、慶喜は照に告げた。
「照姫殿、まず初めに言っておくが、わしは自分の人生に後悔などない。あの時代をわしより上手く切り抜けることができたものがいるとは思わぬ」
照はそれを聞いて、深く深くうなずいた
「そうですね。仰せの通り。実感を持ってほんとにそう思います。なにせわたしども会津はうまく切り抜けることができなかった人たちですから」
慶喜は夜空の月へと視線をそらした。
「……照姫殿はそう言うよな」
「おや、わたくしごときの皮肉が、意外と刺さったようですね」
慶喜は、月にまで咎められているような気になったのだろうか。照のほうに顔を向けた。
「過去のことに悔いはないが、未来があるならば、わしは容保と、今までとは違う話をしようと思っていた。この度のことは貴重な機会だ、次があるとは限らぬ。」
「ええ、そうなさるが宜しいでしょう。わたしはいいことだと思いますよ、本当に」
「だから練習が必要だ」
「それがわからない」
照はため息をついた。
「あなたは、ある時期に、この日本で一番話がうまいのではと言われたようなお人ではありませぬか。それがどうして、わたしなどを相手に練習しようなどという話になるのですか?」
「頼む照姫殿、このようなことを相談できるものがわしにはいない。妻や子にだって頼めぬ。容保の義姉で、なによりも通りすがりである貴方でなければ」
「あとくされのないということですか。まあ男というものは格好をつけたがるものですからねえ」
「頼む」
慶喜が頭を下げた。
「……頭を上げてください。いいですよ、やってみますけど、容保さまの考えていることなんて、わたしだってわかりませんよ」
「照姫殿が思っていることを言ってくれればそれでいい」
慶喜は姿勢を正した。
照もコホンと咳ばらいを一つして、待つ。
「よう容保久しぶりだな」
「これは慶喜さま、お久しぶりにござりまする」
照は自分の心の中の(なんだこれ?)を隠しきることができない。
慶喜が続ける。
「磐梯山は大変なことになったな。自然は恐ろしい。我が一橋もできるだけの支援はさせてもらうつもりだ。いまこそ徳川の力を見せるとき。わしも会津とそなたには借りがあり、恩がある」
「……上手じゃないですか」
「これでいいのなら、いくらでも話せるさ」
「嫌なんですね、それでは」
「ああ嫌だな」
「わたしにはあなたの心の中などわかりませぬが……」
照はそう前置きして続けた。
「思っていることをそのままいう必要などどこにありましょうか。あなたの立場で求められていることを正確に理解して、言葉を組み立てる。それが我ら生まれながらにして公人であるものの役目。あなたはそれが素晴らしく上手だった。神君の再来とうたわれた程に、みながあなたをたたえたのでしょ。……それ、どういうお顔ですか?」
「称えられて嬉しかったことなど、あまりない。的外れな評価ばかりだったからな」
慶喜は鼻で笑った。自分の言葉が面白かったかのように。
「すねても仕方がないな。人の世など、すべてが茶番、すべてが誤解なのかもしれぬ。けれど」
「けれど?」
「そなたの義理の弟は、真実がこの世のどこかにはあるのかもしれないと、思わせてくれる男だった。それこそがやつの得難い才だ」
「それをぜひ容保さまに直接言ってあげてくださいよ。素敵ですよ、そのお言葉」
「そうだな。だから練習しよう。では照姫殿、もう一度あたまから頼む」
夜は深まり、慶喜と照の『練習』が続く。
「これ続くんだ?」




