第49話 徳川慶喜と照姫、東京への二人旅
「わたしは静岡が初めてだったので、今回のことはいい機会でもありました。暖かでいいところですね」
徳川慶喜とともに、馬車で清水港に向かう道すがら、流れゆく景色を眺めながら、照は(話すことないなー)と内心では思いながら、当たり障りのない言葉を紡いでいた。
「いいところ過ぎて、偉くなる必要がないそうだ。肩肘を張らなくても人並みに生きていけるから」
慶喜の返事も平坦なものだった。
「それはうらやましいかもです。けれど、そういうところに慶喜さまが住まわれているというのは、奇縁とでもいうのでしょうかね」
「おや、どういう意味かな」
「そういう意味ですが」
「……すまぬ。本当に分からぬのだが」
「偉くなりたい人なのかなと思っていました、あなたは」
「あー……」
そして無言。
(どうしよう変な感じになってしまった)
照としてはちょっと思いついたことを口にしただけなのだが、それは結構な毒舌だったかもしれない。
松平容保の義姉が徳川慶喜にかける言葉としては軽率だったかもしれない。
うわー、気まずい。早く港についてくれないだろうか。
この馬車遅くないだろうか。
清水港から東京行きの汽船が出るのは夕方になる。一晩を船の上で過ごし、明日の午前中にはもう東京だ。
かつての江戸、慶喜と照姫がそれぞれの場所で住んでいた町。
そしていまはそこに、この時代の容保がいる。
照たちの後ろから別の馬車でついて来ていたふたりの従者が、慶喜の荷物を下ろす。照は振り返って、その働きぶりを眺めていた。
「もっと大勢引き連れて東京に向かうものと思っていましたが?」
「むかしとは違うよ」
慶喜は小さく笑った。
乗船まではまだ時間があるので、照はこれから自分たちが乗り込む汽船を眺めていた。
(わたし船、苦手なんだよなー)
船の大きな煙突を見ながら、照は思った。急ぐのだから最短で東京に着く手段を使う必要があるのは仕方がない。
彼女が知る江戸時代末期の船とは姿が随分違う。性能はもっと違うのだろう。西洋風の汽船。
なかはどのような感じなのか。見るのが楽しみでなくもない。見終わったら帰ることができればとてもよいのだが。
汽車というものも、聞いているととても興味深いので見てみたかったが、そこまでは無理だろうか。
この時代にそう長居するわけにはいかない。1888年、慶應4年の夏の会津へ戻らなければ。どこかできっと無事でいる、若き頃の容保と共に。
徐々に、桟橋から船のなかへ入っていく乗客が増え始めた。大きな風呂敷包みを背負った商人が目に付く。
黒いハットに口ひげと、西洋風に着飾った紳士もいた。
「我々もそろそろ乗ろうか」
気づくと慶喜が照の傍らに立って、彼女と同じように汽船を見つめていた。
「電信は送った。慶喜が容保に会いに東京に向かう旨は、会津松平家に伝わっている」
「うまく会えると良いですね」
「ばたばたはしているだろうが、おそらく大丈夫だろう」
先日、磐梯山が噴火した。大きな被害が出ているらしい。かつて会津を治めた会津松平家の旧臣たちの多くは東京にいる。これからどうするべきかを話し合うために集まり出しているころだろうか。
「照姫殿も、彼らの前にちらりと顔を出すか?」
「嫌ですよ、騒ぎになってしまう。この時代にわたしはもう生きていないのでしょ?」
「会津の危機に、あの照姫さまが我らのために天から戻って来た、と士気が上がるのではないか? こういうとき、そのようなことは大事だろう」
「うーん、どうでしょうかね。わたしはどうもそういいほうに考えることができない。どちらかというと、磐梯山の噴火がわたしのせいにされそうで怖い」
「ああ、怨霊とかそういう」
「はい、それです。誰が怨霊じゃ」
二人で噴き出した。
やがて出航の時間となり、汽船が動き出す。
蒸気機関は大きな音を立てて、船のなかはつねに振動があった。
慶喜と照が案内されたのは一等船室。この時代の高級ホテルにも負けていないような装飾だそうだ。
個室が二つあって、それぞれに大きなベッド、白いシーツ。
艶のある木製の壁には花の油絵が飾られていた。カーテンの向こうに海の夜空が広がる。
真鍮のランプが灯された食堂で、白いクロスがかけられたテーブルに慶喜と向かい合って座り夕食をとった。
パンにサラダに白身魚のソテー。食事の内容も西洋風で、照の口にはあうものもあわないものもあった。慶喜が一つ一つのメニューについて説明をしてくれた。ビーフシチューも勧められたが、赤べえの顔を浮かんで丁重にお断りをした。
食後にはコーヒーも出た。
(あ、これ大地殿がいっていた飲み物だ)
照は一口だけすすって、あとは遠慮した。
食事のあと、照は甲板に出て手すりにもたれていた。やはり船は苦手だ。満腹にならないように気を付けてはいたのだが、それでも船酔いが始まっていた。
月に照らされる夜の海。
煙の臭いがあたりに漂っている。
波は幸いそれほどないけれど、船はゆらり、ゆらりと常に揺れている。逃げ場がない。
「照姫殿」
声のほうを振り向くと、船室の光を背にたたずむ慶喜がいた。
「具合が悪そうだな」
「はい、残念ながら早々に気持ち悪いです」
慶喜はそばに来て照の背中をさすった。
「あー、すみません。ちょっと楽」
「容保ともな、こんなふうに夜の海を眺めたことがあったよ」
そのことは照も容保から聞いていた。鳥羽伏見でのいくさのあと、開陽丸の船の上。きっと二人にとって懐かしいだけの思い出ではない。
「東京に着いたら、容保さまになんと声をかけるのですか」
「うむ、それなんだが、まだ決めていなくてな……それで」
慶喜の言葉の続きが出てくるまでは少しかかった。機関の音が無遠慮に響き続けた。
「容保との会話の練習をしておきたい、そなたを相手に」
「何をいっているのですか?」
照はぽかんとしてしまった。




