第44話 十軒長屋の西郷頼母
「さあ兎奇ぼう、今日の講義を始めるぞ」
老人はそう言って長屋のなかへと足を踏み入れた。
(頼母だ。年は取っているが間違いない)
容保はすぐに気づいた。
会津松平家家老西郷頼母。
頼母は容保に近づき、そのダルマのような風貌で彼をぎょろりと見た。
顔を隠す間もなかった。
「殿ではないか」
逆らい難い、強い口調は変わっていない。
「違いますか?」
懐かしい迫力じゃのう、と内心思いながら、容保はうなずいた。
「……うむ、容保じゃ。頼母、元気であったか」
兎奇子は状況が分からず、二人の顔を見比べた。
「なんやこのじいさま、あんたの知っている人やったか」
「わたしの家臣、家老だ」
「へえ、そんな偶然があるんやな」
頼母は容保の前に腰を下ろした。
「盆には少し早いが、殿はわしの様子を見に来てくれたのだな」
「……うむ?」
容保と兎奇子は後ろを向いて、二人でささやきあった。
「あんたのこと幽霊やと思っとるな。ということは容保はん、この時代ではもう亡くなっとるっちゅうことか」
「どうもそのようだな」
「そういうの聞くのってどういう気分?」
「嫌に決まっておろう」
二人は頼母に向き直った。
「なつかしいぞ頼母よ、わたしとは……ケンカばかりだったのう」
「殿はわしに怒られに来たということで宜しいか」
「む?」
「この老いぼれよりさきに逝くとは何事です。早すぎます。まだまだ我らにはあなたという心の支えが必要でした」
頼母の小言は長かった。容保はしばらく我慢してそれを聞かなければならなかった。
容保はうつむいて怒られていたが、しばらくしてやっと終わったようなので顔をあげた。
そして改めて年老いた忠臣の顔を見た。
頼母は、このような暖かき顔の男だったか。言いたいことを言い終わって気が済んだその優しい眼差しは、いつも自分に厳しい正論をぶつけてきた昔を知る容保にとって意外なものだった。
同じ家老だった田中土佐と違って、引き際というもののない頼母の物言いに、仕方なく、彼の役職を変えなくてはならなかったこともある。
彼は年を経て変わったのだろうか。容保は思った。
「それで、ということは、この娘も幽霊ですか? 急にこの長屋に転がり込んできて、なにか不思議だとは思っていたが」
頼母と容保は兎奇子を見た。
「ああ、幽霊ではないが、人でもないそうだ」
「もうひとついうと、女でも男でもないんよ」
兎奇子は伝わらないだろうなとは思いつつの感じで答えた。
「……とにかく続きをやるか兎奇ぼう。殿、わしはこの者に学問の初歩を授けようと思います。いままでちゃんと学んだことはないようだが、しかしそれは恥ずべきことではない。機会がなかっただけ。いま会津にはそのようなものがたくさんいる。この西郷頼母、兎奇ぼうの先生を務めさせていただく」
「自分が寝ている間にそんなことになっていたのか」
「容保はん、これ拒否権なしのやつや。昨日も素読やら茶道やら止まらんかった。暇なんやろかこのじいさま」
戸惑いはあったが、容保にとって、田中土佐や神保内蔵助がその一生を終えるところに立ち会っただけに、頼母が元気に年をとっている姿が見られたのは嬉しくもあった。
「頼母、わたしもぜひ一緒にそなたの教えを賜りたい」
「良い心がけです。死ねば学びが終わるというものではない」
しかし……容保は思った。頼母には家族がたくさんいたはず。それが今は長屋で一人暮らし。
(わたしは鳥羽伏見のいくさのあとのことを仔細まで知らぬ。頼母もつらい目に会ったことは間違いないのだろうな)
「遠くを慮り、近くを思う。どういう意味だと思う、兎奇ぼう」
「え、急にそないなこといわれてもわからんよ」
「わからんでは何も生まれぬ。自分の考えを口にするのだ」
書物を手に頼母の大きな声が響きつづける。
「日に新たなるものは日に進むなり、日に新たならざるものは日に退くなり! さあ読んでみろ。お、上手ではないか。本当に初めてか? であればそなたは天才のようじゃの」
「へへ、ホンマに?」
途中で近所の子供も様子を見に来ていた。頼母は喜んで招き入れた。
勉強会は長い時間行われて、ようやく終わった。
「いやー鋼鉄のように固い話やったな。でも容保はんはそれが聞きたかったんやろ?」
「懐かしかったよ」
兎奇子の淹れてくれたお茶を飲みながら、3人でくつろいだ。
「頼母、お前は随分と穏やかな顔をするようになったの」
それは容保にとって喜ばしいこと。
頼母は容保の言葉を聞いて、うつむき、照れたかのような顔を見せる。
「いろいろなことがありました。荒れ狂った我が人生。しかしすべては終わったこと。頼母がこの世でなすべきことはすべて終わりました。いまはただ心静かに、家族に会える日が待ち遠しゅうございます」
容保は少し考えてから、話を切り出した。
「実はな頼母、わたしは未来を選ぶための旅の途中だ」
「……何と申された?」
「信じがたいと思うが、会津での大きないくさがなかった世界というものが存在するのだ。わたしはその世界を選びたい。それが万人にとっての幸福ではないのかもしれないがな」
容保は秋月大地の寂しそうな背中を思い浮かべた。
「しかしわたしを信じて苦しい人生を歩むことになったものたちが、少しでも救われるのならば」
頼母はうつむき、何も言わない。
「……すまなかったな、頼母。このような話をして、そなたを戸惑わせた」
「途方もないはなしでござるな。しかし、もしそれが本当ならば」
そういったきり、さらに長い沈黙があった。兎奇子は自分の湯飲みをちゃぶ台において、頼母の様子を伺っていた。
気づくと彼の両肩は震えている。
「頼母……?」
頼母は顔をあげた。彼の顔は紅潮して、大きくゆがんでいた。そこにあったものは果てしない悲しみ。そして後悔。このまま絶命してしまうのではというほどの。
「じいさま、じいさま、大丈夫か?」
兎奇子が近づき、彼の背中を何度もさする。
頼母はよろよろと容保に近づき、彼の手を両手で握った。とても強く。
「殿、おねがいじゃ。この頼母に、この頼母にどうか違う未来をお与えくだされえ!」




