第24話 家老田中土佐と神保内蔵助の自刃
田中土佐とともに自決を遂げて、今まさに死を迎えようとしていた神保内蔵助は、自分の眼を疑った。
容保は滝沢本陣から鶴ヶ城へ戻ったはず。
ここ甲賀門口にいるはずがない。
しかし、煙の向こうから姿を現したのは紛れもなく容保だった。
内蔵助は声を振り絞った。
「どうして殿がここに……。これは幻か? ……まさか、まさか殿はもうすでに……死……?」
「案ずるな。わたしは生きている。ここにいる理屈なんて、わたしだってよくわかっていない」
この世界の容保は、鶴ヶ城に入城して籠城戦の準備を進めているはずである。内蔵助が容保を亡霊だと思ったことも無理はなかった。
鳥羽伏見の戦い直後、1868年1月の世界からかわひらこたちに連れられて会津にやってきたもう一人の容保は、長年自分に仕えてくれた重臣二人の最期の場に、運命に導かれるかのようにかけつけた。
「殿、申し訳ありまぬ。兵たちは力の限り戦いました。誠に勇敢だった。しかし甲斐なく敵の突破を許してしまった」
容保は膝をついて倒れている内蔵助に寄り添った。
「うむ、良く戦ってくれたな」
そして田中土佐のほうを見た。
「土佐はもう動けぬか」
「土佐は最後まで殿のことを案じていた。土佐、目を覚ませ。殿じゃ、殿が我らの元へ来てくだされた」
「苦しゅうない、休ませてやろう。いままで大義であったな、土佐」
自らの腹を刀で突いていた内蔵助は激痛に耐えながらわずかに体をひねり、土佐のほうを見た。
土佐は言っていた。会津の運命が避けがたいものだったのなら、容保の言うことに反対ばかりせずに、もっと励ましてやりたかった。ほめてやりたかったと。
この愚直な若者を。
「内蔵助、わしもこんな形でお前の最期に立ち会うことになるとは思わなかったよ。しかし、おかげでお前に今までの礼が言える。よくいままでわしを支えてくれた。豪胆で繊細な忠臣、神保内蔵助はわしの宝だった」
「もったいないお言葉でござる」
内蔵助は満足と共にうなずいた。そして思った。自分にはまだ時間があるだろうか。容保に何かを伝えることができるだろうか。土佐は、容保が自分のことをきっと疎んでいたと気にしていた。
容保はもう一度土佐のほうを向き、語りかけた。
「土佐も今までご苦労であったな。家臣を区別するようなことは控えるべきなのだろうが、土佐はわたしにとって特別だった」
「殿……、土佐はあなた様のことを誰よりも思うからこそあなたに厳しく……」
容保は内蔵助に向けて微笑んだ。その目には涙が浮かんでいた。
「殿……?」
「わかっていたよ。土佐はわたしの前ではきつい物言いだったが、周囲に対してはわたしのやることすべてを肯定してくれて、家臣たちの反発からわたしを守ってくれていたことは」
「知っていらしたのですね……」
「苦しい板挟みだったろう。自分にはとてもできぬ。内蔵助わしはな、下らぬ想像ではあるが、もし自分が仕えるものを選べるのであれば、土佐のようなものに仕えたいと常々思っていた。そのくらいわしの理想だった」
その言葉を聞いた内蔵助の両目から、止めようがない涙があふれた。
そしてもう動かなくなった土佐に向けて、叫んだ。
「土佐、起きろ!」
しかし土佐が目を覚ますことはない。
「聞け、殿の言葉を聞いてくれ! 殿はお前のことを理解してくれていたぞ。それを知らないまま逝ってはならぬ! お前だって伝えたいことがあったのだろう!」
容保も土佐を見つめていたが、内蔵助がいくら呼び掛けても、土佐がこちらを向くことはなかった。
「土佐よう……」
内蔵助は咳き込んだ。
もう間もなく、自分も最後の時を迎えるようだ。彼は悟った。そして容保を見上げた。
「お会いできてよかった。……最後です。内蔵助の無礼な物言いをお許しいただけるか?」
「許す。そなたにはわたしに言いたいことが山ほどあろう」
容保は家臣の反対を押し切って京都守護職を引き受け、結果として会津を窮地に追い込んでしまった。どんな恨み言でも容保は受け止めるつもりだった。
内蔵助は目をつぶり、その脳裏に誰かの面影を思い浮かべた。それからゆっくり目を開けた。
「あなたはよくやった……」
「え……? 内蔵助、何と……?」
「まだお若く、体が弱いあなたが精いっぱいやっていた……。ずっとわたしたちはそれを見てきた。失敗はあったのだと思います。それでも、あなたを責める気に少しもなれない。苦しむあなたをずっと見てきたから……。支えきることができずに済まなく思います」
言葉を言い終えた内蔵助は容保に向けてやさしく微笑み、喉を差し出した。
容保は刀を手にして、厳かにささやいた。
「介錯つかまつる」
内蔵助はうなずき、もう一度言った。
「あなたはよくやった」
容保は刀で彼ののどを突いた。そして会津松平家家老神保内蔵助は息を引き取った。52歳だった。
燃え行く屋敷の中で、容保はしばらく自分の忠臣たちの亡骸を眺めていた。
やがて彼は屋敷の外へと静かな足取りで出て行った……。
神保内蔵助はその人生の最後に、田中土佐のことを思い、彼のために容保に言葉をかけた。
彼にはほかにも容保に言いたいことがあったのだろうけれど、いわなかった。
内蔵助が最後までいわなかったことを、筆者が訳知り顔で語るなどというのは恥ずべきことなのだろうが。
内蔵助には自慢の息子がいた。神保修理。
当時の会津藩のなかで、敵からも味方からも最も評価の高かった人材として知られる。
彼は松平容保をかばうために自決している。
1868年1月、容保にとっての生涯の痛恨事、鳥羽伏見の戦場からの離脱。
その後、家臣たちからは容保に対する猛烈な批判が巻き起こる。
容保にとって、会津にとっての重大な危機だった。
しかし、やがてこんな理屈が作り出される。
徳川慶喜が容保を連れて大坂城から抜け出す決断をしたのは、彼にとって不利な情報、重大な情報があったからなのだが、それを彼に伝えたのが神保修理だった。
修理が不用意に言う必要のない情報を伝えたために慶喜は判断を誤った。容保は巻き込まれた。
つまり修理が死ぬことによって、会津はもう一度一つにまとまることができる。
その理屈を、容保は否定も肯定もしなかった。
神保修理は自決。
会津は無事団結を取り戻し、その後訪れる国難を、最も優秀な人材を失った状態で迎えることになった。
神保内蔵助はその人生の最後に、そのことについては容保に何も言わなかったのだった。




