第2話:支配の種
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前回までのあらすじ:ブラック企業で摩耗し虚無を抱えた男が、アパートごと異世界転移し、備蓄していた大量の水と収納スキル「支配庫」を武器に生存と支配の道を進み出す。
それでは、第2話をお楽しみください。
窓の外に広がる光景は、数時間前まで見慣れていた、くたびれた住宅街の夜景ではなかった。
深夜の街を彩るはずの街灯も、遠くを走る車の喧騒も、不眠症の住人を誘う24時間営業のコンビニの看板も、すべてが消失している。
代わりにそこにあるのは、月の光を浴びて黒々と波打つ、見たこともないほど巨大な樹木の群れだった。ビルなど比較にならない高さの、太古の巨木がアパートを圧殺するように囲んでいる。
そしてアパートの真裏には、月光を反射して白く光る、垂直にそびえ立つ巨大な山の岩肌が、天を突く壁のように立ち塞がっていた。
「……マジかよ」
佐藤悠は窓を開け、網戸越しに外を覗き込む。
排気ガスの混じった都会のそれではなく、噎せ返るような土と濃厚な草の匂い。そして、肌を粟立たせるような刺す冷気が、無遠慮に室内へ流れ込んでくる。
アパート『シャン・ソレイユ』は、まるで巨大なスプーンで地面ごと抉り取られたかのように、深い森の真ん中にポツンと鎮座していた。本来あるべきアスファルトの駐車場は、砂利と剥き出しの土に変わり、その先は断崖のように暗い森へと続いている。
その時、階下から悲鳴が上がった。
一つではない。複数の男女が叫び、混乱している声だ。
「おい! これどうなってんだよ!」
「誰か! 警察は? スマホが圏外なんだけど!」
悠は手元のスマホを確認した。アンテナは一本も立っていない。
表示されている時刻は午前一時半を過ぎて刻一刻と進んでいるが、日付の部分はバグを起こしたように点滅を繰り返している。GPSを起動しても「位置情報を取得できません」という冷淡なエラーメッセージが返ってくるだけだった。
あの白い世界で見た光景を思い出す。
火事。神を自称する男。そして、得体の知れないスキル。
夢にしてはあまりに鮮明すぎる記憶。そして、自分の胸の奥に重石のように居座る「何か」の感覚。
(……『支配庫』。あいつはそう言ったな)
悠は、玄関横に積んでいた未開封の天然水の段ボールに手を触れた。
配送の仕事で何千回、何万回と触れてきた、無機質で乾いた紙の感触。それを「どこかへ片付ける」ようなイメージを強く持った、その瞬間だった。
ふっ、と視界から質量が消えた。
そこにあったはずの二十四キログラムの箱が、音もなく、光すら放たずに消失したのだ。
「……消えた」
同時に、悠の脳裏に奇妙な感覚がフィードバックされる。
まるで、自分の内側に巨大な空洞が空いたような、あるいは頭の中に「予備の倉庫」が増設されたような感覚。そこには今、先ほど消えた水の箱が、確かに存在しているという重みがあった。
(出ろ)
空中に手をかざし、念じる。
すると、今度は手のひらの中に、ひんやりとしたプラスチックの感触が戻ってきた。現れたのは、箱の中の一本。
「なるほどな。出し入れの単位も、俺のさじ加減一つか」
悠は皮肉な笑みを漏らした。ブラック企業の配送員として、日々荷物を詰め込み、運び、降ろすだけの人生だった自分に与えられたのが「倉庫」のスキルだとは、神様も皮肉が効いている。
悠は、部屋にある食料と水のストックを次々と「収納」していった。カップ麺、レトルト、缶詰、米。触れては消し、触れては消す。
最後に残った一本のミネラルウォーター。悠がそれを『支配庫』へ放り込んだ瞬間、脳内にPCのプログレスバーが走るような感覚がよぎった。
(……複製)
イメージを重ねると、空っぽだった悠の左手に、ずしりとした重みが戻った。
倉庫の中には「元の水」がある。なのに、手元にはそれと全く同じ、キンと冷えたボトルがもう一本現れていた。
「これがあれば……俺が飢えることは絶対にない」
一度解析すれば、あとは無限に増殖できる。
悠は冷たい笑みを作り、出現させたボトルを再びすべて『支配庫』に放り込んだ。この力があれば、この「牢獄」のような状況下で、他人の顔色を窺う必要など一切ないのだ。
アパート前、かつて駐車場だった広場には、住人たちが集まり始めていた。
同じ屋根の下に住んでいながら、互いに名前すら知らない他人同士。階段ですれ違う時に会釈をするかどうかの希薄な隣人たちが、パジャマ姿や仕事帰りの格好で、互いに疑心暗鬼な視線を向け合っている。
「落ち着けって! パニくっても始まんねえだろ!」
中心に立って大声を上げているのは、103号室の田中健太だった。
運送会社勤務らしくガタイが良く、太い腕を組んで周囲を威圧するように見回している。その横には、202号室のヒモ男、横山達也と、204号室の大学生、川瀬涼太が所在なさげに立っていた。
極限の恐怖を前に、本能的に「強そうな個体」の傘下へと逃げ込んだらしい。
悠が階段を降り、広場の端に立つ。
中心の田中の鋭い視線が、暗がりから現れた悠を射抜いた。
田中は悠のガタイの良さをじろりと眺め、値踏みするように鼻で笑っただけで、あえて言葉はかけなかった。だが、その余裕のある態度は、彼がすでにこの場の主導権を握ったと確信していることを物語っていた。
「……あの、これって、テロとかですか?」
101号室の金井綾香が震える声で尋ねた。妹の舞香を守るように抱き寄せているが、その知的な眼鏡の奥の瞳は絶望に揺れている。
夜風にさらされた彼女のパジャマは薄く、恐怖のせいか、生地越しにも分かるほど震える肩のラインを無防備に晒していた。田中の卑俗な視線が、その肢体をじっとりと舐めとる。
彼女は自分の身体に向けられる汚らわしい視線に気づいているはずだが、それ以上にこの異常事態が、彼女の理性を麻痺させていた。
「テロなわけねえだろ。見てみろよあの木。ビルよりたけーじゃねえか。……後ろは岩の壁だ。ここはもう、日本じゃねえんだよ」
田中が背後にそびえ立つ、絶望的なほど高い岩肌を親指で指し示す。
住人たちは、駐車場から一歩も出られずにいた。どこからか、聞いたこともないような獣の、低く重い遠吠えが響いてくる。
「……とにかく、今は夜明けを待つしかねえ。男たちは交代で見張りだ。いいか、勝手な行動はするなよ。生き残りたきゃ、俺の指示に従え」
田中の独断に、周囲の空気が重く沈む。
203号室の北川結衣は、はだけそうになる胸元を必死に押さえ、階段の影に立つ女子高生の咲希は、自身の肢体を守るように強く抱きしめて田中から視線を逸らした。
だが、田中の目はすでに、彼女たちを「守るべき隣人」ではなく、文明の崩壊と共に手に入れた「戦利品」のように値踏みしていた。
(……見張り、か。勝手にやってろ)
悠は田中の指示に従うふりをして、暗闇に紛れながら自室へと視線を戻した。
空っぽになった自分の部屋。だが、その内側にある『支配庫』には、餓えた獣たちが喉から手が出るほど欲しがる「命」と、この世界を塗り替えるための「無限」が詰まっている。
今はまだ、誰も気づいていない。
明日には、一滴の水、一つのパンが、どんな宝石よりも価値を持つようになることを。
そしてその時、このアパートの「真の支配者」が誰になるのかを。
(……縋り付いてくるのが先か、奪い合いになるのが先か)
悠は、暗い夜の底で静かに唇を歪めた。
これから始まるであろう「支配」への予感に、彼の身体の奥底からも、暗く熱い衝動が突き上げていた。
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