第1話:白銀の断絶
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第1話をお楽しみください。
※本作はR15作品です。残酷な描写や、過激な性描写を連想させる表現が含まれますが、直接的な性行為の描写は行いません
(ガイドラインを遵守しています)。
執筆後にGeminiにて校正をかけています。
その日、佐藤悠がアパートに辿り着いたのは、日付もとうに変わった深夜のことだった。
仕事が終わらなかったのではない。終わらせてもらえなかったのだ。
トラックの荷台を埋め尽くす配送品の量は、もはや一人の人間が捌ける限界をとうに逸脱していた。鳴り止まない無線機からの怒声、効率のみを追求し人格を否定する上司、そして深夜になっても途絶えることのない、身勝手な再配達の依頼。
世間から「ブラック企業」と指弾されようが、今の悠には、憤る気力も現状を脱する知性すら残されていない。ただ泥のように眠り、数時間後にはまた地獄へ戻る。その繰り返しの中で彼の精神は摩耗し、他者への共感や関心は、剥がれ落ちる鱗のように消え失せていた。
重い足取りで、アパートの階段を上がる。二階の角部屋、201号室。
そこは、どこにでもある平凡で、それでいて生活感の欠落した無機質な空間だった。
玄関を開けると、まず目に飛び込んできたのは、壁際に山高く積まれた段ボールの群れだ。
缶詰、レトルト食品、インスタント麺。そして、廊下を圧迫し、異様な威圧感を放つ何箱もの天然水の備蓄。
一人暮らしには到底飲みきれるはずのない量だが、これには理由があった。以前、仕事の付き合いで半ば強引に契約させられた飲料水の定期便だ。解約の手続きをする時間も気力も失ったまま、毎月機械的にこの重い箱が届き続けている。
「……また増えてやがる」
本来なら忌々しいはずのその光景も、今の悠にとっては「無気力」の象徴だった。山積みの水は、彼の人生に停滞する澱のようなものだった。
連日の排気ガスの匂いが染み付いた重い制服を脱ぎ捨て、ベッドに腰を下ろす。
「疲れた……」
独り言さえ力なく空気に溶ける。時刻は午前一時を過ぎていた。
その時だった。
微かに、鼻を突く焦げ臭い匂いが、重く淀んだ部屋の空気に混じった。
「……?」
悠が顔を上げると、廊下のドアの隙間から、薄暗い煙が生き物のように這い寄ってきていた。
――火事だ。
逃げなければ。思考が焦燥に駆られた瞬間、網膜を焼くほどの強烈な閃光が、世界を白く塗り潰した。
「……っ!」
次に目を開けた時、悠は真っ白な虚無の世界に立っていた。
床も、壁も、天井もない。全方位が白一色の、遠近感すら消失した異常な空間。
「……なんだここ。夢か?」
しかし、掌に残る制服の感触や、火事の瞬間の恐怖はあまりに鮮明で、現実感が肌を刺した。
少し歩き出すと、視界の奥に、言葉を失うような不気味な光景が広がっていた。
真っ白な「地面」のような場所に、二十人近い人間が、まるで解体された標本のように等間隔で横たわっていたのだ。
それは、巨大な3Dプリンターが造形を行うように、目に見えないほど薄い層が幾重にも重なり、精密に肉付けされていく過程だった。
背中から始まり、腕、脚、胴体……。だが、その顔の部分だけは、いまだ未完成のままのっぺりと伏せられており、個人の判別は一切つかない。
悠がその異様な光景を凝視していると、背後から、緊張感の欠片もない声がした。
「やあ。驚いた? まあ、普通は驚くよね」
振り向くと、そこには安物のスーツを着た男が立っていた。輪郭は陽炎のように絶えず揺らぎ、存在そのものの現実感が希薄だ。
「ここはどこだ?」
「うーん、説明が難しいな。あそこに横たわっている連中、見える? あれね、君のアパートの住人たちだよ。火事で焼け死んじゃったから、今、向こうの世界の仕様に合わせて『再構築』してるんだ」
男は悠の横に並び、淡々と作業を見つめた。
「本来なら、ここで我々以外が行動していることがイレギュラーなんだ。だから僕が来たんだ。緊急事態だからね」
男は悠の顔を覗き込み、愉快そうに口角を吊り上げた。
「本当はね、一人だけだったんだ。異世界に送られる予定だった人間は。でも、不運なことに火事でアパートが丸ごと燃えちゃってさ。だから――全員、巻き込まれたってわけ。で、君はね、巻き込まれのなかの、さらに巻き込まれだ。君だけは死んでいない。火事に巻き込まれる寸前に、僕がこっちに引き抜いちゃったからさ。だから、あいつ……町内会長からはスキルを貰えないんだ。君は『死人』じゃないからね」
「町内会長……?」
悠が問い返すと、男は顎で、肉体の列の間を動く霧のような影を示した。
「ああ、あれが例の『町内会長』だよ。地道に作業してるだろ? 僕が総理大臣なら、あいつはただの町内会長。格が違うんだよ。あいつはいま、一人ひとりに生き返るためのライセンス……いわゆる『スキル』を流し込んでるんだ」
男はそこまで話すと、楽しげに目を細めた。
「特別に、僕が好きなスキルをあげるよ。何がいい?」
悠は沈黙した。今の話が事実なら、元の日常はすでに灰になっている。法もルールも通用しない異世界へ放り出されるなら、必要なのは圧倒的な生存能力だ。悠はかつて娯楽として消費した、ありとあらゆる「最強」の概念を頭に浮かべた。
「……じゃあ、魔法使いたい。それから、どんどん強くなるやつ、女の子を魅了するやつ、鑑定スキル、不老!あと、中身の時間が停止するアイテムボックスも」
知っている限りの「チート」を全て並べ立てた。
すると、スーツの男は一瞬きょとんとした顔をした後、腹を抱えて笑い出した。
「ははは! 君、面白いね。全部盛りじゃないか」
男は一転して冷徹な笑みを浮かべ、突き放すように告げた。
「でも、却下。流石にそれはチートすぎるよ。世界のバランスが壊れちゃう。でもまあ……『アイテムボックス』っていう響きは気に入った。それに近いのをあげよう」
「スキル……」
「うん。僕の気まぐれだ。君のスキルは『支配庫』だ。まあ、名前は気にしなくていいよ。君だけの、特別な鍵だ」
ちょうどその時、町内会長と呼ばれた影が作業を終え、肉体たちの呼吸が微かに再開された。
影は、すでに意識を保って自分を見つめる悠に気づき、僅かに動きを止めた。
「……手違いか」
影は短く呟き、霧のようにその場から消え去った。スーツの男もすでに姿を消しており、傲慢な声だけが響き渡る。
「適当なんだよ、神様ってやつは」
その瞬間、世界が激しく歪んだ。
気づいた時、佐藤悠は自分の部屋に立っていた。201号室。積み上がった水の段ボールも、すべてはあの時のままだ。
アパート名は『シャン・ソレイユ』。
しかし、窓を開けると、そこに広がっていたのは深夜の住宅街ではなく、月の光を浴びて黒々と波打つ、見たこともないほど巨大な樹木の海だった。そして背後には、垂直にそびえ立つ巨大な岩壁が立ち塞がっている。
アパートごと、異世界へ放り出されたのだ。
階下からは、複数の男女が上げる悲鳴と混乱の声が響き始めていた。
悠はふと思い立ち、壁際の水の山に手を触れた。
(……支配庫)
念じた瞬間、目の前の段ボールが音もなく消失した。脳内の「空間」に、それが確実に収納された感覚がある。そこには、外部とは切り離された、絶対的な静寂があった。
階下の悲鳴を冷めた目で見下ろしながら、悠は手元に残した一本のペットボトルを見つめた。
あの時、止めることのできなかった「水の山」が、この乾いた異世界で最強の武器になる。
佐藤悠の、そしてアパートの住人たちの「支配」と「服従」の物語が、ここから幕を開ける。
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