“優ちゃん”と呼ばれた日
第29章 “優ちゃん”と呼ばれた日
朝のブティックは、いつもより少しだけ明るく感じた。
大きなガラス越しに春の光が差し込み、
ハンガーに並んだブラウスやスカートの布地が淡く光を吸い込んでいる。
鏡の前で襟元を整える。
今日の服装は、桜色のシフォンブラウスにベージュのロングスカート。
淡い色合いの中に、胸元の小さなリボンがひときわ可愛らしく映えていた。
袖口には細やかなレースがあしらわれ、手を動かすたびに
柔らかく光を返す。
スカートの裾が揺れるたび、ふわりと微かな風が脚に触れた。
――この軽さには、まだ完全には慣れていない。
それでも、自然と背筋が伸びる感覚があった。
今日は休日明け。
平日とはいえ、昼前には人が増える。
レジ横でストック整理をしていたとき、
店のベルが軽やかに鳴った。
「いらっしゃいませ――」
反射的に顔を上げた視線の先で、
ドアの向こうから沙月、ほのか、真白、楓の四人が入ってきた。
思わず息を呑む。まさか本当に来るとは――。
沙月が小さく手を振りながら、いつもの調子で笑った。
「こんにちは。優ちゃん、働いてる?」
その呼び方に、店内の空気が一瞬止まった。
背後でハンガーを整理していた先輩の真衣が、
不思議そうに首をかしげる。
「優ちゃん?」
沙月は悪びれもせず微笑む。
「そう、この子の名前。かわいいでしょ?」
「へぇ……“優ちゃん”、ね」
真衣が柔らかく笑うと、
他のスタッフも自然とその名を口の中で転がしていた。
――やめてくれ。
胸の奥がざわめく。
けれど、もう止められない流れだと悟っていた。
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沙月たちは、店内を見て回りながら軽く試着を始めた。
「優ちゃん、このスカートどう思う?」
「優ちゃん、こっちの方が似合うかな?」
“優ちゃん”という響きが、
そのたびに空気をふわりと揺らす。
頬の内側を噛みながら、
必死に平静を装った。
「……そ、その色だと、春っぽくて明るい印象になりますね」
「わぁ、ありがと。優ちゃん、やっぱりセンスある~」
ほのかの何気ない言葉に、スタッフたちがくすっと笑った。
「ほんとだね、優ちゃん似合いそう」
「優ちゃん、このブラウス畳んでくれる?」
――あぁ、もう完全に浸透している。
抵抗する間もなく、その名は当たり前のように受け入れられていった。
「山下さん」ではなく、「優ちゃん」として、自然に。
不思議と嫌ではなかった。
むしろ、その呼び名の中に、
“仲間”としての温かさを感じていた。
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閉店後。
レジの明かりが落とされ、静かな音楽が店内を包む。
真衣が笑いながら言った。
「優ちゃん、今日お客さんいっぱい褒めてたよ。人気者だね」
「……あの、私――」
否定の言葉を出しかけたけれど、
彼女のやわらかな表情を見た瞬間、言葉が続かなかった。
鏡の中に映る自分を見る。
レースの袖、ふんわりと広がるロングスカート、
そして胸元に結ばれたリボン。
“優ちゃん”と呼ばれているその姿は、
たしかに自分自身だった。
けれど、どこか別の誰かのようでもあった。
胸の奥で、何かが小さく弾けた気がする。
それは不安でも、拒絶でもない――
ほんの少し、あたたかい感情。
「……優ちゃん、レジ締めお願いしていい?」
真衣の声に、自然と返事が出た。
「はい、わかりました」
その瞬間、もう“優ちゃん”という響きが
胸の奥で痛むことはなかった。
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服装描写
トップス:淡い桜色のシフォンブラウス。
薄手の生地は空気を含んで柔らかく、首元のリボンは光を受けるたびに艶やかに輝く。
袖口のレースが肌にかかるたび、ひんやりした感触が残る。
ボトムス:ベージュのロングスカート。
軽く揺れるフレアラインで、歩くたびに裾が波のように揺れる。
裏地の滑らかさが脚に心地よく、立ち仕事でも負担を感じさせない。
靴:白いローヒールのストラップパンプス。
女性用の柔らかなインソールが足裏に馴染み、
つま先の丸みがどこか優しい印象を与える。
アクセサリー:沙月から贈られた銀色の髪留め。
光が反射すると、まるで淡い月光を帯びているかのよう。
髪に挟むたび、あの時の言葉がふと蘇る。
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“優ちゃん”――
その響きが、この店の空気の中に溶け込み始めた。
スタッフたちの笑い声、ガラス越しの陽の光、
布の擦れる音、レジの金属音。
すべてが、少しだけ優しく聞こえた。




