鏡の前の小さな秘密
第十八章 鏡の前の小さな秘密
メイクの練習を、俺は誰にも見つからないように始めた。
きっかけは沙月の部屋で教わった“ナチュラルメイク”だった。
最初はただの“課題”のようなものだったのに、
気づけば、夜になると洗面台の前に立ち、
彼女にも言えない練習を繰り返していた。
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1 秘密の練習
洗面台のライトを一段階だけ落とし、
静かな部屋の中で、ブラシを手に取る。
肌にパウダーを乗せるたび、
ほんのわずかに光の反射が変わる。
下地を塗り、パフで抑える。
まるで“色を重ねる”というより、“空気を整える”ような作業だ。
化粧水の香りが、微かに甘く残る。
――この時間だけは、誰にも知られたくなかった。
「……別に、好きでやってるわけじゃない」
呟きながらも、鏡の中の自分が少しずつ整っていくのが分かる。
まぶたに薄くピンクを乗せてみると、目元の印象が柔らかくなった。
沙月の言葉を思い出す。
“目の形を活かすように塗って。隠すより、光らせる感じで”
指先でぼかし、仕上げにリップクリームを薄く引く。
唇の輪郭がぼんやりと浮かぶ。
「……こんなもん、か」
でも、鏡の中の“俺”は、思っていたよりずっと穏やかな顔をしていた。
男でも女でもない――そんな中間の、曖昧な顔。
“このままでいいのかもしれない”と、一瞬だけ思ってしまった。
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2 服の枚数が増えていく
気づけば、クローゼットの中が少しずつ変わっていた。
カジュアルなシャツの間に、いつの間にか紛れ込んだブラウス。
ジーンズの隣に、柔らかいプリーツスカート。
インナーも、彼女に勧められた“女性用”のものが増えていた。
ストラップの細いキャミソール、レースの縁取りがついたショーツ。
着心地は悪くない。むしろ、布の肌触りが心地いい。
だが、その“心地よさ”がいちばん怖かった。
“俺は男だ”
そう言い聞かせても、
柔らかい生地の温度が、それを否定するように身体に馴染んでいく。
シャツの襟元から覗く白いレースを見て、
慌てて上着を羽織ったとき――
その違和感よりも、むしろ“惜しさ”を感じた自分に気づき、
背筋がぞっとした。
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3 金欠の日々
服が増えれば当然、出費も増える。
最初は沙月が貸してくれた。
でも、それが続くわけもない。
「最近、バイト探してるんだよな」
「へえ、どんなの?」と彼女。
「……できれば、人前に出ないやつ」
彼女は笑った。
「また隠れようとしてる」
「だって、俺、見られたくないんだよ」
「そんなこと言ってるうちに、どんどん可愛くなってるのに」
「可愛くなんかなってねぇ」
「そう言う人ほど、変化に気づいてないの」
沙月はそう言いながら、俺の前髪をつまんでくる。
肩に届きかけた髪が、光に透ける。
“伸ばしたら?”と言われてから、あれ以来切っていなかった。
「じゃあ、美容院代くらいはバイトで稼がないとね」
「なんか、上手くのせられてる気がする……」
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4 街角で見つけた張り紙
帰り道、ショッピングモールの掲示板に貼られた一枚の紙が目に留まった。
>【急募】
>洋服店スタッフ(学生可)
>明るい方歓迎。ファッション好きな方優遇。
……“ファッション好き”か。
自分にそれが当てはまるのか分からない。
ただ、店名を見た瞬間、胸の奥が少しざわついた。
以前、沙月と一緒に行ったブティック。
あの、初めてロングスカートを試着した店だ。
「……ここで、働く?」
小さく呟く。
想像しただけで、全身が熱くなった。
俺があの店で働く姿――スカートを履いたまま。
いや、ありえない。
……でも、ありえないことを、もういくつもしてきた。
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5 夜の鏡
その夜も、鏡の前に立った。
ライトを落とし、今日もメイクの練習。
目元を整え、頬に少し血色を足す。
ブラシの毛が肌を撫でるたび、
“誰かに触れられている”ような錯覚が走る。
鏡の中で、唇を軽く結んだ。
今日の俺は、昨日より少し女らしい。
だが、それを自分で認めることが、まだ怖い。
「……俺は、男だ」
呟きながらも、
指先は自然に髪の流れを整えていた。
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第十八章 鏡の前の小さな秘密 完




