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鏡の前の素肌

第十七章 鏡の前の素肌


 病院からの帰り道、俺はずっと無言だった。

 性別変更の話を持ち出されたあの日から、数日。

 主治医の穏やかな声が、まだ頭の奥に残っている。


 「女性としての自己認識が安定してきている」

 その一言が、静かに胸の奥をざらつかせていた。


 結局、俺は「考えさせてください」とだけ言って帰った。

 手続きも何も、すぐに決められることじゃない。

 俺はまだ、男でいたい――はずだった。


 けれど、その“はず”の部分が、最近どうにも揺らぐ。

 鏡の中の自分が、少しずつ変わっていくのを止められないからだ。



---


1 「今日のテーマはスキンケアです」


 放課後、沙月の部屋。

 いつものように机の上には、彼女が用意した化粧水やクリーム、

 そして見たことのない小瓶がずらりと並んでいた。


 「はい、今日のテーマはスキンケアからの、ナチュラルメイク!」

 沙月はいつもの笑顔。

 俺はというと、気が重い。


 「……また顔に塗るのか?」

 「“また”って言わない。肌のケアは基礎中の基礎。これを怠ると、服が台無しになるの」


 そう言いながら彼女は、俺の頬を指で軽くつついた。

 指先が当たった部分がじんわり熱を帯びる。

 「ほら、ちょっとカサついてる。冬の乾燥残ってるね」


 沙月はポンプ式のボトルを手に取り、透明な液体をコットンに染み込ませた。

 「冷たいよ、我慢して」

 頬にそれが当たると、ひやりとした感触が一瞬走り、そのあとすぐにぬるく肌に溶けた。

 レモンバームの香り。

 ――これが“女の子の匂い”なんだと思った。


 「ほら、首元まで忘れずに」

 言われるまま、カーディガンのボタンを少し外して、首筋にコットンを滑らせる。

 柔らかい布が肌をなぞるたび、無防備さが強調されて、息が詰まりそうだった。



---


2 ナチュラルメイクの魔法


 「じゃあ次、化粧ね」

 「……またかよ」

 「“また”って言わないの。今日は“軽く”だから」


 彼女が差し出したのは、淡いピンクのチューブ。

 「これは下地。日焼け止め入り。手で伸ばして」

 俺は渋々手に取り、頬に塗る。

 ひんやりとして、肌の上に薄い膜を作る感覚があった。

 男の肌着よりもずっと繊細な感触――。


 「次、パウダー。はい、これ。ふわっと」

 柔らかいパフが肌に触れる。

 それだけで顔全体が軽くなったような気がした。

 「ほら、血色も整うでしょ」


 鏡を見る。

 そこには、確かに“俺”がいた。

 けれど、少し違って見える。

 頬の陰影が薄れ、目元が柔らかく、肌が一枚ベールをかけられたようだった。


 「……俺、こんな顔だったっけ」

 「そうだよ。もともと整ってるんだから。ちゃんと手をかければ、誰だって変わるの」

 沙月は自信ありげに微笑んだ。


 「はい、最後はリップクリーム。これ塗ると、血色が良くなるから」

 指先で唇に触れる。

 花のような香り。

 その感触が妙にリアルで、俺は思わず目を逸らした。



---


3 服装の違和感と心地よさ


 その日の服装は、淡いラベンダー色のカーディガンに、

 フリル付きの白いブラウス、スカートは淡いグレーのミモレ丈。

 裾に細かな刺繍が散っていて、歩くたびに光を受けて微かに揺れる。


 ふと風が吹き抜けると、レースの縁が肌に触れ、そこから温度が伝わってくる。

 布の柔らかさ、ストッキングのなめらかさ――。

 俺は思わずスカートの裾をつまんで感触を確かめた。

 「やっぱり……落ち着かない」


 「そう言いながら、似合ってるんだけどね」

 沙月は笑いながら俺の前髪を整える。

 その指先が、頬のあたりを優しくかすめた。


 「肌も、ずいぶん柔らかくなったね」

 「それは……その、クリームのせいだろ」

 「ううん。ちゃんとケアしてる証拠。努力が出てる」


 俺は何も言えず、ただ視線を落とした。

 膝の上のスカートのしわを伸ばしながら、

 指先が少し震えているのを感じた。



---


4 帰り道で


 夜風が心地よかった。

 メイクをした顔に当たる風が、いつもより柔らかく感じる。

 ファンデーションが薄い膜を作っているからだろうか。

 皮膚の感覚が、どこか違っていた。


 足もとは、先日買ったばかりのフラットシューズ。

 ヒールはないけれど、かかとのカーブが女性的で、

 履いて歩くと自然に背筋が伸びる。


 「ねえ、沙月」

 「ん?」

 「なんか……息がしづらいな」

 「最初はね。でも、それが“普通”になると、楽になるの」

 沙月は振り返り、俺の髪を留めているリボンを指で整えた。

 その仕草が、あまりにも自然で、俺は何も言い返せなかった。



---


5 鏡の中の“知らない俺”


 家に帰って、鏡の前に立つ。

 照明の下で、肌がやけに滑らかに見えた。

 唇の色も、目元の影も、ほんのりとした柔らかさを帯びている。


 洗面所でメイクを落とす。

 コットンに落とし液を含ませると、

 鏡の中の“誰か”が、少しずつ“俺”に戻っていく。


 けれど――

 戻るたびに、どこかが空っぽになるような気がした。

 肌がむき出しになる瞬間、

 さっきまで乗っていた香りや光沢が消えていく感覚が、妙に寂しい。


 「……俺は、何をしてるんだろう」

 呟きながら顔を拭うと、

 コットンに残ったピンクの色が、夜の照明の下で静かに滲んだ。



---


第十七章 鏡の前の素肌 完


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