白衣の前で
第十六章 白衣の前で
その日の朝、空気がいつもより冷たく感じた。
春なのに、窓の外は曇り空。
鏡の前で前髪を整えながら、俺はため息をついた。
カーディガンの袖口を引っ張り、襟元のリボンを軽く結び直す。
今日は柔らかいベージュのブラウスに、アイボリーのロングスカート。
どちらも沙月に選ばされたもので、控えめなレースが縁にあしらわれている。
手触りは滑らかで、少しひんやりしているのに、着ているとじんわりと体温に馴染む。
肌の上で布が動くたび、かすかにくすぐったい。
男の服とはまるで違う。
“守られている”というより、“包まれている”感じがする。
ただ、それを感じるたびに、心のどこかが軋んだ。
俺は男だ――そう言い聞かせながら、髪留めを手に取った。
パールピンクの小さなリボン。
前髪を留めるだけで、顔の印象が柔らかくなる。
その“変化”が、今は怖かった。
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1 診察室へ
主治医のいるクリニックは、駅から少し離れた場所にある。
白い壁と木のフロア。
静かなピアノの音が待合室に流れていた。
俺は膝の上で手を組んでいた。
ブラウスの袖口のレースが、指先にふわりと触れる。
なんだか、逃げ出したくなるような気分だった。
名前を呼ばれ、診察室へ。
「久しぶりだね、相原くん」
主治医の白衣が眩しかった。
柔らかい声の裏に、確かな“現実”の気配があった。
「最近の体調はどう?」
「……まあ、特には。普通です」
「うん。表情が柔らかくなったね」
その言葉に、思わず眉をひそめた。
「え?」
「以前より、自然に笑ってる。生活、変わった?」
沙月の顔が浮かぶ。
レッスン、服、髪、スカート。
俺は小さく息をのんで、「……少しだけ」と答えた。
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2 進められた“次の段階”
主治医はカルテをめくりながら言った。
「そろそろ、性別適合のカウンセリングに入ってもいいかもしれないね」
言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。
「……せ、性別……?」
「うん。これまでの記録と、心理テストの結果を見ても、
君は女性としての自己認識が安定してきてる」
“女性として”。
喉の奥が詰まった。
俺は慌てて否定しようとした。
「いや、俺は……別に、女になりたいわけじゃ」
「焦らなくていいよ。ただ、自然に“そうしている”ように見えるんだ」
主治医の目はやさしいのに、逃げ場を与えてくれなかった。
服の襟もとを無意識に握りしめる。
布の感触が指先でしっとりと潰れた。
「……服のことは、知ってます?」
「少しね。外見を整えることは、自己像を確かめるための行為でもある」
「でも、それは……」
「“似合う”と思えた瞬間、心のどこかがそれを受け入れた、ということだよ」
俺は何も言えなかった。
ただ、手の中のレースが呼吸をしているように感じた。
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3 診察後の帰り道
外に出ると、雨が降り出していた。
傘を差す。
しとしとと音がして、スカートの裾が風に揺れた。
歩くたび、足に当たる布の感触がやけに意識に残る。
少し前なら、こんな格好で外を歩くなんて考えられなかった。
今は、恥ずかしさと同時に“守られているような安心”を感じてしまう。
自分でも理解できない。
でも、それが確かに“心地いい”のだ。
胸の奥がざわざわする。
主治医の言葉が、頭の中で何度も反芻された。
“君は女性としての自己認識が安定してきている”
俺が?
俺が“女”に?
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4 雨宿りのカフェで
駅前のカフェに入り、窓際の席に座る。
ブラウスの袖を少しめくると、腕に薄く雨粒がついていた。
ナプキンで拭うと、レースが肌に吸い付いて少し冷たい。
その冷たさが、妙に心を落ち着かせた。
カップを手に取る。
紅茶の香りが立ちのぼり、ほのかな甘みが鼻をくすぐる。
――少し前まで、俺はこういう味を「女っぽい」と避けていた。
それなのに、今は自然に受け入れている。
いつからだろう。
俺が“女っぽさ”を拒否する言葉を、口にしなくなったのは。
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5 夜、鏡の前で再び
部屋に戻り、鏡の前に立つ。
濡れた髪をドライヤーで乾かすと、ふわりと香りが広がった。
沙月に勧められたシャンプー。
少し甘い花の匂い。
ブラウスを脱ぐと、下に着ていたキャミソールのストラップが肩にかかっていた。
レースが小さく波打ち、肌に吸い付く。
布の一枚一枚が、まるで“女”という意識を縫いこんでいるみたいだった。
俺は鏡の中の自分に問いかける。
「俺は……どこへ向かってるんだ?」
答えはない。
ただ、パールピンクの髪留めが光を反射して、
鏡の中で、静かに瞬いていた。
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第十六章 白衣の前で 完




