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口を開けば、喉の奥からこみ上げてくるのは怒号か、それとも情けない嗚咽か自分でも分からなかった。
信じたくなかった。
身寄りの無くなった自分に手を差し伸べ、名前を呼んでくれたあの温もりは、すべて計算された偽りだったというのか。
頭では拒絶し、心が引き裂かれるような痛みを覚えているのに、あの極限の死地で熱を帯びた部位が、妙に冷徹に囁きかけてくる。
(…カタカミ国王の言う通りだ)
自分はあの中で、確かに怯えながらも歓喜していた。
理性を捨て、獣のように牙を剥き出しにして戦った瞬間、ぞっとするほどの高揚感を覚えてしまったのだ。
認めたくない。
自分は最初から、あちら側の人間。
化け物だったのだと突きつけられたような絶望が、全身を重く縛り付ける。
(これから一体、どうなるんだ…)
その時だった。
静寂を切り裂くように、廊下から再び重苦しい足音が響いてくる。
どうやらアラシマが医務室の扉を閉めずに出て行ったようだ。
身構える間もなく、医務室に誰かが入ってきた。
入ってきた者は先程まで、トウシと戦ったあの兵士だった。
トウシはベッドの上で身体を硬直させた。
血の気が引き、息が詰まる。
兵士の顔はあの時と同じく、無表情のままトウシに語りかける。
「殺してやろうか?」
その言葉にトウシの全身の毛穴という毛穴が収縮し、背筋を狂暴な寒気が駆け抜けた。
鳥肌が立ち、心臓が凍りついたかのように跳ね上がる。
かつての平和な日常であれば、ただの悪趣味な冗談だと笑い飛ばせただろう。
だが、今は違う。
目の前にいる兵士は、今言った言葉をその場で実行に移せるだけの圧倒的な殺意と実力があることを、トウシの身体が一番よく理解していた。
「はははっ! 冗談だよ、ごめんな!」
兵士は突如として腹を抱え、医務室の空気を揺らす程の大笑いを破裂させた。
さっきまでの無表情からガラリと変わり、短く刈り上げた坊主頭をガシガシと掻きながら、まるで近所の悪ガキのような親しげで屈託のない笑顔を見せる男。
三十代半ば程の凛々しい顔立ちが、笑うと一気に砕けた印象へと変わる。
あまりの振れ幅の激しさに、トウシはただただ口を開けて唖然とするしかできなかった。
「伝統なんだ、この流れは」
「…でん、とう…?」
「そう、伝統!お前、アラシマさんの推薦組だろ?推薦で入ってきた奴にはこうするって決まってるんだよ」
まるで別人のように軽快に喋り立てる男を前に、トウシの困惑は深まるばかりだった。
あの兵士が、今自分の前で大笑いしている。
どうしても同一人物だと思えなかった。
「さてと、遅くなったが、俺はトバ国特殊部隊隊長のシンメイだ。よろしくな」
シンメイと名乗った男は、トウシに向かって左手を差し出してきた。
トウシは戸惑い、一瞬躊躇したものの、ベッドの上で恐る恐るその手を握り返した。
握手を取り交わした直後、シンメイは自身の右手をトウシの顔の前に突き出し、楽しそうに歯を見せた。
「それにしても、これ見ろよ。親指」
見せられたシンメイの親指は、不自然な方向に曲がり、赤黒く大きく腫れ上がっていた。
「見事に骨が折れてるし、腱まで切れちまってるよ。お前、やるなぁ」
自分が男につけた傷を前にして、シンメイは痛がるどころか、心底愉快そうにトウシの狂気を称賛した。
「さて! 困惑しているところ悪いが、何か質問は?」
戸惑うトウシを置いてきぼりにする勢いで、話すシンメイ。
まだ落ち着くことができていないトウシは、恐る恐る
口を開く。
「えっと…、シンメイ隊長は…」
言いかけたところで、シンメイがピシッと手を挙げて遮った。
「シンメイさんでいい。勤務時間以外に堅苦しくされるのは嫌いでね。それに俺は公私混同しないタイプだから安心しろ」
「で、では…シンメイさん、一つ聞きたいのですが、私はこのままトバ国の兵士として戦うということは確定なのですか?」
「そうだな!」
即答だった。
迷いも、同情も、溜めすらもない、拍子抜けするほど軽い返答。
そのあまりの軽快さに、トウシは息を詰まらせた。
どこかで期待していたのだ。
「これは何かの間違いだ」
とか
「嫌なら断る道もある」
そんな救いの言葉が返ってくるのではないかと、心のどこかで往生際悪く、淡い希望に縋りついていた。
だが、目の前の男はトウシの決定権など初めから存在しないとばかりに、当然の事実としてそれを突きつけてきた。
「嫌だよなぁ」
絶望がトウシの顔に出ていたのだろうか。
シンメイはへらりと笑った。
「あんなボコボコにされてさ、それでもって今日から兵士として生活しろなんて言われたら、そりゃ嫌だよなぁ」
トウシは何も言い返せず、俯くことしかできない。
そんなトウシの反応を意に介さず、シンメイは自身の短く刈り込んだ坊主頭をガシガシと掻きながら言葉を続けた。
「まぁ、あのしごきも本来は、俺みたいな隊長じゃなくて、もっと階級が下の奴がするしな」
「…え?」
思わずトウシは顔を上げた。
「隊長自らがすることじゃねぇんだよ。わざわざ新兵一人の適性を見るために、俺が直接拳を交えるなんて普通はあり得ない」
「じゃあ、何故シンメイさんが…?」
シンメイはへらりと笑いながら、折れた右手の親指をトウシに見せつけるように振った。
「俺もお前と同じく、アラシマさんの施設からの推薦組だからさ」
トウシは思わず耳を疑った。
目の前にいる男が、自分と全く同じ境遇だったなんて。
あの穏やかな施設から引きずり出され、アラシマの冷徹な言葉によって運命を狂わされた先輩が今、特殊部隊の隊長として目の前に立っている。
トウシを前に、シンメイは自身の坊主頭を触りながら、屈託のない笑みを浮かべた。
「後輩が来るって聞いたらさぁ、無性にテンション上がっちまったんだよね。いやー、すまんすまん!」
悪びれもなく笑い飛ばすシンメイ。
自分と同じように傷つき、戸惑い、絶望したかもしれない過去を持つ男。
その男が今では、自分の指を折られたことすら笑い飛ばす、狂った軍人へと変貌している。
(この人も…最初は俺と同じだったのか?)
だとしたら、目の前のシンメイの姿は、未来の自分そのものなのかもしれない。
逃れられない運命の重みと、シンメイという存在が発する底知れない恐怖に、トウシは黙ることしかできなかった。
「だからさぁ、お前の気持ちはほんっっっとうによく分かる」
「だったら尚更、俺…、私を帰らせて下さい!」
縋りつくようなトウシの叫び。
だが、シンメイの顔から笑みがふっと消えた。
シンメイはトウシの目をまっすぐに見つめ、静かに続ける。
「断言する…。お前はいつか、ここに来て良かったと思う日が来る」
「そんなわけ…」
「来るさ、必ずな」
言い返そうとするトウシの言葉を、シンメイは静かな圧で遮った。
だが、シンメイの表情には何処か、優しさがあった。
「よし、今日はここまでにしてゆっくり休みな。お前の身体が回復したら訓練が始まる」
そう言って、シンメイは立ち上がり、医務室を後にしようとする。
「待って下さい。他にもまだ…」
「一つ聞きたいと言ったのは、お前だぞ。いいから休め」
そう言い残し、シンメイは背を向けてひらりと手を振り、医務室を後にした。
あんなにも重苦しい沈黙と狂気に満ちていた空間に、再び静寂が戻ってきた。
トウシの頭の中では理不尽さと、行き場のない絶望がぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
「ここに来て良かったと思う日が来る」
シンメイのこの言葉が、耳の奥で嫌にこびりついて離れない。
あの静かな施設での生活も、もう二度と戻らないことは分かっている。
なのに、絶対に受け入れたくないはずのその言葉を心のどこかで打ち消しきれない自分がいることが何よりも悔しかった。
トウシは震える両手で顔を覆い、そのままシーツの中にうずくまる。
冷たく消毒液の匂いが漂うベッドの上で、少年がただの人間から兵士へと変貌していくための長い日々が、静かに幕を開けたのだった。




