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穏やかでありながら底知れない響きを持つその声に、トウシは息を呑む。
「このトバ国の兵士は、様々なルートでここに集められている。自ら富と名誉を求めて志願する者、罪を免れる代わりに身体を差し出す者、そしてトウシ君のような推薦だ」
「推薦…?」
トウシがかすれた声で繰り返すと、カタカミは背後に控えるアラシマを一瞥してから、再びトウシに視線を戻した。
「アラシマは昔、このトバ国の兵士だったんだよ」
「…えっ!?」
トウシは思わず目を見張り、アラシマへと視線を走らせた。
整えられたスーツ、常に冷静沈着な物腰、そして感情の読めない眼鏡の奥の瞳。
あの知的で事務的な男が、命を削り合う兵士だったなど、信じられなかった。
だが、アラシマはトウシの視線を受けても微動だにしない。
否定もしなければ、弁明もしない。
その沈黙こそが、それが紛れもない事実である何よりの証拠だった。
「驚くのも無理はない。彼は数々の修羅場をくぐり抜け、生き残った。だからこそ、誰が本物の牙を持っているかを見抜く目が養われている」
カタカミは満足げにうなずき、トウシの顔に冷徹な視線を突き刺す。
「彼が君を選んだということは、君の中に眠る獣が本物だという証明だ。誇りなさい、トウシ君」
全身の痛みを堪えながら、トウシは掠れきった声で、ただ淡々と問いかけた。
「…拒否権は、ないのですか」
トウシの言葉にカタカミは嫌な顔をするどころか、ひと笑いした。
「よく、国王の前でそれを言えたね」
カタカミは愉快そうに声を漏らし、さらに一歩、ベッドへと近づいてくる。
「確かにあんな理不尽な目に遭わされたのだから、嫌な気持ちになるのは分かるよ。命の危機を感じ、恐怖に震え、こんな場所に引きずり出された恨みもあるだろう」
王の瞳が、面白がるような、それでいて底の知れない光を帯びてトウシを捉える。
「だが、トウシ君。君もあの瞬間に感じたのではないか?」
カタカミは続ける。
「殺されると思った極限の恐怖の中で、全てを忘れてただ生き残るために牙を剥いた…。あの瞬間、君は何を感じた?」
カタカミは問いかけながら、トウシの顔をじっと観察するように見つめた。
その視線に射抜かれながら、トウシの脳裏にはあの時のことがフラッシュバックする。
感情が見えない化け物だと思っていた相手も、傷つけば自分と同じ血を流す人間だと分かった瞬間、あの極限の闘争の中で、トウシの口元に浮かんでいた自虐的で歪んだ笑み。
それをカタカミは冷徹な眼差しで正確に見通していた。
「…気づいていたのだろう?」
カタカミは低く、不気味な笑みを深めた。
「あの時、ぞっとするような高揚感を覚えたはずだ。理性をかなぐり捨て、ただ生き延びるために牙を剥く。あの殺し合いの底で君は生きていることの歓びを味わったはずだ」
図星を突かれたような気まずさと、自分の中に潜む獣の片鱗を暴かれた恐怖で、トウシは息を呑んだ。
否定したくてもあの時、身体の奥底で燃え盛った熱狂の正体をこの男はすべてお見通しだったのだ。
喉の奥まで出かかった否定の言葉は、消えていた。
恐ろしかったはずだ。
殺される恐怖に震え、必死で泥を這いずり回っていたはずだった。
だが、あの時の胸の奥で爆発したあの狂おしいまでの熱量をどうして嘘だと言い切れるだろう。
自分はあの惨劇の中で、絶望と同時に恐ろしいほどの高揚を感じていたのだ。
「入隊の手続きはアラシマがしてくれる。君はまず傷を癒すことから始めるように。次に会う時は更に成長した姿を見せてくれ」
カタカミは心底満足したように目を細め、背筋を伸ばしてゆっくりと踵を返し、靴音を響かせ去っていく。
医務室にはトウシとアラシマの二人だけが取り残された。
静寂が、重たく部屋に垂れ込める。
機械の電子音だけが規則的に響く中、どちらも口を開かず、緊張感の漂う沈黙が果てしなく長く感じられた。
母親を亡くした自分を庇護し、優しく温かな眼差しを向けてくれていた父親のようなアラシマ。
だが今、トウシの前にあるのは、軍服を着た最高権力者の背後で冷徹に控えていた元兵士としてのアラシマだった。
トウシは静かに息を吐き出すと、包帯の巻かれた手をゆっくりと下ろし、感情を押し殺した声で問いかけた。
「…最初から、このつもりだったんですか?」
アラシマは眼鏡の位置を僅かに直した。
表情を変えることも、トウシから視線を逸らすこともない。
「…このつもりとは?」
「私を孤児院に引き取ったことも、優しく接してくれたことも…全部、私をトバ国の兵士にするための計算だったのですか」
声の震えを抑えるのが限界だった。
怒りというよりも、信じていた恩人に売り渡されたという事実が、胸を鋭く抉っていた。
アラシマはすぐに答えず、壁際に置かれていた丸椅子に手を伸ばし、ベッドの脇まで運ぶと、静かに腰を下ろす。
トウシと同じ目線の高さになったアラシマは、眼鏡の奥の瞳でまっすぐに少年を見つめた。
「信じられないかもしれませんが、違います。私が君を引き取ったのは最初から兵士に仕立て上げるためではありません」
アラシマは一呼吸を終え、続ける。
「しかし、完全に無関係だと言えば嘘になります」
アラシマは淡々と、しかし静かな声で語り始めた。
「私は現役を引退した後、カタカミ国王からあの孤児院の管理を任されました。そして同時に、一つの役割を与えられていたのです」
「…役割とは?」
「孤児たちの中に兵士としての特出するべき才能持つ者がいれば国へ推薦するように、と」
トウシは息を呑み、固まった。
「過去にも数人、私の孤児院から推薦を受けて軍に加わった者がいます。彼らもまた、戦うための資質を持っていました。そしてトウシ、君もその一人だったということです」
「…才能なんて、私は求めていません…」
「求めていなくとも、持っている者は持っている」
アラシマの声は冷静そのものだった。
取り乱すトウシとは対照的に、残酷な事実を淡々と突きつけてくる。
「私には、君の中に眠る獣の兆候が見えていた。だから推薦した。それだけです」
「それだけ…?あなたにとってはそれだけなのですか?家族みたいに接してくれたのは、全部嘘だったということですか?」
トウシの震える問いかけにアラシマはすぐに答えず、ただ静かにトウシを見据えた。
「128万8942」
静まり返った医務室に、アラシマの低い声が落とされた。
「…は?」
「この数字が何か、分かりますか」
アラシマは淡々と続ける。
「この数字は、二十年前に亡くなったトバ国民の数です。この国が払った甚大な犠牲の数です」
「…それが、私に何か関係が…」
「あなたにとっては、教科書に載っているだけの過去の戦争の話でしょう」
アラシマは眼鏡の奥の瞳を細め、さらに言葉を重ねた。
「確かにあなたとは無関係だ」
アラシマはゆっくりと立ち上がり、ベッドの脇から見下ろすようにトウシに告げた。
「ただ、誰かがしなくてはいけない。次の破滅が訪れた時、この国を…。生き残るべき者たちを護る必要があります」
「だからって、それが私である必要はないのでは?これではまるで生贄ではないですか」
「生贄とは、意思も無く、ただ屠られるだけの弱者のことです。あなたには生き残り、護る側の才がある」
アラシマはそれ以上言い訳を重ねようとはせず、トウシの怒りも、絶望も、全てを受け止めた上で、立ち上がりながら冷徹に答える。
「理不尽だと思うでしょうが、ただ…あなたにも必ず分かる時が来ます」
アラシマはそう言い残し、そのまま医務室から出た。
トウシはベッドの上で、何も言うことができなかった。




