10年前の温もり
トウシの脳裏に、あの日である10年前の記憶が溢れ出していた。
母親が病気で亡くなった。
8歳のトウシにとって、母親の死は世界が真っ暗になってしまうほどの絶望だった。
父親は物心つく前に蒸発しており、トウシにとっての家族は母一人だけだった。
頼れる親戚もおらず、ずっと二人きりで支え合って生きてきたからこそ、母の死はあまりに大きく、重かった。
病室の冷たい床の上で膝を抱えて、一人で震えていた。
どれくらい泣いただろう。
気づけば、涙は出尽くし、ただ茫然としていた。
トウシの心の中には一つの感情しかなかった。
絶望。
ただ、それだけ。
その時、病室の扉が静かに開いた。
顔を上げる気力すらなかったトウシの視界の端に、革靴が床を捉える音が小さく響く。
そこにはスーツ姿に薄い金属フレームの眼鏡を掛けた、知的で上品な大人の男性が一人、静かに佇んでいた。
アラシマだった。
引き締まった端正な顔立ちと、物腰の柔らかそうな雰囲気を纏ったその男はきっと病院の関係者が、身寄りのない子供の引き受け手として連絡を入れたのだろう。
アラシマは騒ぎ立てることもなく、ただ静かに一歩ずつ歩みを進めると、冷たい床の上で小さく丸くなっているトウシの目の前で、そっと跪いた。
「安心して下さい。あなたは一人ではない」
包み込むような低く穏やかな声とともに、アラシマの長い腕がトウシの小さな体をそっと引き寄せた。
清潔なスーツから漂う、ほのかに甘く落ち着いた香気。
仕立ての良い布地越しに伝わってくる体温は驚くほど温かく、凍りついていたトウシの皮膚にじんわりと染み込んでいく。
(…温かい)
病室の床の冷たさとは対照的なその温もりに触れた瞬間、出尽くしたはずの涙が再び溢れ出した。
アラシマは何も言わず、ただ父親が幼い子を慈しむように、優しくトウシの頭を撫で続けてくれた。
眼鏡の奥にある柔らかな瞳には、嘘偽りのない深い愛情が宿っているように見える。
一度も会ったことがない、見知らぬ大人であるのに、何故かアラシマの胸の中に抱かれていると、トウシの心にはまるでずっと昔から知っていたかのような、どこか懐かしく、安らかな感覚が広がっていくのだった。
生き別れた父親の面影なのか、それともずっと夢に見ていた頼れる存在の温もりなのか。
8歳のトウシには、その正体を確かめる術などない。
ただただ、絶望の深海へと沈んでいく自分を引き揚げてくれたその温かい腕に、必死でしがみつくことしかできなかったのだ。
それは、暗闇の中で途方に暮れていたトウシにとって、まさに差し込んだ一筋の光明そのものだった。




