3
身体が動かない。
勿論、兵士から受けた痛みもあるが、それ以上に恐怖が勝っていた。
「立て」
兵士がトウシに対し、命令する。
それでもトウシは動かない。
「立て」
先程と全く同じ台詞。
トウシは動きたくても動くことができなかった。
その様子を見た兵士は容赦なく再度、重い蹴りを放った。
「…!?」
泥水を激しく跳ね飛ばし、身体が横転する。
肋骨あたりに走った凄まじい衝撃に、肺に残っていたわずかな空気が一気に押し出された。
声すら出せないほどの激痛が全身を駆け巡り、視界が歪む。
「立て」
兵士の台詞は変わらない。
しかしトウシはこれに応えることができない。
その後は全く同じ場面の繰り返しだった。
兵士がトウシの身体に攻撃を仕掛け、立つように命令し、トウシが立ち上がれないでいると、兵士は作業でもこなすかのように淡々と攻撃を仕掛け、そしてまた同じ台詞で命令する。
応えられるはずがなかった。
身体中の骨と筋肉が悲鳴を上げ、恐怖で指一本すら動かすことができない。
無限にも思える理不尽な暴行の果て。
何度続いたかトウシは把握できない。
「…立て」
遂に場面が変わった。
兵士は短く吐き捨てると、地べたで痙攣するトウシの胸ぐらを片手で掴み、そのまま無理矢理持ち上げた。
足が地面から離れ、宙に吊るされ、ただでさえ足りない酸素が更に奪われる。
首元を激しく締め上げられたことでトウシの身体は意識とは裏腹に生存を強く求めた。
痙攣する腕をどうにか動かして、兵士の腕へ必死に爪を立てる。
皮膚が裂け、兵士の腕から薄らと血が流れ、それは大雨と一体化するように洗い流されていく。
しかし、兵士の表情は全く変わらない。
この兵士が自分と同じ人間であるとは思えない。
人間らしい感情が見受けられない表情にトウシは戦慄を覚え、徐々に目の前が白く点滅し始める。
トウシの脳内には今までの記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
物心がつく前に父親が蒸発し、女手ひとつで育ててくれた母親。
だが、そんな母親も病気でトウシを置いて帰らぬ人となった。
身寄りを無くしたトウシは訳も分からないまま孤児院へと入る。
優しくしてくれたアラシマの顔。
孤児院での仲間たちとのささやかな日常。
そして数分前のアラシマの言葉が浮かぶ。
「大丈夫です、あなたならきっと…」
(何故、アラシマさんはこんな俺に期待している?)
アラシマの考えが全く分からない。
それでも一つだけ、トウシの中に確たる想いがあった。
(…アラシマさんの考えを裏切りたくない)
どこか落ち着いた物腰や佇まいに、トウシは心のどこかで、一度も知ることのなかった父親の面影を無意識に重ね合わせてしまっていたのかもしれない。
しかし、意識が急速に白く塗りつぶされていく。
消えゆく視界の中、トウシの目に飛び込んできたのは、自分の胸元を容赦なく締め上げる兵士の太い指だった。
無意識だった。
「!?」
急に兵士がトウシを掴んでいた手を振り払い、それと同時にトウシは地面に叩き付けられる。
兵士は自身の親指の骨が折れ、腱が断裂していることを認識した。
兵士の親指から、じわじわと血が流れる。
無意識の内にトウシは、兵士の親指に噛み付いていたのだ。
トウシは立ち上がりながら、兵士から距離を取る。
自分でも何処にそんな体力が残っていたのか分からない。
トウシは出血している兵士を見つめ、掠れた声で漏らした。
「…あんたも、俺と同じ人間か…」
兵士の親指から流れる赤い血。
感情が見えない化け物だと思っていた相手も、傷つけば自分と同じ血を流す人間だと分かった瞬間、トウシの口元に自虐的で歪んだ笑みが浮かんだ。




