第九話 太刀を持たぬ稽古
鹿島の朝は、音から始まった。
竹葉を渡る風。
井戸から水を汲み上げる縄の軋み。
薪を割る乾いた音。
門弟たちの短い掛け声。
そして、遠くから聞こえる木刀の打ち合う音。
かん、と響くたびに、山本勘助の胸はわずかにざわついた。
剣を学びに来た。
そのために、ここまで歩いてきた。
笑われ、追い払われ、泥にまみれ、傷を負い、それでも鹿島まで来た。
なのに、彼の手には木刀がない。
太刀も持たされない。
門の内へも、まだ入れない。
ただ門前に立つことだけを許されている。
それが今の勘助だった。
朝の薄い光の中、勘助は門前に立っていた。
左足を嫌わぬように。
右へ逃げぬように。
肩を上げぬように。
顎を引きすぎず、上げすぎず。
呼吸を浅くせず。
地面を踏み殺さず、地面から逃げず。
新九郎に言われた言葉を、一つずつ体に置いていく。
しかし、言うほど簡単ではなかった。
立つだけなら、子供でもできる。
そう思っていた。
だが、卜伝の前で立とうとすると、立つという行為がまるで別物になる。
足の裏が、草鞋の中でわずかに震える。
左膝が、痛む前から逃げようとする。
肩の傷が引きつり、そこをかばおうとして背中が歪む。
その歪みを直そうとすると、今度は呼吸が詰まる。
呼吸を整えると、顎が上がる。
顎を下げると、視線が足元へ落ちる。
足元ばかり見れば、周りが見えなくなる。
たかが立つこと。
されど、立つこと。
勘助は半刻も経たぬうちに、額へ汗を浮かべていた。
朝の空気は冷たいはずなのに、背中にはじっとりと熱がこもる。
そこへ、弥平が箒を持って出てきた。
「おはよう、門前の案山子」
「おはよう、掃除の兵法者」
「誰が兵法者だ」
「卜伝殿が申されていた。掃除も兵法だと」
「あれを俺に振るな。昨日から苔を見るたびに気が重いんだよ」
弥平はぶつぶつ言いながら、門前を掃き始めた。
勘助はその姿を見た。
竹箒の運び方。
腰の落とし方。
足の置き方。
弥平は剣の稽古ではまだ下の方なのだろう。
だが、掃除をする時の足運びは悪くなかった。
無理に力を入れていない。
箒の先に合わせて、自然と重心を移している。
勘助がじっと見ていると、弥平が顔を上げた。
「何だよ」
「そなたの足は、掃除の時はよく動く」
「は?」
「箒を使う時、右へ逃げていない。地面を見ているが、足元だけに囚われてもいない。掃く先へ体がついていっている」
弥平は気味悪そうに半歩下がった。
「お前、朝から人の掃除をそんな目で見てたのか」
「すまぬ」
「謝られると余計に変な感じがする」
「だが、本当に見事だと思った」
「やめろ。掃除を褒められても嬉しくない」
「拙者は、そなたのようには立てぬ」
弥平は言い返そうとして、少し黙った。
そして、鼻の頭を掻いた。
「……掃除は、毎日やってるからな」
「毎日やれば、立てるようになるのか」
「知らないよ。俺に聞くな」
「誰に聞けば」
「先生だろ」
「卜伝殿は、まだ何も教えてくださらぬ」
「教えてるだろ」
弥平は箒を止めた。
「立てって言ってる」
勘助は返事ができなかった。
弥平は気まずそうに視線を逸らす。
「……いや、俺が偉そうに言うことじゃないけど」
「いや」
勘助はゆっくりうなずいた。
「そうだな。すでに教わっているのだな」
「やめろ。真面目に受け取られると困る」
弥平は照れ隠しのように、いつもより強く地面を掃き始めた。
しばらくして、新九郎が門から出てきた。
朝稽古へ向かう途中らしく、木刀を手にしている。
勘助を見るなり、顔をしかめた。
「崩れている」
「どこが」
「全部だ」
「全部か」
「特に左肩。傷をかばっているせいで胸が閉じている。胸が閉じれば呼吸が浅くなる。呼吸が浅くなれば、目が急く。目が急けば、足がさらに逃げる」
新九郎は勘助の周りを一周した。
昨日までなら、その歩き方は獲物を値踏みするように見えただろう。
だが今は、違った。
癖を見ている。
歪みを見ている。
勘助は問うた。
「そなたは、いつから人の立ち方を見るようになった」
「先生に叩かれてからだ」
「叩かれたのか」
「当たり前だ。俺だけ特別に褒められて育ったと思うな」
「いや、思ってはいない」
「思っていただろう」
「少し」
「正直に言うな!」
新九郎は木刀を地面に立てる。
「俺が初めて先生の前で木刀を振った時、何と言われたと思う」
「筋がよい、か」
「違う」
「速い、か」
「違う」
「では、何と」
新九郎は苦々しい顔をした。
「『その足では、逃げる鼠も斬れぬ』だ」
弥平が箒を持ったまま、こらえきれずに小さく笑った。
新九郎が睨む。
「弥平」
「いえ、何も」
「笑ったな」
「笑ってません。鼠が少し気の毒だなと思っただけです」
「それを笑ったと言う」
勘助は思わず口元を緩めた。
新九郎はさらに不機嫌そうになったが、すぐに勘助の足元へ視線を戻した。
「俺は自分の踏み込みが強いと思っていた。実際、同年代では誰よりも速く踏み込めた。相手が受ける前に打てる。だから、それが強さだと思っていた」
「違ったのか」
「強さの一つではある。だが、それだけではない。深く踏み込めば、その分戻れぬ。戻れぬ足は、勝っている間は強いが、外された時に死ぬ」
新九郎は自分の右足を見た。
「今も直りきっていない。庄左に時々言われる」
「右足の踏み込みが強すぎる、と」
「お前まで言うな」
「見えてしまった」
「だから見るなと言っている」
そう言いながらも、新九郎は怒鳴るだけではなかった。
自分の弱点を口にするのは、簡単なことではない。
勘助は少し意外だった。
この男は、ただ高慢なだけではない。
高慢ではある。
気は強い。
言葉もきつい。
だが、自分が何を直せずにいるかも知っている。
その上で、なお胸を張っている。
勘助には、それが少し眩しかった。
「山本」
「はい」
「お前は、左足を憎みすぎだ」
不意に言われて、勘助は動きを止めた。
新九郎は続ける。
「悪い足だと思っている。役に立たぬ足だと思っている。だから立つ時、無意識に見捨てる。見捨てた足に、体は預けられない」
その言葉は、母の声と重なった。
嫌いでも、捨てないで。
勘助はゆっくりと息を吸った。
「そなたに言われるとは思わなかった」
「俺も言うとは思わなかった」
「では、なぜ」
「先生に見ろと言われたからだ」
「卜伝殿が?」
「直接ではない。だが、そういうことだろう」
新九郎は視線を逸らした。
「俺は、お前が嫌いだ」
「昨日も聞いた」
「今日も言う」
「明日もか」
「必要ならな」
「それは困る」
「俺も困っている。嫌いな奴の稽古を見る羽目になっている」
弥平が横でぼそりと言った。
「でも、新九郎さん、昨日より楽しそうですよ」
「弥平」
「すみません、掃除に戻ります」
弥平は慌てて箒を動かした。
新九郎は深く息を吐いた。
「ともかく、左足を憎むな。かといって、無理に頼るな。役立たずと思うな。万能と思うな。あるものとして扱え」
「あるものとして」
「そうだ」
勘助は左足へ意識を落とした。
痛みがある。
歪みがある。
不安がある。
嫌悪もある。
けれど、それは自分の足だった。
切り捨てられない。
憎んでも、そこにある。
ならば、そこにあるものとして扱うしかない。
勘助は左足に、ほんの少しだけ重みを置いた。
痛い。
だが、先ほどよりも逃げない。
新九郎が短く言った。
「さっきよりましだ」
「まし、か」
「褒め言葉だ」
「そうなのか」
「俺の中ではな」
「では、ありがたく受け取る」
「やはり調子が狂う」
新九郎は木刀を担ぎ直し、稽古場へ向かった。
入れ替わるように、庄左がやって来た。
彼は新九郎の背中を見てから、勘助を見る。
「新九郎にしては、よく喋っていたな」
「そうなのか」
「普段はもう少し短い。『違う』『遅い』『邪魔だ』くらいだ」
「今の拙者は、三つとも当てはまるな」
「自覚があるのはいいことだ。自覚だけで終わると悪いことだ」
庄左は淡々と言う。
勘助はうなずいた。
「庄左殿は、なぜ卜伝殿のもとへ?」
「急に人のことを聞くな」
「昨日から、門弟たちがなぜここにいるのか気になっていた」
「気になったことを全部口に出す癖は直した方がいい」
「新九郎殿にも似たことを言われた」
「なら、すぐ直せ」
庄左はそう言ったあと、少しだけ考えた。
それから門柱にもたれかかるようにして言った。
「家に、兄がいる」
「兄上が」
「跡取りだ。剣もできる。人付き合いも上手い。俺は二男で、家にいても余る」
「それで鹿島へ?」
「半分はそうだ。もう半分は、余った者にも立つ場所が必要だったからだ」
余った者。
その言葉は軽く言われたが、勘助には重く聞こえた。
自分もまた、どこへ行っても余る者だった。
家の中で。
門前で。
戦場になる前の道で。
人々の視線の外で。
「庄左殿は、ここで立つ場所を見つけたのか」
庄左はすぐには答えなかった。
稽古場の方から、木刀の音が聞こえる。
しばらくして、庄左は言った。
「探している途中だ」
「そうか」
「お前も同じだろう」
「拙者は……」
勘助は門前の地面を見た。
「立つ場所の前に、立ち方から探している」
「なら、少し先が長いな」
「長いか」
「長い」
庄左はあっさり言った。
「だが、短いよりいい」
「なぜ」
「短い道は、たいてい落とし穴に向かっている」
勘助は少し笑った。
「兵法のようだ」
「受け売りだ。先生のな」
庄左は軽く肩をすくめ、稽古場へ向かった。
その背を見送っていると、弥平が戻ってきた。
「お前、立ってるだけなのに、やたら人と話すな」
「話しかけられる」
「お前も聞くからだ」
「人が何を考えてここにいるのか、気になる」
「また見すぎるって先生に言われるぞ」
「かもしれぬ」
弥平は箒を肩に担ぎ、門の内側を覗いた。
「そろそろ先生が来る」
その言葉通り、しばらくして卜伝が姿を見せた。
昨日と同じく、派手さはない。
歩いてくるだけで、周囲の音が少し遠くなる。
卜伝は勘助の前で止まり、足元を見た。
「昨日よりはましだ」
新九郎と似た言葉だった。
勘助は頭を下げる。
「新九郎殿にご指導いただきました」
「そうか」
卜伝は新九郎のいる稽古場の方へちらりと視線をやった。
「口は悪かったろう」
「はい」
「だが、見立ては悪くない」
「はい」
「なら、言葉の棘にばかり気を取られるな。棘の中身を見ろ」
「心得ます」
「心得るだけでは足りぬ」
「では、どうすれば」
「今日、庭で立て」
勘助は顔を上げた。
「庭で」
「門前は平らすぎる」
弥平が思わず呟いた。
「え、あそこ平らなんですか」
卜伝は弥平を見た。
「お前が掃いているのだろう」
「あ、はい。平らです」
弥平は慌ててうなずいた。
卜伝は勘助に向き直る。
「昨日見た庭を覚えているか」
「はい」
「石、松、池の縁、ぬかるみ。その中で立て」
「どこに立てば」
「自分で選べ」
卜伝はそれだけ言うと、庭へ向かった。
勘助は後に続いた。
弥平、新九郎、庄左も自然とついてくる。
庭には朝の光が差していた。
昨日よりも地面は少し乾いている。
だが、石の周りにはまだ湿りが残り、池の縁には苔の匂いがあった。
弥平が昨夜のうちに迷いながら苔を落としたのだろう。
平たい石の表面は半分ほどきれいになっている。
残り半分には苔が残っていた。
勘助はそれを見て、思わず言った。
「半分だな」
弥平がむっとする。
「半分だけ落とせって言われたんだよ」
「いや、よい半分だと思う」
「本当か」
「滑る場所と、滑りにくい場所が並んでいる。足が迷う」
「それ、褒めてるのか」
「たぶん」
「たぶんで褒めるな」
卜伝は二人のやり取りを聞いているのかいないのか、庭の中央へ進んだ。
「山本」
「はい」
「今日は、日が傾くまで太刀を持たぬ」
「はい」
「立て」
勘助は庭を見渡した。
どこに立つか。
昨日、自分は中央から少し外れた場所を選んだ。
逃げ道にも、安心にも寄りかからない場所。
だが、今日も同じでよいのか。
朝の庭は昨日と違う。
地面の湿りも違う。
自分の体も違う。
傷は少し塞がったが、疲れは残っている。
左足は痛む。
勘助は、平たい石から少し離れた場所を選んだ。
石が視界の端に入る位置。
池の縁も遠くない。
松の影にも逃げ込めない。
そこに立つ。
卜伝は何も言わない。
新九郎が遠くから見る。
庄左は腕を組んでいる。
弥平は苔の石が気になるらしく、時々そちらを見ていた。
最初の半刻は、何とか保った。
足は痛いが、呼吸を整えられる。
肩もまだ我慢できる。
だが、一刻を過ぎる頃から、体のあちこちが勝手に動き始めた。
膝が内へ入る。
腰が落ちる。
背中が丸くなる。
視線が地面へ落ちる。
それに気づいて直そうとすると、今度は力が入りすぎる。
汗が額から流れた。
木刀の音が遠くから聞こえる。
門弟たちは稽古を始めている。
打ち合い。
踏み込み。
掛け声。
それに比べて、自分は何をしているのか。
ただ立っている。
剣を学びに来た男が、庭で突っ立っている。
屈辱だった。
胸の奥に、じわじわと熱が生まれる。
自分も木刀を持ちたい。
せめて一度くらい振りたい。
斬り合い、打ち合い、負けるなら負けるで、剣で負けたい。
立っているだけで汗を流し、門弟たちに眺められるなど、あまりにも惨めだった。
その時、通りかかった若い門弟が笑った。
「おい、まだ立ってるぞ」
「剣を習いに来て、庭の飾りになったのか」
「卜伝先生も酷なことをなさる。あれなら門前に置いておいた方が通行人避けになる」
笑い声。
勘助は拳を握りそうになった。
だが、握れば肩が上がる。
肩が上がれば、呼吸が乱れる。
呼吸が乱れれば、足が逃げる。
それが分かってしまった。
だから、握らない。
怒りが腹の中で暴れる。
だが、逃がさない。
腐らせもしない。
ただ、そこにあるものとして見る。
怒っている。
笑われて悔しい。
木刀を持ちたい。
今すぐ何か言い返したい。
全部ある。
あるものとして、立つ。
昼近くになると、弥平が水を持ってきた。
「先生が、水は飲ませろって」
「ありがたい」
勘助は立ったまま瓢を受け取ろうとしたが、手がうまく動かなかった。
弥平が慌てて支える。
「おい、大丈夫か」
「大丈夫だ」
「全然大丈夫に見えないぞ」
「見えるものが、常に正しいとは限らぬ」
「そういう言い返しをする余裕があるなら、まだ生きてるな」
弥平は瓢を勘助の口元へ持っていった。
水を飲む。
うまい。
体が少し戻る。
「座ったらどうだ」
弥平が小声で言った。
「先生が見ていない時くらい」
勘助は首を横に振った。
「見ていない時に座れば、拙者自身が見ている」
弥平は困ったように眉を下げた。
「お前、そういうところは頑固だな」
「そうでなければ、ここまで来ていない」
「それもそうか」
弥平は空になった瓢を持って下がった。
午後になると、足の感覚が少しおかしくなった。
痛いのか、痺れているのか、熱いのか、冷たいのか分からない。
それでも、左足を見捨てない。
ただし、無理に頼りすぎてもいけない。
新九郎が言った。
役立たずと思うな。
万能と思うな。
あるものとして扱え。
あるものとして。
勘助は心の中で繰り返した。
すると、不思議なことに、左足の痛みが敵ではなくなってきた。
味方でもない。
だが、知らせてくれるものになった。
そこへ乗りすぎている。
そこから逃げすぎている。
膝が捻れている。
腰が歪んでいる。
痛みは、ただ勘助を責めているのではない。
今、どう立っているかを教えている。
そう思った瞬間、視界が少し変わった。
庭が、ただの庭ではなくなる。
石は滑る場所。
松は逃げ込む影。
池は踏み外す縁。
だが、それだけではない。
石の手前には、足を止める乾いた土がある。
松の影には、風を避けられる場所もある。
池の縁には、水を汲むための踏み跡がある。
人が死ぬ場所と、人が生きる場所は、同じ庭の中に並んでいる。
そのことが、昨日より少しだけ見えた気がした。
夕刻が近づいた頃、卜伝が庭へ戻ってきた。
勘助はまだ立っていた。
体はひどく疲れていた。
もう格好のよい立ち姿ではない。
いや、最初から格好よくはない。
だが、崩れきってはいなかった。
卜伝は勘助の前で止まった。
「何が見えた」
勘助はすぐには答えられなかった。
喉が乾いている。
声を出すのも億劫だった。
しかし、卜伝は待っている。
勘助は息を整え、言った。
「足は、拙者を裏切っていたのではありませぬでした」
弥平が首を傾げる。
新九郎が黙って聞く。
庄左の目が細くなる。
勘助は続けた。
「拙者が、足を先に見捨てておりました」
卜伝は何も言わない。
「痛みは、邪魔だと思っておりました。弱さだと。恥だと。ですが、今日立っているうちに、痛みは今の拙者の立ち方を知らせているのだと思いました」
「ほう」
「逃げれば痛み方が変わります。乗りすぎても変わります。無理をしても、怖がっても、足はそれを知らせます」
勘助は左足を見下ろした。
「拙者は、この足を嫌っておりました。嫌って、役立たずだと決めておりました。だから、足も拙者を支えようがなかったのだと思います」
卜伝は静かに言った。
「それで」
「まだ好きにはなれませぬ」
勘助は正直に言った。
「痛いものは痛い。悔しいものは悔しい。人に笑われれば、やはり腹が立ちます」
「それでよい」
卜伝は短く言った。
「好きになろうと急ぐな。急いで好きになったものは、また急いで嫌いになる」
その言葉に、勘助は少しだけ目を見開いた。
卜伝は続ける。
「嫌いでもよい。だが、捨てるな」
母と同じ言葉だった。
勘助は返事が遅れた。
胸の奥で、何かが静かに震えていた。
「……はい」
「今日はそこまでだ」
卜伝は言った。
「座ってよい」
その言葉を聞いた瞬間、体の力が抜けそうになった。
勘助は崩れ落ちる前に、どうにか片膝をついた。
新九郎が思わず一歩出る。
「おい」
「大丈夫だ」
「大丈夫という顔ではない」
「では、大丈夫ではない」
「正直すぎる」
弥平が慌てて水を持ってきた。
「ほら、飲め。今度は自分で持てるか?」
「持てる」
勘助は瓢を受け取り、ゆっくり飲んだ。
庄左が近くに来て、静かに言った。
「今日は、昨日より少し立っていたな」
「少しだけか」
「大きく変わったと思うと、明日崩れる。少しでいい」
「なるほど」
新九郎が腕を組みながら言った。
「まだ見ていられない立ち方だ」
「そうか」
「だが、朝よりはましだ」
「それは褒め言葉か」
「俺の中ではな」
勘助は小さく笑った。
新九郎は不満そうに顔を背けたが、怒鳴らなかった。
卜伝はその様子を見ていた。
そして、最後に静かに言った。
「山本」
「はい」
「明日も立て」
「はい」
「明後日もだ」
「はい」
「太刀を持ちたいか」
勘助は答えに詰まった。
持ちたい。
今でも持ちたい。
だが、今日の後では、すぐに持たせてほしいとは言えなかった。
「持ちたいです」
勘助は言った。
「ですが、今持てば、拙者は太刀に逃げると思います」
卜伝の目がわずかに動いた。
「太刀に逃げる、か」
「はい。立てぬ己を、太刀を持った気分で誤魔化すと思います」
卜伝は、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
「ならば、まだ持たせぬ」
「はい」
「太刀は逃げ道ではない。太刀を持てば強くなるのではない。弱い者が太刀を持てば、弱さが伸びるだけだ」
勘助は深く頭を下げた。
夕暮れの庭に、長い影が伸びている。
勘助の影は歪んでいた。
片足をかばい、肩も少し落ち、決して美しい影ではない。
だが、その影を見て、勘助は初めて思った。
これが、自分の影なのだ。
嫌っても、捨てても、消えない。
ならば、この影ごと進むしかない。
その夜。
勘助は門前ではなく、門の脇の小さな物置の軒下で眠ることを許された。
弥平いわく、「先生が、雨が降ったら面倒だと言ったから」らしい。
新九郎いわく、「倒れられると稽古にならないから」らしい。
庄左いわく、「少しだけ前進だな」だった。
勘助は蓑をかぶり、軒下で横になった。
体は痛い。
足は熱を持っている。
肩も腕も、まだ完全ではない。
それでも、不思議と心は昨日より静かだった。
太刀は持っていない。
型も習っていない。
鹿島新當流の名を口にするには、まだ遠すぎる。
だが、今日一日、勘助は逃げずに立った。
ただそれだけのことが、これほど難しいとは思わなかった。
目を閉じると、母の声が聞こえた気がした。
嫌いでも、捨てないで。
勘助は小さく答えた。
「母上。まだ好きにはなれませぬ」
夜の竹林が静かに鳴る。
「ですが、捨てぬようにはいたします」
鹿島の夜は、冷えていた。
けれど勘助は、初めてこの冷たさを怖いとは思わなかった。
冷たさも、痛みも、疲れも、すべてが今の自分を知らせている。
そう思えたからだった。




