第八話 卜伝の試し
山本勘助が門前で立つことを許されてから、まだ半日も経っていなかった。
それでも、門弟たちの目は少しだけ変わった。
もちろん、尊敬ではない。
畏れでもない。
ただ、門前に座り込んだ薄汚い浪人から、卜伝に声をかけられた薄汚い浪人へと変わっただけである。
それは大きいようで小さい。
小さいようで、やはり大きかった。
「おい、山本」
新九郎が木刀を肩に担いだまま、門前に立つ勘助を見た。
「はい」
「はい、ではない。膝が逃げている」
「膝が?」
「そうだ。左足を嫌うなと言っただろう」
「嫌っているつもりはない」
「つもりがなくても、体は正直だ。見ろ、肩も右へ傾いている。そんな立ち方で刀を振れば、最初の一太刀で崩れる」
勘助は自分の肩を見ようとした。
すると新九郎が苛立った声を出す。
「自分の肩を目で見るな。見ようとするとまた崩れる」
「では、どう確かめる」
「感じろ」
「難しいことを言う」
「簡単なら俺がわざわざ教えん」
新九郎は相変わらず口が悪い。
だが、教えている。
勘助はそれが不思議でならなかった。
門前であれだけ罵り、化け物と呼び、鹿島にふさわしくないとまで言った男が、今は勘助の足元を見ている。
しかも、かなり細かい。
腹立ちまぎれに言っているようでいて、指摘は正確だった。
右へ逃げる。
肩が浮く。
顎が上がる。
痛みを避ける前に、痛みが来ると決めつけている。
言われるたびに、勘助の内側で何かが暴かれていく。
「そなたは、よく見ているのだな」
勘助が言うと、新九郎は木刀で地面を小さく叩いた。
「俺は見ているのではない。見えるだけだ」
「同じではないのか」
「違う」
「どう違う」
「……いちいち聞くな。腹が立つ」
新九郎は顔を背けた。
庄左が近くで水桶を運びながら、ぼそりと言った。
「新九郎は、人に教えるのが下手なんだ」
「庄左!」
「本当だろう。自分の中では分かっているが、言葉にすると怒鳴るか罵るかになる」
「余計なことを言うな」
「山本には言葉が必要だ。怒鳴るだけでは、たぶん半分も伝わらない」
新九郎は舌打ちしたが、言い返さなかった。
庄左は桶を置き、勘助の足元を見た。
「新九郎の言いたいことは、おそらくこうだ。痛む足をかばうのは当然だ。だが、かばうことと逃げることは違う。足を守るなら、足のある場所を知っておかねばならない。お前は痛みを避けようとして、左足を自分の体から切り離している」
勘助は左足へ意識を向けた。
切り離している。
言われて、少し分かった。
痛むものは、自分のものではないように扱いたくなる。
見たくない傷。
聞きたくない悪口。
触れたくない過去。
そういうものと同じように、勘助は自分の左足を心の外へ追いやっていたのかもしれない。
「捨てていたのか」
勘助は小さく呟いた。
庄左が首を傾げる。
「何を」
「足を」
「足は捨てられないだろう」
「いや、心の中で」
新九郎が顔をしかめた。
「お前は時々、坊主みたいなことを言うな」
「旅の僧に会ったせいかもしれぬ」
「本当に面倒な人生を送ってきたんだな」
「そなたに同情されると、なぜか少し悔しい」
「俺も同情したくない」
庄左が小さく笑った。
その時、門の奥から弥平が顔を出した。
「おい、山本」
「何か」
「先生が呼んでる」
空気が、すっと変わった。
新九郎が木刀を下ろす。
庄左も姿勢を正した。
勘助は思わず門の奥を見た。
「卜伝殿が?」
「他に先生って呼ばれる人がいるか」
「いや」
「なら早く来い。ただし、勘違いするな。門の内に入るのを許されたわけじゃない」
「では、どこへ」
「庭だ。先生が、庭へ回せと言っている」
弥平は少し興奮したような顔をしていた。
本人は隠しているつもりかもしれないが、口元が落ち着いていない。
新九郎も庄左も、それを聞いて目を細めた。
「庭か」
庄左が呟く。
新九郎が勘助を見る。
「妙なことを言うなよ」
「何を言えば妙でないかが、まだ分からぬ」
「なら黙っていろ」
「卜伝殿に問われたら?」
「その時は答えろ」
「どちらだ」
「面倒だな、お前は!」
いつもの調子で新九郎が怒鳴る。
けれど、その声に先ほどまでの刺々しさは少し薄かった。
勘助は門の脇を通って、屋敷の外側を回った。
弥平が先導する。
門の内へ入るのではなく、竹垣に沿って庭の裏手へ向かう道だった。
勘助は歩きながら周囲を見た。
竹垣の隙間。
地面の湿り。
踏み固められた土。
人の行き来が多い場所と、そうでない場所。
この屋敷は派手ではない。
むしろ質素だった。
だが、無駄が少ない。
水場の位置も、薪置き場の位置も、道場らしき建物の向きも、妙に収まりがよかった。
守るためというより、暮らしと稽古が自然に結びついている。
城ではない。
しかし、隙がない。
勘助は足を止めそうになった。
弥平が振り返る。
「どうした」
「いや」
「逃げるなら今のうちだぞ」
「逃げるつもりはない」
「皆そう言う」
「それも、もう聞き慣れた」
弥平は鼻を鳴らし、また歩き出した。
庭は、屋敷の奥にあった。
広すぎず、狭すぎない。
片側に松があり、もう片側に低い石がいくつか置かれている。雨上がりのせいで地面はところどころ湿っていた。奥には小さな池があり、そのそばに苔むした石灯籠が立っている。
一見すると、静かな庭だった。
だが、勘助は足を踏み入れる前に止まった。
美しい庭。
そう見える。
だが、ただ美しいだけではない。
松の影。
石の配置。
池の縁。
ぬかるみ。
逃げ道。
視線の切れる場所。
人が立てる場所。
人が転ぶ場所。
そして、人が斬られる場所。
自然と、そういうものが見えてしまった。
庭の中央に、塚原卜伝が立っていた。
昨日の旅装束ではなく、簡素な稽古着姿である。
刀は差していない。
木刀も持っていない。
ただ立っている。
それだけなのに、庭の中で卜伝だけが別のもののように見えた。
山の中に立つ木。
川の中にある石。
そこにあるのが当然で、動かそうとする方が間違いであるかのような存在感だった。
周囲には門弟たちが数人いた。
新九郎も庄左もいる。
弥平は勘助を連れてくる役目を終えたあとも、その場に残っていた。
門弟たちは、好奇心と侮りの混じった目で勘助を見ている。
卜伝は勘助に視線を向けた。
「来たか」
「はい」
「庭へ入れ」
勘助は一礼し、庭へ足を踏み入れた。
一歩目で、草鞋の裏がわずかに沈む。
昨夜の雨が残っている。
思ったよりも地面が柔らかい。
勘助は無意識に右へ体重を逃がしかけた。
その瞬間、卜伝の声が飛ぶ。
「また逃げた」
勘助は足を止めた。
新九郎が小さく鼻を鳴らす。
庄左は黙っている。
勘助はゆっくりと呼吸を整えた。
「失礼」
「謝る暇があるなら、気づけ」
「はい」
勘助は左足をもう一度地面に置いた。
痛みがある。
だが、逃げるほどではない。
いや、逃げたくなるほどの痛みではある。
けれど、逃げない。
卜伝はそれ以上何も言わなかった。
勘助が庭の中央へ近づくと、卜伝は静かに言った。
「山本勘助」
「はっ」
「太刀は持たぬ」
「承知しております」
「今日は、斬ることも受けることもせぬ」
門弟たちの間に小さなざわめきが起きた。
新九郎が眉をひそめる。
弥平が、やっぱりという顔をした。
卜伝は庭を見渡した。
「この庭で、人が斬られるなら、どこだ」
勘助は一瞬、問いの意味を測りかねた。
「どこで、ございますか」
「そうだ」
「誰が誰を斬るのでしょう」
「知らぬ」
「人数は」
「知らぬ」
「昼か夜か」
「知らぬ」
「武器は」
「知らぬ」
勘助は黙った。
門弟の一人が小さく笑った。
「何だ、その問いは」
別の門弟が囁く。
「庭を見て斬られる場所など分かるものか」
新九郎は腕を組んだまま、黙っている。
庄左の目は、勘助の顔ではなく足元を見ていた。
卜伝は言った。
「分からぬなら、分からぬでよい」
その言葉に、勘助は顔を上げた。
卜伝は続ける。
「だが、分からぬと言う前に、見ろ」
勘助は庭を見た。
まず、松。
枝が低く張っている。
影が深い。
昼でも、立つ位置によっては相手の肩口が見えにくくなる。
次に石。
庭石は美しく置かれているが、雨上がりには滑る。特に手前の平たい石は苔が薄く乗っており、踏み込めば足を取られる。
池の縁。
水面が近い。
踏み外せば膝まで濡れる。戦いの最中なら、それだけで終わる。
竹垣。
逃げ道に見えるが、実際には行き止まりに近い。追い込まれると背を預ける場所がない。
門弟たちの立ち位置。
興味本位で見ている者ほど、逃げ道を塞いでいる。
風。
竹の葉が揺れる向き。
雨の匂い。
地面の湿り。
そして、人。
人は怖い時、どこを見るか。
逃げたい時、どこへ足を出すか。
勝ったと思った時、どこを見落とすか。
勘助はゆっくりと庭の中を歩いた。
門弟たちは黙って見ている。
新九郎が苛立ったように言った。
「庭を散歩しに来たのか」
卜伝が一瞥する。
新九郎は口を閉じた。
勘助は平たい石の前で止まった。
「ここでは、拙者は斬り合いませぬ」
卜伝が問う。
「なぜ」
「滑ります」
門弟の一人が笑った。
「当たり前だ。雨上がりの石は滑る」
勘助はその門弟を見ずに続けた。
「ただ滑るだけなら、避ければよい。ですが、この石は避けたくなる場所に置かれております」
笑いが止まる。
庄左が少しだけ目を細めた。
勘助は石の周りを指した。
「正面から押された者は、無意識にこちらへ下がります。地面が少し高く見えるからです。濡れた土より石の上の方が安全に思える。ですが、実際には苔で滑る。逃げる者は、ここで足を取られます」
卜伝は黙って聞いている。
勘助は次に松の方へ向かった。
「斬られるなら、あの松の影も危うい」
「なぜだ」
卜伝の声。
「逃げる者は、影へ入ると安心します。身を隠せると思うからです。けれど、枝が低い。肩が上がる。木刀でも刀でも、振り上げが遅れます」
新九郎が眉を動かした。
勘助は松の下に立ち、枝を見上げた。
「追う側がそれを知っていれば、逃げた者は振り向いた瞬間に斬られます。人は、背を向けて逃げても、最後には一度振り返る。追手がどこにいるか知りたくなるからです。その一瞬、足が止まる」
庭が静まり返った。
勘助は池の方へ歩いた。
「池の縁も危うい。しかし、ここは斬られるというより、斬らせる場所です」
弥平が思わず声を出す。
「斬らせる?」
勘助はうなずいた。
「相手を怒らせ、深く踏み込ませる。すると、踏み込んだ足が水際で逃げる。刀は届いても、体が残らない。そこを横から押せば、斬らずとも倒せます」
「お前、そんなことばかり考えて庭を見てるのか」
弥平が半ば呆れたように言った。
勘助は少し考えた。
「考えたくなくても、見えてしまう」
弥平は返す言葉を失った。
新九郎が低く言う。
「なら、お前はこの庭でどこに立つ」
卜伝ではなく、新九郎からの問いだった。
勘助は新九郎を見た。
しばらく考えてから、庭の中央から少し外れた場所へ移動する。
松からも石からも池からも、少し距離がある。
見た目には何の特徴もない場所だ。
「ここです」
新九郎が眉をひそめた。
「そこは何もない」
「だからです」
「何?」
「逃げたくなる場所ではない。安心したくなる場所でもない。足場も悪すぎず、良すぎもしない。どこへも逃げられるが、どこにも寄りかかれない」
勘助は足元を見た。
「今の拙者には、このくらいがよい」
庄左が小さく息を吐いた。
「自分のことも見たか」
「見たくはなかった」
勘助は正直に答えた。
新九郎が鼻で笑いかけたが、途中でやめた。
卜伝は、そこで初めて少し歩いた。
勘助の立つ場所へ近づき、足元を見る。
「なぜ、そこで斬られぬと言い切らぬ」
卜伝が問う。
勘助はすぐには答えなかった。
そして言った。
「斬られる時は、どこでも斬られます」
門弟たちの表情が変わる。
勘助は続けた。
「この庭のどこが危ういかは見えます。ですが、そこを避ければ必ず生きるとは申せませぬ。相手が拙者より上なら、どこに立っても斬られます。拙者が己の足を信用できぬなら、何もない場所でも転びます」
卜伝の目が、わずかに細くなった。
「なら、先ほどの答えは何だ」
「斬られにくい場所でございます」
「斬られぬ場所ではなく」
「はい」
卜伝はしばらく勘助を見た。
その沈黙に、勘助は背中の汗が冷えるのを感じた。
正しいのか、間違っているのか分からない。
いや、そもそも卜伝の問いに正解があるのかも分からない。
ただ、見えたものを言った。
見えないものは見えないと認めた。
それだけだった。
やがて卜伝は新九郎へ視線を向けた。
「新九郎」
「はっ」
「お前なら、どこで斬る」
新九郎は一瞬だけ勘助を見た。
それから、松の影を指した。
「あそこです」
「なぜ」
「逃げ込む者を追えば、枝で太刀筋が制限されます。山本の言う通りです。ですが、拙者なら追いません。逃げ込む前に、あの影へ向かわせます」
卜伝はうなずく。
「どう向かわせる」
「正面を強く見せ、左を空けます。逃げ道があると思わせる。相手が左へ流れたところで、足を送って間を詰めます」
勘助は新九郎の足を見た。
右足の踏み込みが強い。
その癖を使えば、確かに相手を追い込める。
強すぎる踏み込みは弱点でもあるが、相手に圧をかけるには向いている。
卜伝は次に庄左を見た。
「庄左」
「はい」
「お前なら」
「池の縁は使いません。危うすぎます。相手も自分も崩れる。拙者なら、石の手前で止めます」
「なぜ」
「滑らせるのではなく、滑ると思わせます。足元へ意識が落ちた時、上が空きます」
卜伝はうなずいた。
そして、弥平を見た。
「弥平」
「え、俺ですか」
「お前なら、どこで斬られる」
弥平は顔を引きつらせた。
「斬る方じゃなくて、斬られる方ですか」
「そうだ」
「ええと……たぶん、あの石です。掃除の時も滑ります」
門弟の数人が笑った。
だが卜伝は笑わない。
「なぜ滑る」
「苔があるからです」
「苔を落とさぬのはなぜだ」
「え?」
「掃除を任されているのだろう」
弥平の顔が青くなった。
「も、申し訳ありません!」
卜伝は静かに言った。
「苔一つで人は死ぬ。掃除も兵法だ」
弥平は深く頭を下げた。
「はい!」
勘助はそのやり取りを見て、胸の内で何かが動いた。
掃除も兵法。
その言葉は、妙に深く響いた。
今まで兵法と言えば、城を攻めること、敵を欺くこと、兵を動かすことだと思っていた。
だが、苔を落とすことも兵法。
人が滑らぬようにすることも兵法。
そう考えれば、戦は刀を抜く前から始まっている。
いや、人が死なぬようにすることもまた、兵法なのかもしれない。
卜伝は再び勘助へ向き直った。
「山本勘助」
「はっ」
「お前は、庭を戦場として見た」
「はい」
「悪くはない」
その言葉に、門弟たちがざわついた。
勘助自身も、思わず顔を上げそうになった。
悪くはない。
塚原卜伝がそう言った。
褒め言葉と呼ぶには短い。
だが、勘助にとっては、今まで受けたどんな称賛より重かった。
しかし卜伝はすぐに続けた。
「だが、浅い」
胸に落ちかけた熱が、すぐに冷やされた。
勘助は頭を下げる。
「はい」
「なぜ浅いか分かるか」
勘助は考えた。
庭を見た。
石も、松も、池も見た。
人の逃げ方も考えた。
では、何が足りないのか。
しばらくして、答えた。
「人を、敵として見すぎたからでしょうか」
卜伝は目を細めた。
「続けろ」
「拙者は、どこで人が斬られるかを考えました。どこで足を取られ、どこで逃げ、どこで振り返るかを見ました。ですが、それは人が斬られるための見方です」
勘助は自分の言葉を探しながら続けた。
「この庭には、稽古する者もおります。掃除する者もおります。水を運ぶ者も、飯を食う者も、怪我をした者も通る。そこまで見ておりませぬでした」
弥平が少し驚いた顔をした。
勘助は卜伝を見た。
「拙者はまだ、人が死ぬ場所ばかり見ております」
卜伝はしばらく黙っていた。
風が庭を抜ける。
竹が鳴る。
卜伝は低く言った。
「分かっているなら、まだよい」
勘助は深く頭を下げた。
「はい」
「兵法は、人を死なせるためだけのものではない」
卜伝の声は静かだった。
だが、庭の隅々まで届くようだった。
「人が死ぬ場所を知るなら、人をそこへ行かせぬ道も見よ。敵を斬る場所を知るなら、味方を逃がす場所も見よ。足を取る石を知るなら、子供や老人が転ばぬよう石をどける手も持て」
勘助は、胸の奥を強く押されたように感じた。
人が死ぬ場所を見る。
それは勘助が幼い頃からしてきたことだった。
城を見ても、道を見ても、川を見ても、どこで崩れるか、どこで敵が入るか、どこで人が死ぬかばかり見てきた。
そうしなければ生き残れなかったからだ。
笑われ、追い出され、狙われ、逃げてきた。
危うい場所を見つけることは、勘助にとって命綱だった。
だが、それだけではない。
卜伝は、それだけでは足りないと言っている。
死ぬ場所が見えるなら、生かす道も見よ。
その言葉は、勘助の中で静かに沈んだ。
新九郎が腕を組んだまま、ぽつりと言った。
「先生」
「何だ」
「では、山本は使い物になりますか」
あまりに直接的な問いだった。
弥平がぎょっとする。
庄左もわずかに眉を上げた。
勘助は新九郎を見た。
新九郎は逃げなかった。
まっすぐ卜伝を見ている。
卜伝は答えた。
「今はならぬ」
新九郎の表情は変わらない。
勘助も、思ったほど傷つかなかった。
今はならぬ。
それは当然だった。
「では、なぜ門前に置くのです」
新九郎がさらに問う。
卜伝は静かに言った。
「今は、ならぬからだ」
その場にいた者たちが、意味を測りかねて黙った。
卜伝は続ける。
「今すでに使い物になる者は、自分が使い物になると思っている。そういう者は、己を疑うまでに時間がかかる」
新九郎の顔がわずかに強張った。
「山本は、己が使い物にならぬことを知っている。ならば、そこから始められる」
勘助は何も言えなかった。
今は使い物にならない。
だが、そこから始められる。
それが救いなのか、地獄なのかはまだ分からない。
しかし、道が完全に閉ざされたわけではなかった。
卜伝は庭の中央へ戻った。
「山本」
「はい」
「明日からも門前で立て」
「はい」
「太刀はまだ持たぬ」
「はい」
「この庭を見ることも、今日で終わりではない。毎日見ろ」
「毎日でございますか」
「同じ庭でも、朝と夕では違う。晴れと雨では違う。空腹の時と満腹の時では違う。怒っている時と眠い時では違う」
卜伝は勘助の片目を見た。
「お前の目も、日によって違う」
勘助は思わず、自分の片目に触れかけた。
だが、途中で手を止めた。
「はい」
「見えたと思うな。見えぬものを探せ」
「はい」
卜伝は門弟たちへ向き直った。
「新九郎」
「はっ」
「山本の立ち方を見るのは、お前が続けろ」
新九郎は一瞬、心底嫌そうな顔をした。
「拙者が、ですか」
「嫌か」
「……嫌ではございません」
庄左が横を向いた。
肩が震えている。
笑いをこらえているらしい。
新九郎はそれを横目で睨んだ。
卜伝は庄左にも声をかける。
「庄左」
「はい」
「山本が余計なものを見すぎておれば、止めろ」
「承知しました」
「弥平」
「はい!」
「石の苔を落とせ」
「はい!」
「ただし、全部落とすな」
「え?」
「滑る石があることも、稽古になる」
「ええと……どこまで落とせば」
「考えろ」
「はい……」
弥平は困った顔で石を見た。
門弟たちの間に、少しだけ笑いが漏れた。
その笑いは、勘助を嘲るものではなかった。
少なくとも、少しだけ違っていた。
稽古が解かれると、門弟たちはそれぞれ動き始めた。
新九郎は勘助の前へ来て、腕を組んだ。
「聞いたか」
「聞いた」
「俺が、お前の立ち方を見ることになった」
「世話になる」
「まず、その素直な礼をやめろ。調子が狂う」
「では、何と言えば」
「何も言うな」
「分かった」
「本当に黙るな。腹が立つ」
勘助は困った。
庄左が横から言う。
「新九郎が一番面倒になっているぞ」
「うるさい」
新九郎は勘助の足元を指した。
「明日から、門前でただ立つな。立つ時は、この庭を思い出せ。逃げたくなる石、安心したくなる影、踏み外す水際。お前の足の中にも同じものがある」
勘助は新九郎を見た。
その言葉は、意外なほどよかった。
「そなたは、教えるのが下手ではないのだな」
新九郎は嫌そうに顔を歪めた。
「褒めるな」
「褒められるのが嫌いか」
「お前に褒められるのが嫌だ」
「なるほど」
庄左がまた小さく笑った。
弥平は苔を見つめながら、ぶつぶつ言っている。
「全部落とすなって、どれを残せばいいんだよ。先生はいつもそうだ。考えろって言うけど、考えたら考えたで違うって言うし……」
勘助はその声を聞きながら、庭をもう一度見た。
松の影。
滑る石。
池の縁。
人が斬られる場所。
人が逃げる場所。
人が立ち止まる場所。
そして、人が死なずに済む道。
今まで見えていた庭とは、少しだけ違って見えた。
卜伝は屋敷の奥へ去っていた。
だが、言葉だけが残っている。
兵法は、人を死なせるためだけのものではない。
勘助は、その言葉を胸の奥に置いた。
まだ理解できたわけではない。
ただ、忘れてはならない言葉だと思った。
夕方、勘助は再び門前に戻った。
門の内へ入ることは、まだ許されていない。
弟子になったわけでもない。
太刀を持つことも許されていない。
それでも、昨日までの門前とは違っていた。
勘助は立った。
左足を嫌わず、右へ逃げすぎず。
痛みを見て、痛みに飲まれず。
庭の石を思い出す。
松の影を思い出す。
池の縁を思い出す。
そして、自分の中にある逃げ道を見た。
日が暮れる頃、弥平が門の中から声をかけた。
「山本」
「何か」
「苔、半分だけ落とした」
「そうか」
「半分でいいと思うか」
「分からぬ」
「そこは何か言えよ」
「分からぬものを、分かったとは言えぬ」
弥平はため息をついた。
「先生みたいなこと言うな」
「それは恐れ多い」
「本当だよ」
弥平は少し黙ってから、ぽつりと言った。
「でも、今日の庭の答え、少し面白かった」
勘助は弥平を見た。
「面白い?」
「怖いとも思ったけどな。あの庭を見て、俺は掃除の面倒な場所しか見てなかった。新九郎さんは斬る場所を見てた。庄左さんは足を止める場所を見てた。お前は、人が死ぬ場所を見てた」
「嫌な見方だ」
「うん。嫌な見方だ」
弥平は正直に言った。
だが、その後で続けた。
「でも先生は、人を死なせない道も見ろって言った。だったら、お前の嫌な見方も、役に立つのかもしれない」
勘助は少し黙った。
そして頭を下げた。
「ありがとう」
「だから、すぐ礼を言うなって」
「それは新九郎殿に言われた」
「俺も言う」
「では、気をつける」
弥平は呆れたように笑い、門の中へ戻っていった。
夜が来る。
鹿島の竹林が、静かに鳴る。
勘助は門前に立ち続けた。
まだ何者でもない。
まだ弱い。
まだ鹿島の門の外にいる。
だが、今日初めて、彼の目は卜伝に見られた。
そして、浅いと言われた。
悪くはない、とも言われた。
人を死なせぬ道を見よ、とも言われた。
勘助は空を見上げた。
雲の切れ間に、細い月があった。
「母上」
小さく呟く。
「拙者は、まだ人の痛みばかり見ております」
それから、足元へ視線を落とした。
「ですが、いつか……痛まぬ道も見つけられるでしょうか」
答えはない。
ただ、鹿島の風が吹いた。
その風の中で、山本勘助は立っていた。
逃げず、潰れず、ただ、そこに足を置くために。




