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『醜いから仕官不要と追放された俺、武田信玄だけが「その目は天下を見ている」と言った 〜隻眼の軍師・山本勘助、見下した名門武家を戦場でざまぁする〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第八話 卜伝の試し



 山本勘助が門前で立つことを許されてから、まだ半日も経っていなかった。


 それでも、門弟たちの目は少しだけ変わった。


 もちろん、尊敬ではない。


 畏れでもない。


 ただ、門前に座り込んだ薄汚い浪人から、卜伝に声をかけられた薄汚い浪人へと変わっただけである。


 それは大きいようで小さい。


 小さいようで、やはり大きかった。


「おい、山本」


 新九郎が木刀を肩に担いだまま、門前に立つ勘助を見た。


「はい」


「はい、ではない。膝が逃げている」


「膝が?」


「そうだ。左足を嫌うなと言っただろう」


「嫌っているつもりはない」


「つもりがなくても、体は正直だ。見ろ、肩も右へ傾いている。そんな立ち方で刀を振れば、最初の一太刀で崩れる」


 勘助は自分の肩を見ようとした。


 すると新九郎が苛立った声を出す。


「自分の肩を目で見るな。見ようとするとまた崩れる」


「では、どう確かめる」


「感じろ」


「難しいことを言う」


「簡単なら俺がわざわざ教えん」


 新九郎は相変わらず口が悪い。


 だが、教えている。


 勘助はそれが不思議でならなかった。


 門前であれだけ罵り、化け物と呼び、鹿島にふさわしくないとまで言った男が、今は勘助の足元を見ている。


 しかも、かなり細かい。


 腹立ちまぎれに言っているようでいて、指摘は正確だった。


 右へ逃げる。


 肩が浮く。


 顎が上がる。


 痛みを避ける前に、痛みが来ると決めつけている。


 言われるたびに、勘助の内側で何かが暴かれていく。


「そなたは、よく見ているのだな」


 勘助が言うと、新九郎は木刀で地面を小さく叩いた。


「俺は見ているのではない。見えるだけだ」


「同じではないのか」


「違う」


「どう違う」


「……いちいち聞くな。腹が立つ」


 新九郎は顔を背けた。


 庄左が近くで水桶を運びながら、ぼそりと言った。


「新九郎は、人に教えるのが下手なんだ」


「庄左!」


「本当だろう。自分の中では分かっているが、言葉にすると怒鳴るか罵るかになる」


「余計なことを言うな」


「山本には言葉が必要だ。怒鳴るだけでは、たぶん半分も伝わらない」


 新九郎は舌打ちしたが、言い返さなかった。


 庄左は桶を置き、勘助の足元を見た。


「新九郎の言いたいことは、おそらくこうだ。痛む足をかばうのは当然だ。だが、かばうことと逃げることは違う。足を守るなら、足のある場所を知っておかねばならない。お前は痛みを避けようとして、左足を自分の体から切り離している」


 勘助は左足へ意識を向けた。


 切り離している。


 言われて、少し分かった。


 痛むものは、自分のものではないように扱いたくなる。


 見たくない傷。


 聞きたくない悪口。


 触れたくない過去。


 そういうものと同じように、勘助は自分の左足を心の外へ追いやっていたのかもしれない。


「捨てていたのか」


 勘助は小さく呟いた。


 庄左が首を傾げる。


「何を」


「足を」


「足は捨てられないだろう」


「いや、心の中で」


 新九郎が顔をしかめた。


「お前は時々、坊主みたいなことを言うな」


「旅の僧に会ったせいかもしれぬ」


「本当に面倒な人生を送ってきたんだな」


「そなたに同情されると、なぜか少し悔しい」


「俺も同情したくない」


 庄左が小さく笑った。


 その時、門の奥から弥平が顔を出した。


「おい、山本」


「何か」


「先生が呼んでる」


 空気が、すっと変わった。


 新九郎が木刀を下ろす。


 庄左も姿勢を正した。


 勘助は思わず門の奥を見た。


「卜伝殿が?」


「他に先生って呼ばれる人がいるか」


「いや」


「なら早く来い。ただし、勘違いするな。門の内に入るのを許されたわけじゃない」


「では、どこへ」


「庭だ。先生が、庭へ回せと言っている」


 弥平は少し興奮したような顔をしていた。


 本人は隠しているつもりかもしれないが、口元が落ち着いていない。


 新九郎も庄左も、それを聞いて目を細めた。


「庭か」


 庄左が呟く。


 新九郎が勘助を見る。


「妙なことを言うなよ」


「何を言えば妙でないかが、まだ分からぬ」


「なら黙っていろ」


「卜伝殿に問われたら?」


「その時は答えろ」


「どちらだ」


「面倒だな、お前は!」


 いつもの調子で新九郎が怒鳴る。


 けれど、その声に先ほどまでの刺々しさは少し薄かった。


 勘助は門の脇を通って、屋敷の外側を回った。


 弥平が先導する。


 門の内へ入るのではなく、竹垣に沿って庭の裏手へ向かう道だった。


 勘助は歩きながら周囲を見た。


 竹垣の隙間。


 地面の湿り。


 踏み固められた土。


 人の行き来が多い場所と、そうでない場所。


 この屋敷は派手ではない。


 むしろ質素だった。


 だが、無駄が少ない。


 水場の位置も、薪置き場の位置も、道場らしき建物の向きも、妙に収まりがよかった。


 守るためというより、暮らしと稽古が自然に結びついている。


 城ではない。


 しかし、隙がない。


 勘助は足を止めそうになった。


 弥平が振り返る。


「どうした」


「いや」


「逃げるなら今のうちだぞ」


「逃げるつもりはない」


「皆そう言う」


「それも、もう聞き慣れた」


 弥平は鼻を鳴らし、また歩き出した。


 庭は、屋敷の奥にあった。


 広すぎず、狭すぎない。


 片側に松があり、もう片側に低い石がいくつか置かれている。雨上がりのせいで地面はところどころ湿っていた。奥には小さな池があり、そのそばに苔むした石灯籠が立っている。


 一見すると、静かな庭だった。


 だが、勘助は足を踏み入れる前に止まった。


 美しい庭。


 そう見える。


 だが、ただ美しいだけではない。


 松の影。


 石の配置。


 池の縁。


 ぬかるみ。


 逃げ道。


 視線の切れる場所。


 人が立てる場所。


 人が転ぶ場所。


 そして、人が斬られる場所。


 自然と、そういうものが見えてしまった。


 庭の中央に、塚原卜伝が立っていた。


 昨日の旅装束ではなく、簡素な稽古着姿である。


 刀は差していない。


 木刀も持っていない。


 ただ立っている。


 それだけなのに、庭の中で卜伝だけが別のもののように見えた。


 山の中に立つ木。


 川の中にある石。


 そこにあるのが当然で、動かそうとする方が間違いであるかのような存在感だった。


 周囲には門弟たちが数人いた。


 新九郎も庄左もいる。


 弥平は勘助を連れてくる役目を終えたあとも、その場に残っていた。


 門弟たちは、好奇心と侮りの混じった目で勘助を見ている。


 卜伝は勘助に視線を向けた。


「来たか」


「はい」


「庭へ入れ」


 勘助は一礼し、庭へ足を踏み入れた。


 一歩目で、草鞋の裏がわずかに沈む。


 昨夜の雨が残っている。


 思ったよりも地面が柔らかい。


 勘助は無意識に右へ体重を逃がしかけた。


 その瞬間、卜伝の声が飛ぶ。


「また逃げた」


 勘助は足を止めた。


 新九郎が小さく鼻を鳴らす。


 庄左は黙っている。


 勘助はゆっくりと呼吸を整えた。


「失礼」


「謝る暇があるなら、気づけ」


「はい」


 勘助は左足をもう一度地面に置いた。


 痛みがある。


 だが、逃げるほどではない。


 いや、逃げたくなるほどの痛みではある。


 けれど、逃げない。


 卜伝はそれ以上何も言わなかった。


 勘助が庭の中央へ近づくと、卜伝は静かに言った。


「山本勘助」


「はっ」


「太刀は持たぬ」


「承知しております」


「今日は、斬ることも受けることもせぬ」


 門弟たちの間に小さなざわめきが起きた。


 新九郎が眉をひそめる。


 弥平が、やっぱりという顔をした。


 卜伝は庭を見渡した。


「この庭で、人が斬られるなら、どこだ」


 勘助は一瞬、問いの意味を測りかねた。


「どこで、ございますか」


「そうだ」


「誰が誰を斬るのでしょう」


「知らぬ」


「人数は」


「知らぬ」


「昼か夜か」


「知らぬ」


「武器は」


「知らぬ」


 勘助は黙った。


 門弟の一人が小さく笑った。


「何だ、その問いは」


 別の門弟が囁く。


「庭を見て斬られる場所など分かるものか」


 新九郎は腕を組んだまま、黙っている。


 庄左の目は、勘助の顔ではなく足元を見ていた。


 卜伝は言った。


「分からぬなら、分からぬでよい」


 その言葉に、勘助は顔を上げた。


 卜伝は続ける。


「だが、分からぬと言う前に、見ろ」


 勘助は庭を見た。


 まず、松。


 枝が低く張っている。


 影が深い。


 昼でも、立つ位置によっては相手の肩口が見えにくくなる。


 次に石。


 庭石は美しく置かれているが、雨上がりには滑る。特に手前の平たい石は苔が薄く乗っており、踏み込めば足を取られる。


 池の縁。


 水面が近い。


 踏み外せば膝まで濡れる。戦いの最中なら、それだけで終わる。


 竹垣。


 逃げ道に見えるが、実際には行き止まりに近い。追い込まれると背を預ける場所がない。


 門弟たちの立ち位置。


 興味本位で見ている者ほど、逃げ道を塞いでいる。


 風。


 竹の葉が揺れる向き。


 雨の匂い。


 地面の湿り。


 そして、人。


 人は怖い時、どこを見るか。


 逃げたい時、どこへ足を出すか。


 勝ったと思った時、どこを見落とすか。


 勘助はゆっくりと庭の中を歩いた。


 門弟たちは黙って見ている。


 新九郎が苛立ったように言った。


「庭を散歩しに来たのか」


 卜伝が一瞥する。


 新九郎は口を閉じた。


 勘助は平たい石の前で止まった。


「ここでは、拙者は斬り合いませぬ」


 卜伝が問う。


「なぜ」


「滑ります」


 門弟の一人が笑った。


「当たり前だ。雨上がりの石は滑る」


 勘助はその門弟を見ずに続けた。


「ただ滑るだけなら、避ければよい。ですが、この石は避けたくなる場所に置かれております」


 笑いが止まる。


 庄左が少しだけ目を細めた。


 勘助は石の周りを指した。


「正面から押された者は、無意識にこちらへ下がります。地面が少し高く見えるからです。濡れた土より石の上の方が安全に思える。ですが、実際には苔で滑る。逃げる者は、ここで足を取られます」


 卜伝は黙って聞いている。


 勘助は次に松の方へ向かった。


「斬られるなら、あの松の影も危うい」


「なぜだ」


 卜伝の声。


「逃げる者は、影へ入ると安心します。身を隠せると思うからです。けれど、枝が低い。肩が上がる。木刀でも刀でも、振り上げが遅れます」


 新九郎が眉を動かした。


 勘助は松の下に立ち、枝を見上げた。


「追う側がそれを知っていれば、逃げた者は振り向いた瞬間に斬られます。人は、背を向けて逃げても、最後には一度振り返る。追手がどこにいるか知りたくなるからです。その一瞬、足が止まる」


 庭が静まり返った。


 勘助は池の方へ歩いた。


「池の縁も危うい。しかし、ここは斬られるというより、斬らせる場所です」


 弥平が思わず声を出す。


「斬らせる?」


 勘助はうなずいた。


「相手を怒らせ、深く踏み込ませる。すると、踏み込んだ足が水際で逃げる。刀は届いても、体が残らない。そこを横から押せば、斬らずとも倒せます」


「お前、そんなことばかり考えて庭を見てるのか」


 弥平が半ば呆れたように言った。


 勘助は少し考えた。


「考えたくなくても、見えてしまう」


 弥平は返す言葉を失った。


 新九郎が低く言う。


「なら、お前はこの庭でどこに立つ」


 卜伝ではなく、新九郎からの問いだった。


 勘助は新九郎を見た。


 しばらく考えてから、庭の中央から少し外れた場所へ移動する。


 松からも石からも池からも、少し距離がある。


 見た目には何の特徴もない場所だ。


「ここです」


 新九郎が眉をひそめた。


「そこは何もない」


「だからです」


「何?」


「逃げたくなる場所ではない。安心したくなる場所でもない。足場も悪すぎず、良すぎもしない。どこへも逃げられるが、どこにも寄りかかれない」


 勘助は足元を見た。


「今の拙者には、このくらいがよい」


 庄左が小さく息を吐いた。


「自分のことも見たか」


「見たくはなかった」


 勘助は正直に答えた。


 新九郎が鼻で笑いかけたが、途中でやめた。


 卜伝は、そこで初めて少し歩いた。


 勘助の立つ場所へ近づき、足元を見る。


「なぜ、そこで斬られぬと言い切らぬ」


 卜伝が問う。


 勘助はすぐには答えなかった。


 そして言った。


「斬られる時は、どこでも斬られます」


 門弟たちの表情が変わる。


 勘助は続けた。


「この庭のどこが危ういかは見えます。ですが、そこを避ければ必ず生きるとは申せませぬ。相手が拙者より上なら、どこに立っても斬られます。拙者が己の足を信用できぬなら、何もない場所でも転びます」


 卜伝の目が、わずかに細くなった。


「なら、先ほどの答えは何だ」


「斬られにくい場所でございます」


「斬られぬ場所ではなく」


「はい」


 卜伝はしばらく勘助を見た。


 その沈黙に、勘助は背中の汗が冷えるのを感じた。


 正しいのか、間違っているのか分からない。


 いや、そもそも卜伝の問いに正解があるのかも分からない。


 ただ、見えたものを言った。


 見えないものは見えないと認めた。


 それだけだった。


 やがて卜伝は新九郎へ視線を向けた。


「新九郎」


「はっ」


「お前なら、どこで斬る」


 新九郎は一瞬だけ勘助を見た。


 それから、松の影を指した。


「あそこです」


「なぜ」


「逃げ込む者を追えば、枝で太刀筋が制限されます。山本の言う通りです。ですが、拙者なら追いません。逃げ込む前に、あの影へ向かわせます」


 卜伝はうなずく。


「どう向かわせる」


「正面を強く見せ、左を空けます。逃げ道があると思わせる。相手が左へ流れたところで、足を送って間を詰めます」


 勘助は新九郎の足を見た。


 右足の踏み込みが強い。


 その癖を使えば、確かに相手を追い込める。


 強すぎる踏み込みは弱点でもあるが、相手に圧をかけるには向いている。


 卜伝は次に庄左を見た。


「庄左」


「はい」


「お前なら」


「池の縁は使いません。危うすぎます。相手も自分も崩れる。拙者なら、石の手前で止めます」


「なぜ」


「滑らせるのではなく、滑ると思わせます。足元へ意識が落ちた時、上が空きます」


 卜伝はうなずいた。


 そして、弥平を見た。


「弥平」


「え、俺ですか」


「お前なら、どこで斬られる」


 弥平は顔を引きつらせた。


「斬る方じゃなくて、斬られる方ですか」


「そうだ」


「ええと……たぶん、あの石です。掃除の時も滑ります」


 門弟の数人が笑った。


 だが卜伝は笑わない。


「なぜ滑る」


「苔があるからです」


「苔を落とさぬのはなぜだ」


「え?」


「掃除を任されているのだろう」


 弥平の顔が青くなった。


「も、申し訳ありません!」


 卜伝は静かに言った。


「苔一つで人は死ぬ。掃除も兵法だ」


 弥平は深く頭を下げた。


「はい!」


 勘助はそのやり取りを見て、胸の内で何かが動いた。


 掃除も兵法。


 その言葉は、妙に深く響いた。


 今まで兵法と言えば、城を攻めること、敵を欺くこと、兵を動かすことだと思っていた。


 だが、苔を落とすことも兵法。


 人が滑らぬようにすることも兵法。


 そう考えれば、戦は刀を抜く前から始まっている。


 いや、人が死なぬようにすることもまた、兵法なのかもしれない。


 卜伝は再び勘助へ向き直った。


「山本勘助」


「はっ」


「お前は、庭を戦場として見た」


「はい」


「悪くはない」


 その言葉に、門弟たちがざわついた。


 勘助自身も、思わず顔を上げそうになった。


 悪くはない。


 塚原卜伝がそう言った。


 褒め言葉と呼ぶには短い。


 だが、勘助にとっては、今まで受けたどんな称賛より重かった。


 しかし卜伝はすぐに続けた。


「だが、浅い」


 胸に落ちかけた熱が、すぐに冷やされた。


 勘助は頭を下げる。


「はい」


「なぜ浅いか分かるか」


 勘助は考えた。


 庭を見た。


 石も、松も、池も見た。


 人の逃げ方も考えた。


 では、何が足りないのか。


 しばらくして、答えた。


「人を、敵として見すぎたからでしょうか」


 卜伝は目を細めた。


「続けろ」


「拙者は、どこで人が斬られるかを考えました。どこで足を取られ、どこで逃げ、どこで振り返るかを見ました。ですが、それは人が斬られるための見方です」


 勘助は自分の言葉を探しながら続けた。


「この庭には、稽古する者もおります。掃除する者もおります。水を運ぶ者も、飯を食う者も、怪我をした者も通る。そこまで見ておりませぬでした」


 弥平が少し驚いた顔をした。


 勘助は卜伝を見た。


「拙者はまだ、人が死ぬ場所ばかり見ております」


 卜伝はしばらく黙っていた。


 風が庭を抜ける。


 竹が鳴る。


 卜伝は低く言った。


「分かっているなら、まだよい」


 勘助は深く頭を下げた。


「はい」


「兵法は、人を死なせるためだけのものではない」


 卜伝の声は静かだった。


 だが、庭の隅々まで届くようだった。


「人が死ぬ場所を知るなら、人をそこへ行かせぬ道も見よ。敵を斬る場所を知るなら、味方を逃がす場所も見よ。足を取る石を知るなら、子供や老人が転ばぬよう石をどける手も持て」


 勘助は、胸の奥を強く押されたように感じた。


 人が死ぬ場所を見る。


 それは勘助が幼い頃からしてきたことだった。


 城を見ても、道を見ても、川を見ても、どこで崩れるか、どこで敵が入るか、どこで人が死ぬかばかり見てきた。


 そうしなければ生き残れなかったからだ。


 笑われ、追い出され、狙われ、逃げてきた。


 危うい場所を見つけることは、勘助にとって命綱だった。


 だが、それだけではない。


 卜伝は、それだけでは足りないと言っている。


 死ぬ場所が見えるなら、生かす道も見よ。


 その言葉は、勘助の中で静かに沈んだ。


 新九郎が腕を組んだまま、ぽつりと言った。


「先生」


「何だ」


「では、山本は使い物になりますか」


 あまりに直接的な問いだった。


 弥平がぎょっとする。


 庄左もわずかに眉を上げた。


 勘助は新九郎を見た。


 新九郎は逃げなかった。


 まっすぐ卜伝を見ている。


 卜伝は答えた。


「今はならぬ」


 新九郎の表情は変わらない。


 勘助も、思ったほど傷つかなかった。


 今はならぬ。


 それは当然だった。


「では、なぜ門前に置くのです」


 新九郎がさらに問う。


 卜伝は静かに言った。


「今は、ならぬからだ」


 その場にいた者たちが、意味を測りかねて黙った。


 卜伝は続ける。


「今すでに使い物になる者は、自分が使い物になると思っている。そういう者は、己を疑うまでに時間がかかる」


 新九郎の顔がわずかに強張った。


「山本は、己が使い物にならぬことを知っている。ならば、そこから始められる」


 勘助は何も言えなかった。


 今は使い物にならない。


 だが、そこから始められる。


 それが救いなのか、地獄なのかはまだ分からない。


 しかし、道が完全に閉ざされたわけではなかった。


 卜伝は庭の中央へ戻った。


「山本」


「はい」


「明日からも門前で立て」


「はい」


「太刀はまだ持たぬ」


「はい」


「この庭を見ることも、今日で終わりではない。毎日見ろ」


「毎日でございますか」


「同じ庭でも、朝と夕では違う。晴れと雨では違う。空腹の時と満腹の時では違う。怒っている時と眠い時では違う」


 卜伝は勘助の片目を見た。


「お前の目も、日によって違う」


 勘助は思わず、自分の片目に触れかけた。


 だが、途中で手を止めた。


「はい」


「見えたと思うな。見えぬものを探せ」


「はい」


 卜伝は門弟たちへ向き直った。


「新九郎」


「はっ」


「山本の立ち方を見るのは、お前が続けろ」


 新九郎は一瞬、心底嫌そうな顔をした。


「拙者が、ですか」


「嫌か」


「……嫌ではございません」


 庄左が横を向いた。


 肩が震えている。


 笑いをこらえているらしい。


 新九郎はそれを横目で睨んだ。


 卜伝は庄左にも声をかける。


「庄左」


「はい」


「山本が余計なものを見すぎておれば、止めろ」


「承知しました」


「弥平」


「はい!」


「石の苔を落とせ」


「はい!」


「ただし、全部落とすな」


「え?」


「滑る石があることも、稽古になる」


「ええと……どこまで落とせば」


「考えろ」


「はい……」


 弥平は困った顔で石を見た。


 門弟たちの間に、少しだけ笑いが漏れた。


 その笑いは、勘助を嘲るものではなかった。


 少なくとも、少しだけ違っていた。


 稽古が解かれると、門弟たちはそれぞれ動き始めた。


 新九郎は勘助の前へ来て、腕を組んだ。


「聞いたか」


「聞いた」


「俺が、お前の立ち方を見ることになった」


「世話になる」


「まず、その素直な礼をやめろ。調子が狂う」


「では、何と言えば」


「何も言うな」


「分かった」


「本当に黙るな。腹が立つ」


 勘助は困った。


 庄左が横から言う。


「新九郎が一番面倒になっているぞ」


「うるさい」


 新九郎は勘助の足元を指した。


「明日から、門前でただ立つな。立つ時は、この庭を思い出せ。逃げたくなる石、安心したくなる影、踏み外す水際。お前の足の中にも同じものがある」


 勘助は新九郎を見た。


 その言葉は、意外なほどよかった。


「そなたは、教えるのが下手ではないのだな」


 新九郎は嫌そうに顔を歪めた。


「褒めるな」


「褒められるのが嫌いか」


「お前に褒められるのが嫌だ」


「なるほど」


 庄左がまた小さく笑った。


 弥平は苔を見つめながら、ぶつぶつ言っている。


「全部落とすなって、どれを残せばいいんだよ。先生はいつもそうだ。考えろって言うけど、考えたら考えたで違うって言うし……」


 勘助はその声を聞きながら、庭をもう一度見た。


 松の影。


 滑る石。


 池の縁。


 人が斬られる場所。


 人が逃げる場所。


 人が立ち止まる場所。


 そして、人が死なずに済む道。


 今まで見えていた庭とは、少しだけ違って見えた。


 卜伝は屋敷の奥へ去っていた。


 だが、言葉だけが残っている。


 兵法は、人を死なせるためだけのものではない。


 勘助は、その言葉を胸の奥に置いた。


 まだ理解できたわけではない。


 ただ、忘れてはならない言葉だと思った。


 夕方、勘助は再び門前に戻った。


 門の内へ入ることは、まだ許されていない。


 弟子になったわけでもない。


 太刀を持つことも許されていない。


 それでも、昨日までの門前とは違っていた。


 勘助は立った。


 左足を嫌わず、右へ逃げすぎず。


 痛みを見て、痛みに飲まれず。


 庭の石を思い出す。


 松の影を思い出す。


 池の縁を思い出す。


 そして、自分の中にある逃げ道を見た。


 日が暮れる頃、弥平が門の中から声をかけた。


「山本」


「何か」


「苔、半分だけ落とした」


「そうか」


「半分でいいと思うか」


「分からぬ」


「そこは何か言えよ」


「分からぬものを、分かったとは言えぬ」


 弥平はため息をついた。


「先生みたいなこと言うな」


「それは恐れ多い」


「本当だよ」


 弥平は少し黙ってから、ぽつりと言った。


「でも、今日の庭の答え、少し面白かった」


 勘助は弥平を見た。


「面白い?」


「怖いとも思ったけどな。あの庭を見て、俺は掃除の面倒な場所しか見てなかった。新九郎さんは斬る場所を見てた。庄左さんは足を止める場所を見てた。お前は、人が死ぬ場所を見てた」


「嫌な見方だ」


「うん。嫌な見方だ」


 弥平は正直に言った。


 だが、その後で続けた。


「でも先生は、人を死なせない道も見ろって言った。だったら、お前の嫌な見方も、役に立つのかもしれない」


 勘助は少し黙った。


 そして頭を下げた。


「ありがとう」


「だから、すぐ礼を言うなって」


「それは新九郎殿に言われた」


「俺も言う」


「では、気をつける」


 弥平は呆れたように笑い、門の中へ戻っていった。


 夜が来る。


 鹿島の竹林が、静かに鳴る。


 勘助は門前に立ち続けた。


 まだ何者でもない。


 まだ弱い。


 まだ鹿島の門の外にいる。


 だが、今日初めて、彼の目は卜伝に見られた。


 そして、浅いと言われた。


 悪くはない、とも言われた。


 人を死なせぬ道を見よ、とも言われた。


 勘助は空を見上げた。


 雲の切れ間に、細い月があった。


「母上」


 小さく呟く。


「拙者は、まだ人の痛みばかり見ております」


 それから、足元へ視線を落とした。


「ですが、いつか……痛まぬ道も見つけられるでしょうか」


 答えはない。


 ただ、鹿島の風が吹いた。


 その風の中で、山本勘助は立っていた。


 逃げず、潰れず、ただ、そこに足を置くために。


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