第十話 片目だから見えるもの
翌朝、山本勘助は痛みで目を覚ました。
足が熱い。
肩も重い。
左腕の傷は昨日より少し落ち着いていたが、庭で一日立ち続けたせいか、体の芯に疲れが沈んでいる。
寝起きの一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
湿った木の匂い。
竹葉が風に鳴る音。
遠くで水を汲む音。
そして、門の内側から聞こえる若い門弟たちの声。
鹿島だ。
勘助は目を開けた。
物置の軒下。
昨夜、初めて門の脇で眠ることを許された場所だった。
門の内ではない。
まだ弟子でもない。
それでも、門前の雨ざらしよりは少しだけ進んだ場所だった。
その少しが、今の勘助には重かった。
「起きてるか」
弥平の声がした。
顔を向けると、彼が木桶を持って立っていた。
「今、起きた」
「先生が、顔を洗ったら庭へ来いって」
「今日は立つのか」
「知らない」
「弥平殿は、何も聞いていないのか」
「俺は伝言係じゃない。たまたま通りかかったら言われただけだ」
「それを伝言係と言うのでは」
「うるさい。水、ここに置くぞ」
弥平は桶を置きかけて、ふと勘助の足を見る。
「……腫れてないか」
「少し」
「少しって言う奴は、たいてい少しじゃない」
「昨日から、似たような言葉を何度も聞く」
「じゃあ直せ」
「何を」
「すぐ少しって言うところ」
勘助は桶の水で顔を洗った。
冷たさで意識がはっきりする。
水面に自分の顔が映った。
傷だらけの顔。
濁った片目。
疲れた頬。
昔なら、その顔を見て胸の奥が硬くなった。
今も好きではない。
だが、今朝は少し違った。
嫌悪の前に、確認があった。
目は見えるか。
痛みはどこか。
顔色は悪すぎないか。
自分の体を、敵ではなく、今日使うものとして見た。
それに気づいて、勘助は小さく息を吐いた。
「どうした」
弥平が怪訝そうに聞く。
「いや。顔を見た」
「それは水に映るからな」
「逃げずに見た」
弥平はしばらく黙ったあと、困ったように頭を掻いた。
「お前、朝から重いこと言うな」
「すまぬ」
「謝るな。余計に重い」
弥平は桶を持ち上げた。
「とにかく庭だ。あと、新九郎さんが先に来てる」
「なぜ」
「お前の立ち方を見るんだと」
「ありがたい」
「本人には言うなよ。嫌な顔するから」
「もう言った」
「早いな」
勘助はゆっくり立ち上がった。
足が軋む。
だが、昨日ほど憎くはなかった。
痛い。
それだけだ。
痛いから、様子を見る。
痛いから、使い方を考える。
痛いから、切り捨てない。
庭へ向かうと、新九郎がすでにいた。
木刀を手にしている。
朝日に照らされた横顔は、不機嫌そうだった。
不機嫌そうではあるが、眠そうではない。むしろ、目が冴えている。
勘助は頭を下げた。
「おはようございます」
「遅い」
「弥平殿には、顔を洗ったら来いと言われた」
「顔を洗うのにどれほどかかる」
「自分の顔を見るのに、少し時間がかかった」
「……また妙なことを言う」
新九郎は一瞬だけ勘助を見たが、それ以上は突っ込まなかった。
庄左も庭の端にいた。
彼は水桶を置き、二人の様子を静かに見ている。
「今日は何をするのでしょうか」
勘助が問うと、新九郎は木刀を軽く回した。
「知らん」
「知らぬのか」
「先生は、だいたい直前まで言わん」
「そなたらも困らぬのか」
「困る」
「そうか」
「だが、困るところから始まる」
新九郎の言葉は、昨日より少しだけ卜伝に似ていた。
本人は気づいていないのだろう。
庄左が小さく笑っている。
新九郎が睨んだ。
「何だ」
「いや、先生に似てきたなと思って」
「やめろ。恐れ多い」
「恐れ多いのか、嫌なのか」
「両方だ」
その時、卜伝が庭へ現れた。
空気が変わる。
昨日もそうだった。
ただ歩いてくるだけで、庭の中の雑音が少しずつ整っていく。門弟たちの姿勢が自然と正される。
卜伝は勘助を見た。
「足は」
「痛みます」
「昨日より正直だな」
「少し、学びました」
「少し、か」
卜伝はその言葉を咎めなかった。
ただ庭の中央へ進み、弥平に視線を向ける。
「弥平」
「はい」
「目隠しの布を持ってこい」
「目隠し、ですか」
「そうだ」
弥平は慌てて走っていった。
勘助は卜伝を見た。
「目隠しをして、立つのでしょうか」
「違う」
「では」
「打たれる」
庭が静かになった。
新九郎が少し眉を上げた。
庄左は黙って勘助を見ている。
勘助は思わず聞き返した。
「打たれる、とは」
「木刀でだ」
「拙者が、でございますか」
「他に誰がいる」
卜伝の声は平然としていた。
弥平が布を持って戻ってきたが、勘助と卜伝の顔を交互に見て、不安そうに立ち止まった。
「先生、山本はまだ木刀も持ってないんじゃ」
「持たせぬ」
「では、どうやって」
「避ける」
弥平は絶句した。
新九郎が口を挟む。
「先生。山本は、片目です。間合いを測るにはまだ」
「だからだ」
卜伝は短く言った。
新九郎は口を閉じた。
勘助は自分の片目に意識が向くのを感じた。
片目。
そのことは何度も笑われてきた。
片目で何が見える。
片目で戦場が見えるものか。
片目で太刀の間合いが分かるものか。
自分でも、そう思っていた。
実際、距離は狂う。
真正面から来るものならまだよい。
少し斜めから来ると、刃が思ったより近かったり遠かったりする。
昨夜までの旅でも、それで何度も危ない目に遭った。
卜伝は新九郎へ向き直った。
「新九郎」
「はっ」
「打て」
新九郎は木刀を握り直した。
だが、いつものような勢いがない。
「どの程度で」
「山本が怪我をせぬ程度」
「それでは稽古になりませぬ」
「怪我をさせるための稽古ではない」
「……承知しました」
新九郎は勘助の前に立った。
勘助は木刀を持っていない。
ただ立つ。
いや、立つしかない。
卜伝は言った。
「山本」
「はい」
「避けろ」
「はい」
「目だけで見るな」
その言葉の意味を掴む前に、新九郎が踏み込んだ。
速い。
勘助は反射的に右へ逃げた。
しかし、右へ逃げる癖は見抜かれている。
新九郎の木刀が、勘助の肩を軽く打った。
「っ」
痛みが走る。
強い打ちではない。
だが、屈辱の方が大きい。
「右へ逃げるなと言っただろう」
新九郎が言う。
「分かっている」
「分かってそれか」
「体が先に逃げた」
「なら体に言え」
「どう言えば」
「知るか」
弥平が横で小さく言う。
「新九郎さん、教えるの下手だなあ」
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言いました」
「お前、最近少し図太くなったな」
「山本の相手をしていると、図太くならないとやってられません」
庄左が口元を押さえた。
勘助は肩の痛みを確かめながら、もう一度立った。
卜伝は何も言わない。
新九郎が構える。
二度目。
今度は左へ逃げようとした。
しかし、足が遅い。
木刀が脇を叩く。
三度目。
踏み込みを見てから動いた。
遅い。
胸を打たれる。
四度目。
新九郎の肩を見た。
肩が動く前に足が来る。
避けきれず、腕を打たれる。
五度目。
今度は足を見た。
足を見すぎて、木刀の軌道を見失う。
背中を打たれる。
門弟たちが少しずつ集まってきた。
笑う者もいた。
「何だ、あれ」
「避けるだけであの有様か」
「先生も酷なことを」
「いや、新九郎が甘く打ってあれだぞ」
声は聞こえていた。
勘助は歯を食いしばる。
だが、歯を食いしばると顎が固まる。
顎が固まると呼吸が浅くなる。
呼吸が浅くなると、視界が狭くなる。
視界が狭くなると、また打たれる。
打たれた。
何度も。
肩。
腕。
脇。
背。
太腿。
新九郎は本気で痛めつけてはいない。
それは分かる。
だが、打たれるたびに、勘助の中で何かが削れていく。
片目では駄目なのか。
やはり見えないのか。
やはり間合いが分からないのか。
そう思った瞬間、木刀が額の横をかすめた。
新九郎が声を荒げる。
「おい、今のは危ないぞ!」
勘助は息を切らしていた。
「すまぬ」
「謝るな。お前がぼんやりすると、こっちが加減を誤る」
「ぼんやりしていたわけでは」
「していた。今、自分の目のことで沈んだだろう」
勘助は返事ができなかった。
新九郎は苛立ったように木刀を下ろした。
「片目だろうが何だろうが、今ここに立っているなら目を使え。使えぬと言って沈む暇があるなら、最初から帰れ」
その言葉は厳しかった。
だが、門前で笑われた言葉とは違う。
片目だから駄目だと言っているのではない。
片目を言い訳に沈むなと言っている。
勘助には、それが分かった。
分かったからこそ、余計に痛かった。
卜伝が静かに言った。
「そこまで」
新九郎は一礼して下がった。
勘助はその場に立ったまま、肩で息をしていた。
卜伝は近づいてくる。
「何が見えた」
その問いは、昨日と同じようで違った。
勘助は息を整えようとした。
「……新九郎殿の踏み込みが、見えました」
「避けられたか」
「避けられませぬでした」
「なぜ」
「見てから動くと、遅い」
「他には」
「肩を見ました。足を見ました。木刀を見ました。しかし、一つを見ると、他が遅れます」
「他には」
卜伝は重ねる。
勘助は自分の胸に手を当てた。
「打たれる前に、怖くなりました」
「何が怖い」
「木刀が」
「違う」
即座に否定された。
勘助は言葉に詰まった。
木刀が怖いのではないのか。
痛みが怖い。
打たれるのが怖い。
笑われるのが怖い。
いや。
「……片目では、やはり駄目なのだと知るのが怖うございました」
庭が静かになった。
卜伝は勘助を見た。
勘助は続けた。
「拙者は、片目でも見えると言い聞かせてきました。人に笑われても、片方だけでも見えていると。けれど、先ほど新九郎殿に打たれて、やはり見えていないのではないかと……それを認めるのが怖かったのです」
言い終えた瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
恥ずかしい。
情けない。
だが、事実だった。
卜伝は頷いた。
「そこが始まりだ」
「始まり、でございますか」
「そうだ。お前は今、自分が何を怖がっているかを見た」
卜伝は弥平へ視線を向けた。
「布を」
弥平が目隠しの布を差し出す。
卜伝はそれを受け取り、勘助へ渡した。
「つけろ」
勘助は布を見た。
「目隠しを?」
「そうだ」
「片目しか見えぬ拙者が、さらに目を塞ぐのでございますか」
「目に頼って避けられぬのなら、目以外を使え」
勘助は布を握った。
新九郎が心配そうに口を開く。
「先生、さすがに」
「新九郎」
「はっ」
「お前は目で打っているのか」
「……いえ」
「なら、山本も目だけで避ける必要はない」
新九郎は黙った。
勘助は目隠しをつけた。
世界が暗くなる。
片目どころではない。
何も見えない。
途端に、地面が遠くなった気がした。
自分がどこに立っているのか、庭のどの位置なのか、卜伝がどこにいるのか、新九郎がどこにいるのか、すべて分からない。
呼吸が浅くなる。
足が逃げようとする。
卜伝の声がした。
「まず、立て」
勘助は息を吸った。
足の裏。
草鞋。
土の柔らかさ。
左足の痛み。
右足へ逃げようとする癖。
それらを一つずつ確かめる。
「聞け」
卜伝の声。
勘助は耳を澄ませた。
竹葉の音。
遠くの木刀の音。
弥平の息。
庄左が少し右後ろにいる気配。
新九郎は、正面。
たぶん、正面。
だが、どれくらいの距離か分からない。
卜伝が言った。
「新九郎」
「はっ」
「打て。ただし、ゆるく」
「承知」
勘助の心臓が強く鳴った。
音が聞こえる。
足が地面を踏む音。
衣擦れ。
木刀が空気を切る音。
勘助は動いた。
遅い。
肩を打たれる。
「っ」
新九郎の声。
「まだ早い。動き出しが早すぎる」
勘助は驚いた。
「早すぎる?」
「怖がって、音がする前に逃げている。だから軌道から外れていない」
早すぎる。
遅いのではなく、早すぎる。
勘助は混乱した。
卜伝が言う。
「怖い者は、遅れるだけではない。早く逃げることもある」
勘助は息を整えた。
次。
足音。
だが、今度は動かない。
怖い。
木刀が来る。
まだ。
まだ。
音が変わる。
空気が動く。
勘助は半歩だけ身を引いた。
木刀が胸の前を通る。
かすった。
だが、当たらない。
弥平が小さく声を上げた。
「避けた」
新九郎がすぐに言う。
「まぐれだ」
「はい」
勘助は素直に答えた。
新九郎が少しだけ詰まる。
「……分かってるならいい」
三度目。
足音。
呼吸。
木刀の風。
今度は避けきれず、腕を打たれる。
四度目。
早く逃げて、脇を打たれる。
五度目。
足が止まり、肩を打たれる。
六度目。
半歩沈む。
木刀が頭上を通る。
七度目。
音につられて右へ逃げる。
そこを読まれ、背を打たれる。
何度も打たれた。
けれど、先ほどとは少し違った。
見えないことで、見ようとしなくなる。
足音が大きくなる。
衣擦れが近くなる。
木刀が空気を押すわずかな音が聞こえる。
新九郎の呼吸には癖があった。
打つ前に、ほんの少しだけ息が細くなる。
強く踏み込む時は、右足が地面を噛む音が重い。
わざと軽く打つ時は、逆に足音を消そうとする。
見えない。
だが、何もないわけではない。
暗闇の中で、別のものが浮かび上がってくる。
卜伝の声がした。
「そこまで」
新九郎が木刀を下ろす気配。
勘助は布を外そうとした。
「まだ外すな」
卜伝が止めた。
「そのまま答えろ。今、庭はどう見える」
勘助は目隠しをしたまま、息を整えた。
「見えませぬ」
「なら、どうある」
どうある。
勘助は耳を澄ませた。
風。
竹。
水。
人の呼吸。
土の匂い。
日差しの温度。
足裏の湿り。
「……庭は、広くなりました」
弥平が不思議そうな声を漏らす。
「見えてないのに?」
勘助はうなずいた。
「見えている時は、石や松や池が先に目に入りました。危うい場所が、形として見えました。しかし今は、音が遠くまであります。風が流れております。人の立つ場所が、呼吸で分かります。地面の湿りも、足の裏にあります」
言いながら、勘助自身が驚いていた。
目隠しをされている。
何も見えない。
だが、庭が消えたわけではない。
むしろ、これまで無視していた庭が現れている。
「片目では、足りぬと思っておりました」
勘助は言った。
「今も足りぬと思います。両目の者と同じようには見えませぬ。間合いも狂います。怖いです」
卜伝は黙っている。
「ですが、目を塞がれても、すべてが消えるわけではありませぬでした。音があります。風があります。足の裏があります。相手の息があります」
勘助は拳を握りかけて、やめた。
「拙者は、片目だから見えぬものばかりを恨んでおりました。けれど、片目だからこそ、目だけを信じきれぬのかもしれませぬ」
卜伝は静かに言った。
「布を外せ」
勘助は目隠しを外した。
光が戻る。
庭が見える。
松。
石。
池。
弥平。
庄左。
新九郎。
卜伝。
すべてが、先ほどまでとは少し違って見えた。
卜伝は言った。
「両目の者は、奥行きを目で測る」
「はい」
「だが、戦場では煙が出る。雨が降る。血が飛ぶ。夜になれば闇がある。旗が揺れ、馬が走り、人が倒れ、土埃で何も見えぬ時もある」
卜伝の声は庭に静かに落ちた。
「目だけに頼る者は、その時に死ぬ」
誰も笑わなかった。
卜伝は勘助の片目を見た。
「片目であることは不利だ」
勘助はうなずいた。
「はい」
「不利を不利でないと言えば、嘘になる」
「はい」
「だが、不利を知っている者は、見えるものを疑える」
その言葉は、勘助の胸に深く入った。
不利を知っている者は、見えるものを疑える。
今まで、不利であることは恥だと思っていた。
劣っていることだと思っていた。
笑われる理由だと思っていた。
実際、そうだった。
だが卜伝は、それをなかったことにしない。
不利だと言う。
その上で、そこから始めろと言う。
「山本」
「はい」
「お前は、見えぬものを憎むな」
「はい」
「見えるものに溺れるな」
「はい」
「片目だから見えるものを見ろ」
勘助は深く頭を下げた。
言葉が出なかった。
卜伝は新九郎へ視線を移した。
「新九郎」
「はっ」
「お前も同じだ」
新九郎は驚いたように顔を上げた。
「拙者も、でございますか」
「お前は両目が見える。足も速い。踏み込みも強い。だから、自分が見えていると思いすぎる」
新九郎の表情が硬くなる。
卜伝は淡々と続けた。
「山本を打つ時、何度か見すぎたな」
「……はい」
「こやつの足の悪さ、片目、逃げ癖。それを見て、次を決めすぎた。だから、先ほど一度、避けられた」
新九郎は唇を引き結んだ。
勘助は驚いて新九郎を見た。
新九郎は、まぐれだと言った。
実際、まぐれに近かった。
だが卜伝は、その一度を見ていた。
新九郎が決めつけたことも、見ていた。
卜伝は言う。
「相手を見るなと言っているのではない。見たものを信じすぎるなと言っている」
「……承知しました」
「庄左」
「はい」
「お前は見て、考えすぎる。考えている間に、足が遅れる」
庄左は静かに頭を下げた。
「はい」
「弥平」
「はい!」
「お前は見ていない」
「……はい」
弥平はしょんぼりした。
卜伝は続ける。
「だが、掃除の時は見ている。稽古の時も、同じだけ見ろ」
「はい!」
門弟たちはそれぞれ頭を下げた。
勘助はその光景を見ながら、不思議な気持ちになった。
自分一人が試されていたのではない。
勘助を通して、新九郎も、庄左も、弥平も、それぞれ見られていた。
鹿島の稽古とは、こういうものなのか。
誰か一人の弱さを、ただ笑って終わらせない。
その弱さを鏡にして、周りの者の弱さも見せる。
卜伝は恐ろしい人だ。
だが、ただ恐ろしいだけではない。
逃げ道を塞ぎながら、道そのものは残している。
稽古が終わると、弥平が水を持ってきた。
「山本、大丈夫か」
「打たれたところは痛い」
「そりゃ痛いだろ。すごい音してたぞ」
「新九郎殿は加減していた」
「加減されてあれか」
「拙者もそう思う」
弥平は気の毒そうに眉を下げた。
そこへ新九郎が近づいてきた。
「山本」
「はい」
「先ほどは、少し決めつけた」
勘助は目を瞬いた。
「新九郎殿が、拙者に謝っているのか」
「謝ってはいない」
「では」
「認めただけだ」
「そうか」
「そうだ」
新九郎は不機嫌そうに言った。
「ただし、一度避けたからといって調子に乗るな。まぐれだ」
「承知している」
「だが、まぐれも積もれば癖になる」
「よい癖か」
「悪い癖になることもある」
「難しいな」
「剣は難しい」
新九郎はそう言って、少しだけ口元を緩めた。
本当に少しだった。
だが、勘助には見えた。
弥平も見えたらしく、目を丸くした。
「新九郎さん、今笑いました?」
「笑っていない」
「いや、今」
「笑っていない」
庄左が横から言った。
「笑っていたな」
「庄左」
「ほんの少し」
「二人とも稽古場へ行け」
新九郎は顔を背けて歩き出した。
弥平は肩を震わせながら後を追った。
庄左は勘助の横に立ち、静かに言った。
「片目だから見えるもの、か」
「まだ、分かったとは言えませぬ」
「だろうな」
「庄左殿は、何か見えたのか」
「俺は、見て考えすぎるらしい」
「卜伝殿がそう言われた」
「自覚はある。動く前に、いくつか先を考える。悪い癖ではないと思っていた」
「悪いのか」
「悪くはない。だが、剣の間合いでは遅れる。先生はそれを言ったのだろう」
庄左は勘助を見た。
「お前は見すぎる。俺は考えすぎる。新九郎は決めつけすぎる。弥平は稽古になると見なさすぎる」
「皆、違うのだな」
「だから稽古になる」
庄左はそれだけ言って、稽古場へ向かった。
勘助は庭に残った。
目隠しの布を手に取る。
ただの布だ。
だが、先ほどまでの闇がまだ残っているように感じた。
片目だから見えるものを見ろ。
勘助は自分の片目にそっと触れた。
好きにはなれない。
今でも、この目のせいでどれほど笑われたかを思い出す。
この目でなければ、もっと違う人生があったのではないかと思うこともある。
だが、卜伝は言った。
不利を知っている者は、見えるものを疑える。
ならば、この目はただの欠けではないのかもしれない。
欠けであることは変わらない。
不利であることも変わらない。
けれど、そこから何を見るかは、自分で選べるのかもしれない。
夕方。
勘助は再び門前に立った。
今日打たれた場所が痛む。
肩も腕も、脇も背も痛い。
だが、痛みの一つひとつが、今日の稽古を思い出させた。
見てからでは遅い。
怖くて早く逃げても打たれる。
音を聞く。
呼吸を聞く。
風を聞く。
自分の足裏を聞く。
門の中から、木刀の音が聞こえた。
以前なら、その音はただ自分が届かない場所の音だった。
今は少し違う。
その音の中に、踏み込みがある。
呼吸がある。
迷いがある。
決めつけがある。
考えすぎがある。
見ていない瞬間がある。
音だけで、庭の中の人の動きがわずかに浮かぶ。
勘助は目を閉じた。
闇の中に、鹿島の庭が広がる。
そこに、片目では見えなかったものが少しだけあった。
夜になる前、卜伝が門前を通りかかった。
勘助は頭を下げた。
「卜伝殿」
「何だ」
「拙者は、今日、少しだけ怖くなくなりました」
「何が」
「見えぬことが」
卜伝は足を止めた。
勘助は続けた。
「まだ怖いです。打たれるのも怖い。片目であることも怖い。ですが、見えぬから終わりではないと思えました」
「そうか」
「はい」
「なら、明日も打たれろ」
勘助は一瞬、言葉を失った。
卜伝は平然としている。
「はい」
「嫌か」
「嫌です」
「よい返事だ」
「よいのでしょうか」
「嫌なものを嫌と言えるうちは、まだ逃げておらぬ。嫌でないふりをし始めたら危うい」
卜伝は門の内へ入っていった。
勘助はその背を見送る。
明日も打たれる。
嫌だ。
痛い。
怖い。
だが、逃げようとは思わなかった。
鹿島の風が、竹を揺らす。
その音を、勘助は聞いた。
片目だから見えぬものがある。
けれど、片目だからこそ、聞こうとするものがある。
後に軍師と呼ばれる男は、その夜、初めて自分の欠けた視界の奥に、小さな道を見つけた。




