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『醜いから仕官不要と追放された俺、武田信玄だけが「その目は天下を見ている」と言った 〜隻眼の軍師・山本勘助、見下した名門武家を戦場でざまぁする〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第三十二話 善意の押しつけ

 善意は、軽いものだと思っていた。


 少なくとも、山本勘助はどこかでそう思っていた。


 人を助ける。


 困っている者へ手を貸す。


 危うい道を直し、荷車の置き場を変え、転ばぬように石を動かす。


 それは、正しいことのはずだった。


 正しいことなら、受け入れられる。


 ありがたいと思われる。


 そうでなくとも、少なくとも嫌がられるはずはない。


 そう思っていた。


 けれど鹿島の外を歩いてから、勘助は何度も思い知らされていた。


 正しいことは、いつも軽いわけではない。


 むしろ、時に重い。


 相手の背へ、新しい荷として乗ることがある。


 太吉の村で感じた警戒。


 丁寧な礼の奥にあった不安。


 弥平が傷ついた顔。


 それらが、朝の稽古の後も勘助の胸に残っていた。


 その日、卜伝はまた勘助たちを外へ出した。


「昨日見た道を、もう一度見ろ」


 命じられたのは、勘助、弥平、庄左の三人だった。


 新九郎は行きたそうな顔をしたが、卜伝に「お前は今日は自分の足を見ろ」と言われ、庭に残された。


 安西左馬助もまた残ることになった。


 ただ、出発前に勘助へ短く言った。


「正しいことを言う時ほど、相手の顔を見ろ」


「はい」


「相手が黙ったからといって、納得したと思うな」


「はい」


「黙った者は、怒りを腹に置いていることもある」


 それは、安西自身の経験から出た言葉のように聞こえた。


 勘助は深く頭を下げた。


「覚えます」


「忘れる」


「……はい。見ます」


 安西は少しだけ頷いた。


 弥平が横で小声で言う。


「最近、みんな先生みたいなこと言うよな」


 庄左が静かに返した。


「先生の言葉は、使いやすい」


「それでいいんですかね」


「使って崩れたら、また直せばいい」


「庄左さんもだいぶ先生みたいです」


 庄左は少しだけ笑った。


 三人は鹿島の門を出た。


 昨日より空は明るく、道の土も乾いている。


 足跡は昨日ほどはっきり残っていない。


 その代わり、荷車の跡はよく見えた。


 太吉の村へ向かう道の途中、分かれ道の手前に新しい車輪跡が重なっていた。


 村人たちは、荷車を止める場所を少し変えたのだ。


 弥平はそれを見て嬉しそうにしゃがみ込んだ。


「ほら、ここ。昨日よりちゃんと広い場所で止めてる」


「そうだな」


「車輪止めの跡もある。これ、俺が言ったやり方に近い」


 弥平は自分のことのように喜んだ。


 実際、自分のことなのだろう。


 掃除の足、水桶の置き方、車輪止め。


 弥平が見てきたものが、村の暮らしの中で少し役に立った。


 その嬉しさは分かる。


 だが勘助は、すぐには喜びきれなかった。


 車輪跡の横に、深く踏み込んだ足跡がいくつかあった。


 力を入れて荷車を動かした跡。


 さらにその横には、乱れた足跡もある。


 言い争ったのか。


 あるいは、荷車を止める場所を変えることに慣れず、誰かが苛立ったのか。


 勘助はじっと見た。


 弥平が気づく。


「何か気になるのか」


「足が乱れている」


「荷車が重かったんじゃないか?」


「それもある。だが、ここで少し揉めたかもしれない」


「揉めた?」


 弥平の顔が曇る。


「俺たちが言ったせいで?」


「分からぬ」


 庄左が道を見ながら言った。


「見てみよう。だが、決めつけるな」


「はい」


 三人は村へ向かった。


 村の入口には、昨日と同じように視線があった。


 ただ、昨日より少しだけ柔らかい。


 勘助たちが勝手に奥へ入らず、入口で止まったことが伝わっているのかもしれない。


 それでも、歓迎とは違う。


 村人たちは様子を見ている。


 鹿島の者たちは、何をしに来たのか。


 また何かを変えさせるのか。


 そういう目だった。


 太吉が最初に見つけて、こちらへ駆け寄ろうとした。


 しかし、途中でぴたりと止まり、足元を見た。


 それから歩いてくる。


「走らない!」


 太吉は自分でそう言った。


 弥平が笑う。


「偉いぞ」


「畑で転ぶから!」


「そうだ」


 太吉は得意げだった。


 その後ろから、太吉の母が出てきた。


 今日も丁寧に頭を下げる。


「昨日は、入口までで失礼いたしました」


「こちらこそ、急に参りました」


 勘助は頭を下げた。


「今日は、昨日見た荷車の止め場を確認しに参りました。村の中へ勝手に入るつもりはございません」


 太吉の母は少し困った顔をした。


「そのことで……実は、少し話がありまして」


 弥平が顔を上げる。


「何か、困りましたか」


「困ったというほどではないのですが」


 母の後ろから、太吉の父・源太が杖をつきながら出てきた。


 まだ足を引きずっている。


 だが、昨日より顔色はよかった。


 太吉が慌てる。


「父ちゃん、寝てなきゃ駄目だよ!」


「ずっと寝てたら、体が腐る」


「腐らないよ!」


「気分が腐るんだ」


 源太はそう言って、勘助たちを見た。


 顔には感謝もある。


 だが、それだけではない。


 百姓としての意地、家の主としての苛立ちがある。


「鹿島の方々。先日は助けていただいた。薬も、荷のことも。礼を言う」


 源太は深く頭を下げた。


 勘助たちも頭を下げる。


 しかし、源太は顔を上げると、すぐに言葉を続けた。


「ただ、荷車の止め場のことだがな。村の者が少し揉めている」


 弥平の顔がはっきり曇った。


「やっぱり、俺たちが言ったせいで……」


「いや、悪くなったわけではない」


 源太は首を横に振った。


「広い場所で止めるのは確かに安全だ。車輪止めのことも、やってみたら楽になった。そこの兄ちゃんが教えてくれた結び方もな」


 弥平は少しほっとした。


 だが源太の顔は晴れない。


「だが、昔から荷車を止めていた場所がある。あそこには、年寄りが休む石もある。荷を下ろしたあと、すぐに畑へ分ける道もある。そこを変えると、別の者が困るんだ」


 勘助は黙った。


 自分たちは、荷車が襲われた時の危険と、坂の足場を見た。


 だが、村の中の分配までは見ていなかった。


 どこで荷を分けるか。


 年寄りがどこで休むか。


 畑へ向かう道。


 昔からの流れ。


 そこまで見ていなかった。


 源太は続けた。


「若い衆は、鹿島の方々が言うなら変えた方がいいと言う。年寄りは、急に変えるなと言う。どちらも間違ってはいない。だから、揉める」


 弥平は唇を噛んだ。


「俺、ただ危ないと思って」


「分かってる」


 源太は弥平を見た。


「お前さんが悪いと言ってるんじゃない。実際、助かった。だが、暮らしってのはな、一つ動かすと他も動く」


 その言葉は、卜伝の小石の教えに似ていた。


 石一つを動かせば、百人が死ぬこともある。


 村の荷車一つでも、同じなのだ。


 勘助は頭を下げた。


「見落としておりました」


 源太は少し驚いた顔をした。


「いや、そこまで畏まらんでも」


「いえ。荷車の危うさだけを見て、村の中の流れを見ておりませんでした」


 勘助は道の方を見た。


「よろしければ、実際に荷を分けるところを見せていただけませぬか。すぐに口を出すのではなく、まず見ます」


 源太は勘助をじっと見た。


「見るだけか」


「はい」


「見たら、言いたくなるだろう」


「なると思います」


 弥平が小さく言った。


「正直だな」


 勘助は続けた。


「ですが、言う前に弥平殿に止めてもらいます」


「俺?」


「卜伝殿から、止まったら動かせと言われています。今日は、言いかけたら止めてほしい」


 弥平は少し目を丸くしたあと、真面目に頷いた。


「分かった。山本が正しい顔で押しつけ始めたら止める」


「正しい顔とは」


「自分じゃ気づかないだろうけど、あるんだよ。こう、見えました、だから変えましょうって顔」


 庄左が静かに言った。


「分かる」


「庄左殿まで」


「俺にもある。考えがまとまった時に、人を置いて先へ行く顔だ」


 源太は三人を見て、少しだけ笑った。


「鹿島の人たちは、妙な話し方をするな」


「よく言われます」


 弥平が答えた。


 村の中へ入る許しが出た。


 ただし、村人たちの視線はまだあった。


 勘助はそれを感じながら、道を進んだ。


 太吉は嬉しそうに横を歩く。


「勘助おじさん、見るだけ?」


「今日は見るだけだ」


「本当に?」


「弥平殿が止める」


「弥平兄ちゃん、強い?」


「今日は俺が強い」


 弥平は少し胸を張った。


「山本が口出ししすぎたら、俺が止める」


「すごい」


「だろ?」


 太吉は素直に感心している。


 弥平は嬉しそうだった。


 荷車の止め場は、村の中央へ向かう手前にあった。


 以前から使っていた場所は、確かに便利だった。


 道は少し狭いが、そこから三方向へ小道が伸びている。


 畑へ。


 井戸へ。


 家々へ。


 そして、すぐ横には大きな平たい石があった。


 老人が腰を下ろすのにちょうどいい。


 石の表面は滑らかで、多くの人が座ってきたことが分かる。


 弥平が小声で言う。


「これ、役に立つ石だ」


「そうだな」


 庄左も頷く。


「ここに荷車を止める理由はある」


 勘助は車輪跡を見た。


 何度も同じ場所に車輪が来ている。


 ここで荷を下ろし、畑へ、家へ、水場へ分ける。


 人の暮らしが、この場所を使いやすくしてきた。


 そこへ、勘助たちは「危ないから変えた方がよい」と言った。


 間違いではない。


 だが、足りなかった。


 村人が数人集まっていた。


 その中の一人、白髪交じりの老人が勘助たちを見るなり、少し厳しい顔をした。


「鹿島の方々が、荷車の場所を変えろと言ったそうだな」


 弥平が反射的に口を開きかける。


 勘助は手で止めた。


「変えろと命じたつもりはございませんでした。危うい場所を見たので、お伝えしました」


「同じことだ」


 老人は言った。


「鹿島の方が言えば、若い者は従う。だが、わしらはここで何十年も荷を下ろしてきた。どの家へ先に持っていくか、誰が腰を下ろすか、雨の日にどこへ米を置くか。全部、ここで決まっておる」


 老人の声には、頑固さだけではなく、積み重ねへの誇りがあった。


 勘助は頭を下げた。


「見落としておりました」


 老人は少し黙った。


 怒鳴り返されると思っていたのかもしれない。


「……見落とし?」


「はい。坂と浪人の足場だけを見ました。村の中で荷がどう分かれるかを見ておりませんでした」


 老人は勘助の顔をまじまじと見た。


 醜い顔。


 片目。


 おそらく、最初にそれを見ている。


 だが、勘助は目を逸らさなかった。


 老人は少しだけ声を落とした。


「では、どうする」


 問いが来た。


 ここで答えたくなる。


 すぐに提案したくなる。


 荷車を二段階で止めればよい。


 広い場所で一度止め、人数を集めてから従来の場所へ入れる。


 車輪止めを二つ用意する。


 雨の日だけ別の場所を使う。


 答えはいくつか浮かんだ。


 喉まで出た。


 その瞬間、弥平が勘助の袖を引いた。


「山本」


 短い声だった。


 勘助は口を閉じた。


 弥平が小声で言う。


「見るだけ」


「……はい」


 老人がそのやり取りを見て、少しだけ目を細めた。


「何だ。言いたいことがあるのか」


「あります」


 勘助は答えた。


「だが、今日はまず見ます。すぐ言うと、また見落とします」


 老人はしばらく勘助を見ていた。


 やがて、ふんと鼻を鳴らした。


「なら、見ていけ」


 その日は、ちょうど小さな荷車が戻ってくる時間だった。


 米俵は少ないが、野菜の籠と薪束が積まれている。


 若い男二人が引き、女たちが籠を受け取り、老人が石に座って指示を出す。


 太吉も小さな籠を持つ。


 弥平がすぐに太吉へ言った。


「重いなら言えよ」


「うん!」


 勘助は黙って見た。


 荷車は従来の場所へ入る。


 確かに道は狭い。


 しかし、入ってしまえば流れは速い。


 女たちが慣れた手つきで籠を受け取る。


 米俵は一度石の横へ置かれる。


 老人が誰の家へ先に運ぶか言う。


 井戸に近い家からではない。


 今日は病人のいる家が先らしい。


 次に、畑へ向かう者が野菜を受け取る。


 荷車が空くと、すぐに向きを変え、道を空ける。


 流れがある。


 無駄ではない。


 ただし、危ういところもある。


 雨の日に車輪が滑れば、石にぶつかる。


 浪人に止められれば、逃げ道が狭い。


 荷を下ろす人が多すぎると、足が絡む。


 太吉のような子供が走れば、石と車輪の間に入る危険がある。


 見れば見るほど、良いところと悪いところが一緒に見えた。


 これを「危ないから変えろ」と一言で片づけるのは浅い。


 勘助はそれを痛感した。


 作業が終わると、老人が聞いた。


「どう見た」


 弥平が勘助の袖をまた握る。


「山本」


「分かっている」


 勘助は老人へ向き直った。


「この場所は、村の中で荷を分けるにはよい場所です。石があり、三方向へ道があり、人の手順ができております」


 老人の顔が少しだけ和らいだ。


 自分たちの積み重ねを認められたからだろう。


 勘助は続けた。


「ただし、外からの危うさには弱いです。荷車が入ってから塞がれると逃げ道が少なく、雨の日には車輪が石へ寄りやすい。子供が急ぐと車輪と石の間に入りかねません」


 老人は黙って聞く。


「ですから、場所を変えるのではなく、入る前に一度止まる場所を決めるのはいかがでしょう。広い場所で一度、人が揃っているか、道に怪しい者がいないかを見てから、この場所へ入る。ここは変えず、手前に一つ目の目を置く」


 弥平が小さく呟く。


「一つ目の目……」


 老人が眉をひそめる。


「見張りを置けということか」


「常に人を置けとは申しません。荷車を引く者が、手前で一度止まる。それだけでも違います。雨の日だけは車輪止めを二つ。子供は荷車が止まるまで石のこちら側に入らない。太吉殿も」


 太吉がびくりとする。


「俺?」


「はい。太吉殿は走ります」


「最近走ってない!」


「走りたそうな足をしています」


 太吉は自分の足を見た。


 村人たちの間に少し笑いが起きた。


 老人も、少しだけ口元を緩めた。


「場所は変えぬ。手順を一つ増やす、か」


「はい。村の積み重ねを変えすぎず、外の危うさを見るための一手です」


 老人は考え込んだ。


 源太が横から言った。


「それなら、年寄りも文句は少ない。若い衆も安全を見られる」


 太吉の母も頷く。


「子供たちには、石より前へ出ないよう言えます」


 弥平がそっと勘助の袖を離した。


 今回は、止める必要はないと判断したのだろう。


 老人はしばらくして、ゆっくり頷いた。


「試すだけなら、よかろう」


 勘助は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言うのはこちらだ」


 老人は言った。


 しかし、すぐに付け加える。


「だが、うまくいかなければ戻す」


「もちろんです」


「村のやり方は、村の者が決める」


「はい」


 その言葉を、勘助は重く受け止めた。


 村のやり方は、村の者が決める。


 正しい。


 外から来た者は、見て、提案することはできる。


 だが、暮らしを決めるのはそこに住む者たちだ。


 帰り道、弥平は妙に静かだった。


 勘助が尋ねる。


「弥平殿、どうした」


「いや……今日、俺、山本を止められたなと思って」


「止められた」


「うん。お前、最初すぐ言いそうだった」


「言いそうだった」


「袖引いたら止まった」


「助かった」


 弥平は少し嬉しそうに笑った。


「俺、役に立った?」


「大いに」


「ならよかった」


 庄左が横から言った。


「弥平は、提案の間合いを見たな」


「俺が?」


「そうだ。山本が踏み込みすぎる前に止めた」


「俺、山本の車輪止めみたいだな」


 弥平が言うと、勘助は少し笑った。


「よい車輪止めだった」


「褒められてるのか分からない」


「褒めている」


 庄左も頷いた。


「車輪止めは大事だ」


「庄左さんが言うと本当に大事に聞こえる」


 三人は笑いながら道を戻った。


 鹿島の門へ着くと、卜伝が待っていた。


 やはり、すべて分かっているような顔だった。


「何を見た」


 勘助は頭を下げた。


「善意の置き場所を見ました」


「続けろ」


「正しい提案でも、相手の暮らしを見なければ押しつけになります。荷車の止め場は危うかった。ですが、村の中で荷を分けるには意味のある場所でした。場所を変えるのではなく、手順を一つ増やすことで、村の積み重ねを壊さず危うさを見る一手になりました」


 卜伝は弥平を見る。


「弥平」


「はい」


「お前は」


「山本の袖を引きました」


「なぜ」


「すぐ言いそうだったので。見るだけって言ったのに、言いたい顔をしてました」


「よい」


 弥平は少し胸を張った。


「今日は車輪止めになりました」


 卜伝は一瞬だけ目を細めた。


「車輪止めか」


「はい。山本が坂を転がる前に止めました」


 卜伝は珍しく、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


「よい車輪止めだ」


 弥平は顔を赤くした。


「先生にも言われた……」


 庄左が静かに言った。


「弥平は、今日かなり働きました」


「庄左さんまで!」


 卜伝は勘助へ戻る。


「山本」


「はい」


「善意は刃になる」


「はい」


「正しさは荷になる」


「はい」


「だが、恐れて何も言わぬ者は、見殺しにすることもある」


 勘助の背筋が伸びた。


「はい」


「だから、間合いを見ろ。言うべき時に言え。黙るべき時に黙れ。相手の暮らしを見てから、置け」


「はい」


「提案も一手だ。石を置く場所を誤るな」


 懐の小石が、また重く感じられた。


 その夜、勘助は紙束を開いた。


 今日の出来事を書く。


『善意の押しつけ。正しい提案でも、相手の暮らしを見なければ刃になる。村の荷車の場所には意味があった。休み石、三方向の道、荷を分ける手順、病人の家を先にする流れ。外から見た危うさだけで変えようとするな』


 続けて書く。


『場所を変えず、手順を一つ増やす。手前で一度止まる。村の積み重ねを壊さず、外の危うさを見る。提案も一手。弥平、車輪止めとなる』


 最後の一行を書きながら、勘助は少し笑った。


 弥平が見たら怒るかもしれない。


 いや、喜ぶかもしれない。


 どちらにしても、今日の弥平は本当に車輪止めだった。


 勘助が自分の正しさで坂を転がり落ちる前に、袖を引いて止めた。


 それは大事な一手だった。


 筆を置いたあと、勘助は小石を手に取った。


 石を置く。


 提案を置く。


 言葉を置く。


 善意を置く。


 すべて、場所を誤れば人を転ばせる。


 鹿島の外は、やはり難しい。


 だが、今日は昨日より少しだけ見えた。


 人の暮らしは、一見古くて不便に見える場所にも、理由がある。


 それを見ずに変えようとすれば、善意はただの押しつけになる。


 山本勘助は紙束を閉じた。


 明日は、太吉の父が立とうとするという。


 人が立つことにも、きっと間合いがある。


 それを見誤らぬように。


 勘助はそう思いながら、痛む肩を静かに押さえた。


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