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『醜いから仕官不要と追放された俺、武田信玄だけが「その目は天下を見ている」と言った 〜隻眼の軍師・山本勘助、見下した名門武家を戦場でざまぁする〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第三十三話 太吉の父、立とうとする

 人が立つ、ということを、山本勘助はこれまで簡単に考えていた。


 立てる者は立つ。


 立てぬ者は座る。


 怪我をしている者は休む。


 無理をすれば悪くなる。


 だから止める。


 そういうものだと思っていた。


 けれど、鹿島へ来てから、勘助は何度も同じ間違いをしている。


 物事は、外から見るほど単純ではない。


 水桶は、水を運ぶだけではない。


 掃除は、落ち葉を集めるだけではない。


 荷車の止め場は、危ないから変えれば済むものではない。


 善意も、正しさも、置き場所を誤れば相手の暮らしを乱す。


 ならば、人が立つことも同じなのだろう。


 そのことを、勘助は太吉の家で知ることになった。


 その朝、鹿島の庭では弥平がいつもより念入りに木刀の置き場を揃えていた。


 柄の向き。


 通り道へ出ていないか。


 取る者が足を引っかけないか。


 昨日、村で「車輪止め」として勘助を止めたことがよほど効いたのか、弥平はどこか得意げである。


 新九郎がそれを見て言った。


「弥平」


「はい」


「木刀を揃えすぎて、稽古の時間を忘れるな」


「分かってますよ」


「今、少し忘れていただろう」


「少しだけです」


「少しで遅れる」


「はい……」


 弥平は肩を落としたが、その顔は以前ほど沈んでいなかった。


 掃除や道具の置き方が、ただの雑用ではないと知ったからだろう。


 勘助はその様子を見て、少しだけ嬉しくなった。


 すると、安西左馬助が横から低く言った。


「山本」


「はい」


「人を見て笑う余裕があるなら、自分の肩を見ろ」


 勘助は自分の肩へ手をやった。


 浪人崩れの刀がかすった傷は、もう塞がり始めている。


 だが、木刀を振るとまだ引きつる。


「痛むか」


「少し」


「少し、で済ませるな」


「痛みます」


「なら、痛む肩でどう動くかを見ろ。痛まぬふりをするな」


「はい」


 安西の言葉は相変わらず厳しい。


 しかし、最近の勘助には、その厳しさの中に見えるものがある。


 安西は痛みを甘やかすことを許さない。


 だが、痛みを無いものにしろとも言わない。


 痛みはある。


 あるものとして扱え。


 それが安西の言葉だった。


 その時、塚原卜伝が庭に現れた。


 朝稽古が始まる前だったが、卜伝は木刀を持っていない。


 門弟たちの空気が、少し変わる。


「山本」


「はい」


「弥平」


「はい!」


「今日は太吉の家へ行け」


 弥平が目を丸くした。


「太吉の家、ですか」


「そうだ」


「荷車の件ですか?」


「違う」


 卜伝は短く言った。


「太吉の父が立とうとしている」


 勘助は眉を動かした。


「怪我は、まだ癒えていないのでは」


「癒えていない」


「では、止めるべきでは」


 言った瞬間、卜伝の目が勘助へ向いた。


 その視線だけで、勘助は自分がもう一歩踏み込みすぎたことを悟った。


 卜伝は言った。


「止める前に見ろ」


「……はい」


「立つには立つ理由がある」


「はい」


「倒れるにも倒れる理由がある」


「はい」


「お前はすぐ、正しい場所へ人を置こうとする。だが、人は石ではない」


 懐の小石が、急に重く感じられた。


「弥平」


「はい」


「お前は山本が正しさで転がりそうになったら止めろ」


「また車輪止めですか」


「そうだ」


 弥平は少しだけ胸を張った。


「任されました」


 新九郎が横から言う。


「調子に乗るな。車輪止めが浮かれていたら車輪は止まらん」


「はい……」


 庄左が静かに近づいてきた。


「先生、私は」


「今日は残れ」


「はい」


「山本と弥平だけで見ろ。二人で足りぬところを見てこい」


「承知しました」


 安西が勘助へ言った。


「怪我人を止める時ほど、相手の誇りを見ろ」


「誇り、ですか」


「そうだ。体だけ見れば、寝ていろと言えば済む。だが、男が寝ていられぬ時もある」


 安西の言葉は、太吉の父だけを指しているのではないように聞こえた。


 家を背負う者の言葉。


 動けない自分を許せない者の言葉。


 勘助は深く頭を下げた。


「見てまいります」


「見るだけで終わるな。だが、見ずに言うな」


「はい」


 勘助と弥平は鹿島の門を出た。


 空は薄く晴れている。


 昨夜の雨はなかったが、朝露で道の端はまだ少し湿っていた。


 弥平は歩きながら、時折勘助の肩を見る。


「山本、肩、大丈夫か」


「痛む」


「正直だな」


「安西殿に、少しで済ませるなと言われた」


「あの人に言われると、少しって言えなくなるよな」


「はい」


 弥平は少し黙り、それから言った。


「太吉の父ちゃん、立ちたいんだろうな」


「怪我をしているのにか」


「怪我してるから、じゃないか」


 勘助は弥平を見た。


 弥平は足元を見ながら続ける。


「俺、剣が下手で掃除ばっかり上手いって思ってた時、稽古で駄目だと分かってるのに、無理に前へ出たくなることがあった。できないって思われたままだと嫌でさ」


「弥平殿にも、そういう時があるのか」


「あるよ。俺だって、ずっと明るく掃除してるだけじゃない」


「すまぬ」


「謝るところじゃない。まあ、山本はそうやってすぐ謝るけど」


 弥平は苦笑した。


「太吉の父ちゃんは家の主だろ。怪我して寝てて、息子が薪を運んで、奥さんが全部やってる。それを見てたら、立ちたくなるんじゃないか」


「体がまだ無理でも」


「うん」


 勘助は黙って歩いた。


 怪我をした者は休むべき。


 それは正しい。


 だが、正しいだけでは足りない。


 人には立ちたい理由がある。


 それを見ずに寝ていろと言えば、善意で人を殴ることになるのかもしれない。


 太吉の村へ近づくと、荷車の止め場には昨日決めた新しい手順の跡が残っていた。


 手前の広い場所で一度止まり、そこから村の中央へ入る。


 まだ慣れていないのだろう。


 足跡は少し乱れている。


 しかし、以前よりも道の詰まりは少ない。


 弥平がそれを見て頷いた。


「試してくれてるな」


「そうだな」


「うまくいくといいな」


「うまくいかないところも出るだろう」


「そこでまた見るんだろ」


「はい」


「面倒だな」


「暮らしは面倒なのかもしれぬ」


「それ、先生が言いそうだな」


 二人は村の入口で足を止めた。


 昨日と同じように、勝手に中へは入らない。


 少し待つと、太吉がこちらに気づいて走りかけ、途中で慌てて歩きに変えた。


「勘助おじさん! 弥平兄ちゃん!」


「太吉殿、今日は走らなかったな」


「途中から!」


「途中からでも、前よりよい」


 太吉は嬉しそうに笑った。


 しかし、その顔はすぐに曇った。


「父ちゃんが、また立つって言ってる」


「また?」


 弥平が聞く。


「昨日も立った。すぐ転んだ。母ちゃんが泣きそうになった」


 勘助と弥平は顔を見合わせた。


 太吉は小さな手で自分の着物の端を握った。


「父ちゃん、怒ってる。俺が薪を持つと怒る。母ちゃんが水汲むと怒る。寝てろって言うと、もっと怒る」


 勘助の胸が重くなった。


 見に来た理由は、すでに目の前にあった。


 太吉の家へ向かうと、入口で太吉の母が待っていた。


 顔には疲れがある。


 だが、勘助たちを見ると丁寧に頭を下げた。


「すみません。何度も」


「いえ。勝手に参りました」


 勘助は頭を下げる。


 家の中から、低い怒鳴り声が聞こえた。


「だから、手を貸すなと言っている!」


 太吉の母の肩がびくりと動いた。


 弥平が小声で言う。


「かなり荒れてるな」


 勘助は頷いた。


 家の中へ入ると、太吉の父・源太が柱につかまりながら立とうとしていた。


 右足にはまだ布が巻かれている。


 顔色は昨日よりよいが、額には汗が浮いていた。


 その前で、太吉が不安そうに立ち、母が両手を胸の前で握っている。


 源太は勘助を見ると、顔をしかめた。


「また鹿島の人か」


「失礼いたします」


「見物か」


「違います」


「では何だ。怪我人が転ぶところを見て、兵法にでもするつもりか」


 鋭い言葉だった。


 弥平がむっとする。


「そんな言い方しなくても」


「弥平殿」


 勘助は止めた。


 源太は勘助を睨む。


「お前たちは助けてくれた。礼は言う。だがな、だからといって、俺の家の中まで見透かしたような顔をされる覚えはない」


「はい」


「俺が立とうが座ろうが、俺の家のことだ」


「はい」


「武士でもない浪人に、百姓の暮らしが分かるか」


 太吉の母が小さく声を上げた。


「あなた、そんな」


「いいんだ」


 勘助は静かに言った。


 胸は痛んだ。


 武士でもない浪人。


 その言葉には、自分の曖昧な立場を突く響きがあった。


 武士として認められず、仕官もできず、鹿島に置かれているだけの者。


 百姓でもない。


 武士でもない。


 だから、お前に何が分かる。


 そう言われれば、勘助には返す言葉がなかった。


「分かりませぬ」


 勘助は正直に言った。


 源太の目が少し揺れた。


「分からぬのか」


「はい。拙者は百姓として家を支えたことがありませぬ。怪我をして、息子や妻に家のことを任せる悔しさも、源太殿ほどには分かりませぬ」


「なら、黙っていろ」


「はい」


 勘助は本当に黙った。


 弥平が驚いた顔をする。


 太吉も、母も、源太も、一瞬言葉を失った。


 勘助はただ、源太の足元を見た。


 右足。


 柱を握る手。


 左足に逃げた重心。


 立とうとする意地。


 痛み。


 怒り。


 恥。


 源太の立ち方は、安西が言った通りだった。


 体だけ見れば、寝ていろと言えば済む。


 だが、そこには誇りがあった。


 家の主として、立っていたいという誇り。


 それを無視して寝ていろと言えば、たとえ正しくても届かない。


 沈黙が続く。


 源太は苛立ったように言った。


「何とか言ったらどうだ」


「黙っていろと仰いましたので」


 弥平が横で少し吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。


 源太も一瞬、怒るより先に困った顔をした。


「……そういう意味じゃない」


「では、少しだけ申してもよろしいでしょうか」


「何を」


「源太殿が立ちたい理由を、聞かせていただきたい」


 源太の顔が険しくなる。


「理由も何も、俺の家だ」


「はい」


「俺が薪を割り、水を運び、畑を見る。そうしてきた」


「はい」


「それを、太吉や女房がやっている。俺は寝ているだけだ。飯を食うだけ。何もしない。これで平気な顔をしていられるか」


 声が震えていた。


 怒りだけではない。


 悔しさだった。


「太吉はまだ小さい。女房だって、ずっと動きっぱなしだ。俺が寝ていれば、家の中の荷が全部二人へ行く。そんなもの、見ていられるか」


 太吉が小さく言った。


「父ちゃん……」


 源太は太吉を見ない。


 見れば、何かが折れてしまうのかもしれない。


 勘助は静かに聞いた。


「立てば、その荷は軽くなりますか」


 源太はすぐに答えた。


「当たり前だ」


「転べば」


 源太は黙った。


「転べば、太吉殿と奥方の荷は重くなります」


 太吉の母が目を伏せる。


 源太の手が柱を強く握る。


 勘助は言葉を選びながら続けた。


「拙者は、寝ていろと言いに来たわけではありませぬ」


「では何だ」


「立ち方を見に来ました」


「立ち方?」


「はい。源太殿が家の中でどう立てるかを、見に来ました」


 源太は眉をひそめた。


「立つか寝るかしかないだろう」


「そうでしょうか」


 勘助は家の中を見た。


 かまど。


 水桶。


 薪。


 畑へ向かう道具。


 太吉の小さな籠。


 母の手。


 源太の柱。


 家の中にも、道がある。


 役目の道。


 荷の流れ。


 誰が何を持ち、どこで休み、どこで無理をするか。


 それを見る。


 弥平がそっと言った。


「源太さん。水桶って、持ち方でかなり変わるんです」


「何の話だ」


「俺、道場で水桶とか掃除とかばっかりやってるんですけど。重いものって、一人で全部持つと潰れるんです。でも、二人で持つ時も、ただ半分にすればいいってわけじゃなくて、持つ場所とか歩く順番とかで全然違う」


 源太は弥平を見る。


 弥平はいつになく真面目だった。


「源太さんが全部持ってた荷を、今は太吉と奥さんが急に持ってるんですよね。だから、源太さんが急に取り返そうとすると、またぐちゃぐちゃになるんじゃないですか」


「ぐちゃぐちゃ?」


「はい。水桶が揺れるみたいに」


 源太は反論しようとしたが、言葉に詰まった。


 勘助は弥平の言葉を受け取った。


「源太殿。今すぐ薪を背負うことはできませぬ。畑へ出ることも、まだ危うい。ですが、家の中でできることはあるはずです」


「何だ」


「太吉殿が薪を持つ時、どの束なら持てるかを決める。奥方が水を運ぶ時、どこで休むかを決める。畑へ出る順番を考える。荷車が来る日に誰を呼ぶかを決める」


 源太は黙っている。


「源太殿は、足で立てずとも、家の中の荷の置き場所を決めることはできるのではありませぬか」


 太吉の母が顔を上げた。


 太吉も、少し目を丸くしている。


 源太は苦い顔をした。


「口だけ出せというのか」


「いいえ」


 勘助は首を横に振った。


「家を見ている者として、指図するのではなく、流れを整えるのです。鹿島の庭で、弥平殿は木刀を置く場所を整えます。それだけで、人が転ぶのを防ぎます。源太殿は、この家でそれができます」


 弥平が小声で言う。


「山本、俺をそんな立派に使うなよ」


「事実だ」


「照れるだろ」


 太吉が父の前へ一歩出た。


「父ちゃん」


 源太はようやく太吉を見た。


「何だ」


「俺、薪持つ」


「だから、無理をするなと」


「違うよ。父ちゃんが決めて」


「何を」


「どの薪なら俺が持っていいか。どこで休めばいいか。父ちゃん、山の道知ってるだろ。俺、分かんない。だから教えて」


 源太の顔が変わった。


 太吉は一生懸命続けた。


「俺、父ちゃんみたいに一気にいっぱい持とうとして、前に転びそうになった。弥平兄ちゃんが紐の結び方教えてくれたけど、山のどこで休むとか、どの木が乾いてるとか、俺まだ分かんない」


「太吉……」


「父ちゃんが立つなら、俺が薪を持つ場所を教えて。俺、持つから。父ちゃんは教えて」


 家の中が静かになった。


 太吉の母が、口元を押さえる。


 弥平は少し目を赤くしていた。


 勘助も、胸の奥が熱くなった。


 外からの正論では動かなかったものが、家族の言葉で動いている。


 太吉は、源太を寝かせようとしていない。


 立てと言っている。


 ただし、足で立つのではなく、教える者として立てと言っている。


 源太はしばらく何も言わなかった。


 柱を握る手から、少しずつ力が抜けていく。


 やがて、低い声で言った。


「……薪はな、太いものばかり選ぶな」


 太吉が顔を上げる。


「うん」


「細い枝も混ぜろ。細いのだけだとすぐ燃え尽きる。太いのだけだと火がつきにくい。持つ時も、太いのを下にして、細いのを上にしろ」


「うん」


「坂の途中の松の根のところでは休むな。あそこは滑る。少し先に平たい石がある。そこなら下ろせる」


「うん!」


「雨の次の日は山へ入るな。入るなら、沢の近くは避けろ。足を取られる」


「うん!」


 太吉は何度も頷いた。


 源太の声はまだ硬い。


 だが、先ほどまでの怒鳴り声とは違った。


 家の中に、別の流れが生まれた。


 太吉の母が静かに言った。


「あなた。水桶のことも、教えてください」


 源太は妻を見た。


「水桶?」


「私、あなたがいつもどこで休んでいたのか知りません。無理して一気に運んで、腰が痛くなります」


 源太は少し気まずそうにした。


「……井戸から戻る時は、門の手前で一度置け。あそこは平らだ」


「はい」


「ただ、置く場所を少し右にしろ。左だと太吉が走ってくる時に蹴る」


「俺、走らない!」


「走りたそうな顔をしている」


 太吉が頬を膨らませた。


 家の中に、小さな笑いが起きた。


 源太はゆっくり柱から手を離した。


 その体が少し揺れる。


 勘助は反射的に支えようとした。


 しかし、弥平が袖を引いた。


「山本」


 短い声。


 勘助は止まった。


 源太は自分で座った。


 どすん、と少し乱れた座り方だったが、倒れはしなかった。


 太吉が手を出しかけて、こちらも母に止められた。


 源太は座ったまま、悔しそうに息を吐いた。


「まだ、立てんな」


 誰もすぐには慰めなかった。


 それがよかった。


 源太は続けた。


「だが……座っていても、教えることはあるか」


 太吉が大きく頷いた。


「いっぱいある!」


「そうか」


 源太は目を伏せた。


「なら、今日は薪の束を作るところから教える」


「うん!」


「重いのを持つなよ」


「父ちゃんが決めて」


「ああ」


 太吉の母が深く頭を下げた。


 だが、その礼は昨日までの丁寧で距離のある礼とは少し違っていた。


 家の中のことを、家の中で少し動かせた。


 それを見届けた者への礼だった。


 勘助は頭を下げ返した。


「我らは、これで」


 源太が顔を上げる。


「山本殿」


 初めて、殿と呼ばれた。


 勘助は少し驚いた。


「はい」


「百姓の暮らしは分からぬと言ったな」


「はい」


「その通りだ。分かった顔をされるのは腹が立つ」


「はい」


「だが、分からぬと言って黙って聞いたことは、悪くなかった」


 源太は照れくさそうに顔を背けた。


「礼を言う」


 勘助は深く頭を下げた。


「こちらこそ、見せていただきました」


「何を」


「家の中で、人が立ち方を変えるところを」


 源太は少し苦笑した。


「妙なことを言う」


「よく言われます」


 弥平が横で笑う。


「本当によく言われます」


 帰り道、弥平は何度も息を吐いていた。


「危なかったな」


「源太殿が倒れそうだった時か」


「それもだけど、お前が支えに行きそうだったところ」


「行きかけた」


「行ってたら、源太さん、自分で座れなかった」


「そうだな」


「俺、ちゃんと止めたぞ」


「助かった」


 弥平は少し胸を張った。


「車輪止め、二度目だな」


「頼りになる」


「やめろ。照れる」


 少し歩いてから、弥平は静かに言った。


「太吉、いいこと言ったな」


「はい」


「父ちゃんが立つなら、俺が薪を持つ場所を教えて、か」


「外からは言えない言葉だった」


「家族だから言えたんだな」


「そうだと思う」


 弥平は空を見た。


「俺たちができるのは、全部じゃないんだな」


「はい」


「でも、何もできないわけじゃない」


「はい」


「その間か」


 弥平の言葉に、勘助は頷いた。


「その間だ」


 鹿島へ戻ると、卜伝は庭で待っていた。


 今日も、何を見た、と問う目だった。


 勘助は頭を下げた。


「太吉の父が立つところを見ました」


「立てたか」


「足では、まだ立てませぬでした」


「では」


「家の中で、役目として立ちました」


 卜伝は黙って続きを促す。


「拙者は止めようとしました。怪我をしているなら寝ているべきだと。それは間違いではありません。ですが、源太殿には立ちたい理由がありました。家の荷が妻と子へ移っていることが耐えられなかったのです」


「それで」


「太吉殿が言いました。父が立つなら、自分が薪を持つ場所を教えてほしい、と。そこから、家の中で役目が組み直されました」


「お前は何をした」


 勘助は少し考えた。


「最初に少し聞きました。途中で言いすぎそうになり、弥平殿に止められました。最後は、家族の会話を見ていました」


「よい」


 卜伝は短く言った。


「家の中の荷は、家の中で動く。外から来た者が全部背負えば、家は壊れる」


「はい」


「だが、外の者がいるから動くこともある」


「はい」


「その間合いを見ろ」


「はい」


 卜伝は弥平へ視線を移す。


「弥平」


「はい」


「今日も車輪止めか」


「はい。山本が源太さんを支えに行きそうだったので止めました」


「なぜ止めた」


「源太さんが自分で座るところだったからです。そこで支えたら、たぶん源太さんがまた悔しくなると思って」


 卜伝は頷いた。


「よい」


 弥平は少しだけ拳を握った。


 卜伝は最後に言った。


「人を助けるとは、手を出すことだけではない。出した手を止めることもある」


 勘助は深く頭を下げた。


「はい」


 その夜、勘助は紙束を開いた。


『太吉の父、源太殿。怪我をしてなお立とうとする。止めるのは正しいが、立ちたい理由を見よ。家の荷が妻子へ移る痛み。寝ていることの恥。家の主としての誇り』


 筆を進める。


『太吉、父が立つなら自分が薪を持つ場所を教えてほしいと言う。外からの正論ではなく、家族の言葉で役目が動く。足で立てずとも、教える者として立つことがある』


 さらに書く。


『助けるとは、手を出すことだけではない。出した手を止めることもある。弥平、また車輪止めとなる』


 書き終えると、勘助は少しだけ笑った。


 弥平の車輪止めは、しばらく紙束に増えていきそうだ。


 だが、それは大事な記録だった。


 自分はすぐ手を出したくなる。


 正しいと思えば口を出したくなる。


 倒れそうな人がいれば支えたくなる。


 だが、支えればよいとは限らない。


 自分で座ること。


 自分で立ち方を変えること。


 それを奪ってはいけない時がある。


 鹿島の外は、本当に難しい。


 けれど、今日も一つ見えた。


 人が立つとは、足だけの話ではない。


 役目で立つこともある。


 言葉で立つこともある。


 家族の前で、弱さを認めてなお立つこともある。


 山本勘助は筆を置き、静かに息を吐いた。


 外の世界には、まだ見ていない立ち方がいくつもある。


 それを見落とさぬように。


 そして、見えたからといって奪わぬように。


 勘助は懐の小石をそっと握った。


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