第三十一話 門の外の足跡
門の外へ出る、と聞いた時、山本勘助の胸には妙なざわめきがあった。
鹿島へ来たばかりの頃、門の外は拒まれた場所だった。
雨に濡れ、腹を空かせ、道場の内側から聞こえる木刀の音を聞きながら、ただ待つしかなかった場所。
笑われた場所。
見下された場所。
それでも立つしかなかった場所。
その門の外へ、今度は卜伝の命で出る。
追い払われるのではない。
見るために出る。
その違いが、勘助にはまだ少し不思議だった。
朝の支度が終わったあと、塚原卜伝は勘助と弥平を庭へ呼んだ。
新九郎は少し離れた場所で木刀を磨いている。
安西左馬助は朝の打ち込みを終え、まだ息を整えていた。
庄左は水桶を片づけながら、こちらの様子を静かに見ている。
卜伝は勘助へ言った。
「今日は道を見る」
「道、でございますか」
「そうだ」
「どこの道を」
「鹿島から太吉の村へ向かう道。神宮へ向かう道。荷車の通る道。子供が走る道。犬が勝手に通る道」
弥平が小さく首を傾げた。
「先生、犬の道も見るんですか」
「見る」
「犬も兵法ですか」
「犬は人より正直に近道を選ぶ」
弥平は妙に納得したような、納得していないような顔をした。
「……確かに、犬は近道しますね」
卜伝は勘助を見た。
「山本」
「はい」
「道は何でできている」
勘助は一瞬、答えに詰まった。
土。
石。
草。
踏まれた地面。
そう答えればよいのか。
しかし、卜伝の問いはいつもそれだけでは終わらない。
少し考えて答える。
「人の足で、できております」
卜伝は表情を変えなかった。
「続けろ」
「人が通るから道になります。荷を運ぶ者、神宮へ向かう者、畑へ出る者、子供、老人、犬、荷車。何度も通った跡が道になるのだと思います」
「では、その道を見ろ」
「はい」
「ただし」
卜伝はすぐに続けた。
「すべてを見るな」
勘助は顔を上げた。
「すべてを、でございますか」
「お前は、すべてを見ようとして止まる。今日は歩け。歩きながら見ろ」
「はい」
「弥平」
「はい」
「山本が止まったら、動かせ」
「えっ、俺がですか」
「そうだ」
「山本、動かしていいのか?」
弥平がこちらを見る。
勘助は少し困った。
「優しく頼む」
「分かった。たぶん」
「たぶんか」
「山本、考え始めると石みたいになるからな」
新九郎が少し笑った。
「石ならまだ蹴れる。山本は時々、根が生える」
「新九郎殿、それはどういう意味で」
「そのままだ」
安西が低く言った。
「根が生えた者は、戦場で踏まれる」
弥平が肩をすくめる。
「安西さんが言うと急に怖い」
庄左が水桶を置き、近づいてきた。
「先生」
「何だ」
「途中まで私も参ります」
卜伝は庄左を見た。
「なぜ」
「山本は道を見すぎて迷います。弥平は道の上のものをよく見ますが、見たものを言葉にするのは苦手です。私が少し整理します」
「自分は考えすぎるがな」
「はい。だから、私も見る稽古になります」
卜伝は短く頷いた。
「行け」
こうして、勘助、弥平、庄左の三人は鹿島の門を出た。
木刀は持つ。
ただし、振るためではない。
卜伝は何も言わなかったが、先日の浪人崩れの一件がある。外には、道場の庭にはない危うさがある。
門を出ると、朝の空気が少し冷たかった。
道場の内側とは違う匂いがする。
土。
草。
人の暮らし。
遠くで牛の鳴く声がした。
弥平は箒を持っていないのに、なぜか手が落ち着かないようだった。
「弥平殿、箒がないと手持ち無沙汰か」
「何で分かるんだよ」
「見えた」
「また見てる」
「今日は道を見る日だが、弥平殿も道に含まれるかと思って」
「含めるな」
庄左が静かに言った。
「人も道の一部だ」
「庄左さんまで」
「実際、弥平が歩く場所で山本の視線が変わる」
弥平は少しだけ胸を張った。
「俺、道の一部か」
「そこで喜ぶのか」
勘助が言うと、弥平は笑った。
「何でも稽古になるなら、何でも喜んだ方が得だろ」
「それはよい考えかもしれぬ」
三人はまず、神宮へ向かう道を歩いた。
道幅は広くはないが、人がよく通るため、中央の土は踏み固められている。
左右には草が生え、ところどころに石が顔を出している。
雨が降れば水が流れるらしく、道の端に細い溝が自然にできていた。
勘助はすぐに足を止めた。
荷車ならここで傾く。
雨の日には、この溝に車輪が取られる。
老人は中央を歩くだろうか。
子供は草の端を走るか。
武士なら、泥を避けて石の上を踏むか。
「山本」
弥平が声をかける。
「止まってる」
「すまぬ」
「先生に言われたばかりだぞ。歩きながら見ろって」
「はい」
「返事が先生に怒られた時の返事になってる」
「そうか」
庄左が少し後ろから言った。
「今日は、足跡だけを見ることにしよう」
「足跡だけ?」
勘助が振り返る。
庄左は道を指した。
「道幅、荷車、雨、水、石、草、全部を同時に見ると止まる。今日は足跡だけを見る日と決める。他のものは、気づいても置く」
「置く」
「そうだ。見なかったことにするのではない。今は置く」
勘助は頷いた。
「分かりました」
「分かったと思うな」
弥平がすかさず言った。
勘助と庄左が同時に弥平を見た。
弥平は照れたように笑った。
「言ってみたかった」
「卜伝殿のようだった」
「本当か?」
「声の軽さ以外は」
「そこ大事じゃないか」
少し笑いが起きた。
勘助は足元へ視線を戻す。
足跡だけを見る。
そう決めると、不思議と道が少し静かになった。
まず、大きな草鞋の跡。
深い。
荷を背負った男だろうか。
踵が重く沈み、右足の跡が少し外へ逃げている。
腰に重さが偏っていたのかもしれない。
その横に、小さな足跡。
子供のものだ。
まっすぐではない。
道の端へ寄り、また中央へ戻り、途中で何かを踏み越えている。
遊びながら歩いたのだろう。
さらに、細い足跡。
女のものか。
歩幅が短く、しかし乱れがない。
水桶か、小さな荷を持っていたのかもしれない。
勘助は思わず呟いた。
「道に、人が残っている」
弥平が近づいて足元を覗く。
「俺には、草鞋の跡にしか見えないけど」
「草鞋の跡だ」
「だよな」
「だが、深さが違う。歩幅が違う。右へ逃げる足と、まっすぐ置かれた足がある」
庄左が頷いた。
「足跡は嘘をつきにくい」
「顔よりも、ですか」
「顔は作れる。足は作りにくい」
弥平が自分の足元を見た。
「俺の足も何か言ってるのかな」
「言っている」
勘助が即答すると、弥平は少し身構えた。
「何て?」
「今は、話に入りたいが邪魔したくない足」
「何だよそれ」
庄左が小さく笑った。
「当たっている」
「庄左さんまで」
三人は歩き続けた。
途中、道が二つに分かれていた。
広い道は神宮へ続く。
細い畦道は畑の方へ抜けている。
勘助は足跡を見た。
大人の足は広い道へ。
子供の足跡は畦道へ。
犬らしき足跡も畦道へ向かっている。
弥平が言った。
「犬の近道だ」
「太吉殿も使いそうだ」
「確かに。子供はこういう道好きだよな」
庄左が畦道を見た。
「荷を持っては通れない。だが、知らせを走らせるなら早い」
勘助は頷いた。
「戦なら、使える道と使えない道が人によって違う」
「そうだな」
「兵を送るには狭い。だが、子供が知らせに走るなら早い。犬も通るなら、村の者は知っている道でしょう」
弥平が少し顔をしかめた。
「でも、雨の日は滑りそうだな」
「それも見る必要がある」
「今日は足跡だけだぞ」
弥平に言われ、勘助は苦笑した。
「そうだった」
「俺、山本を動かす役、意外と向いてるかもしれない」
「助かる」
さらに進むと、道の中央に荷車の車輪跡があった。
深い二本の筋。
片側が少し沈んでいる。
勘助は足を止めかけ、弥平に肩を叩かれた。
「歩きながら」
「はい」
歩きながら、車輪跡を見る。
右の車輪が深い。
荷が片側に偏っていたのか。
あるいは、道が右へ傾いているのか。
その横に、男の足跡が何度も重なっている。
荷車を押したのだろう。
前から引く者だけでは足りず、横から押した者がいる。
その足跡は乱れている。
力を入れた跡だ。
「ここで荷車が詰まったのか」
勘助が言うと、弥平が道の先を見た。
「あそこ、少し坂になってる。右がぬかるんでるから、車輪が取られたんじゃないか」
「弥平殿もよく見ている」
「水場と同じだろ。濡れる場所は足が嫌がる」
庄左が頷いた。
「弥平の感覚は道に強いな」
弥平はまた照れた。
「今日はやけに褒められるな。怖い」
「褒められるのも稽古だ」
勘助が言うと、弥平は笑った。
「便利な言葉だなあ」
神宮近くまで来たところで、三人は少し休んだ。
休む場所は、道端の大きな石だった。
そこには多くの足跡が集まっていた。
老人の短い歩幅。
荷を下ろした跡。
杖の跡。
犬が座ったような跡まである。
弥平が石に腰掛ける。
「ここ、みんな休むんだな」
「高さがよい」
勘助は石を見る。
荷を背負った者が、一度腰を預けるのにちょうどいい。
低すぎず、高すぎない。
近くに日陰もある。
少し離れたところに水の気配もある。
「この石を動かしたら、多くの者が困るな」
「石一つで?」
「石一つで」
勘助は卜伝から渡された小石を思い出した。
石一つの置き場所で、人が死ぬこともある。
石一つで、人が休むこともある。
庄左が言った。
「道の石は、置かれているのではなく、選ばれて残ったものかもしれない」
「選ばれて?」
「邪魔な石は誰かがどける。役に立つ石は誰かが残す。そうして、道に必要なものだけが残ることもある」
弥平は石をぽんぽんと叩いた。
「じゃあ、この石は役に立つ石か」
「そうだな」
「俺もそういう石になりたい」
勘助と庄左が同時に弥平を見た。
弥平は慌てた。
「いや、深い意味はないぞ。ただ、誰かが休む時に役に立つならいいなって」
勘助は静かに言った。
「弥平殿は、すでにそういうところがある」
「また真顔で言う」
「本当のことだ」
「やめろ。石なのに照れるだろ」
庄左が珍しく声を出して笑った。
三人は神宮で用を済ませた後、太吉の村へ向かう道へ出た。
こちらの道は、神宮への道よりも生活の匂いが強かった。
畑へ向かう足跡。
水を汲む足跡。
荷車の跡。
子供の小さな足跡。
そして、先日の騒ぎの名残。
荷車が止まった場所には、まだ土の乱れが残っていた。
浪人崩れの足跡はもう薄れていたが、畑の端には滑った跡がうっすら残っている。
弥平がそこを見て言った。
「ここで芋が働いた」
「芋だけではない」
「分かってる。でも、芋も働いた」
庄左が真面目に頷いた。
「足元を崩すものは侮れない」
「ほら、庄左さんも言った」
弥平は嬉しそうだった。
勘助は荷車の車輪跡を見た。
村人たちは、勘助たちが伝えた通り、荷車を少し手前の広い場所で止めるようにしたらしい。
新しい車輪跡が、道の広い場所に残っている。
分かれ道の狭いところでは、以前より跡が少ない。
「変わっている」
「何が?」
「荷車の止める場所だ。村人たちが、少し変えた」
弥平の顔が明るくなった。
「じゃあ、俺たちの言ったこと、聞いてくれたんだ」
「少しは」
勘助は慎重に言った。
「全部ではないかもしれない。だが、少し変わった」
庄左が言う。
「それで十分なこともある」
「十分?」
「一度に全部変えようとすれば反発される。少し変わり、楽だと分かれば、次も変わる」
勘助は頷いた。
提案にも間合いがある。
まだ学んでいないが、これから学ぶことになるのだろう。
太吉の村へ入る前に、三人は足を止めた。
村の入口には、以前より人の視線があった。
感謝だけではない。
警戒もある。
勘助にはそれが見えた。
村人の一人がこちらを見て、軽く頭を下げる。
だが、すぐに目を逸らした。
弥平が小声で言う。
「何か……歓迎って感じではないな」
「先日の浪人崩れの件がある」
「助けたのに?」
弥平の声には、少し傷ついた響きがあった。
勘助も胸の奥に小さな痛みを覚えた。
だが、鹿島神宮の夜から少しずつ学んでいる。
善意は、相手にとって重荷にもなる。
「助けたからこそ、怖いのかもしれぬ」
「どういうことだよ」
「我らが関わったことで、浪人たちがまた来るかもしれない。鹿島の名が出れば、武士同士の話になるかもしれない。村の者にとっては、感謝だけでは済まないのだと思う」
弥平は黙った。
庄左が静かに言った。
「助けた者が、相手の明日まで背負えるとは限らない」
その言葉は重かった。
勘助は村の入口の足跡を見た。
多くの足が、こちらの道で一度止まっている。
村人たちは外から来る者を警戒している。
浪人の一件で、入口に立つ時間が増えたのだろう。
足跡は嘘をつきにくい。
村は、まだ怖がっている。
「今日は、村へ深く入らぬ方がよいかもしれませぬ」
勘助が言うと、弥平は驚いた。
「太吉に会わないのか」
「会いたい。だが、こちらが会いたいからといって、村が受け入れるとは限らない」
「……そうか」
弥平は少し寂しそうだった。
その時、村の奥から声がした。
「勘助おじさん!」
太吉だった。
太吉は相変わらず元気に走ってくる。
ただし、畑の端で一度止まった。
弥平が教えたのを覚えているのだろう。
「走らないって言われた!」
遠くからそう叫ぶ。
弥平の顔がぱっと明るくなった。
「覚えてるじゃないか」
太吉は今度はゆっくり歩いてきた。
「弥平兄ちゃんも来た!」
「おう。足元見てるか」
「見てる!」
太吉は得意げに足元を指した。
だが、その後ろから太吉の母が少し慌てた様子で出てきた。
勘助たちへ丁寧に頭を下げる。
「先日は、本当にありがとうございました」
言葉は丁寧だった。
だが、距離があった。
勘助はそれを感じた。
弥平も感じたらしく、少し表情を曇らせる。
太吉の母は続けた。
「主人も、薬が効いたようで少し楽になりました。けれど……」
そこで言葉を切った。
勘助は頭を下げた。
「ご迷惑になっているなら、今日はこれで戻ります」
太吉が驚く。
「え、帰るの?」
「太吉殿、村の方々にも都合があります」
「でも」
太吉の母は困った顔をした。
「いえ、迷惑などでは。ただ、またあの浪人たちが来たらと思うと、村の者たちも落ち着かなくて」
「当然です」
勘助は静かに言った。
「我らが関わったことで、かえって不安を増やしたところもあるかと思います」
太吉の母は目を伏せた。
否定しなかった。
弥平が少しだけ辛そうな顔をする。
勘助はその様子を見ながら、言葉を選んだ。
「今日は、道を見に来ただけです。村の中へ勝手に入るつもりはありません。荷車の跡が少し変わっていたので、それを見られただけでも十分です」
太吉の母が顔を上げた。
「荷車の跡を?」
「はい。分かれ道の手前で止めるように変えたのですね」
「あ……はい。村の者が、あの時のことを思い出して。狭いところで止めると危ないと」
少しだけ、母の声が柔らかくなった。
「助かっております。あれから荷を動かすのが少し楽になりました」
弥平の顔が明るくなる。
「本当ですか」
「はい。特に車輪止めのことを教えていただいたのが」
弥平は照れたように笑った。
「よかった……」
だが、すぐに真面目な顔になった。
「でも、不安なら、俺たち勝手に入らないです。外から見るだけにします」
太吉の母は少し驚いた顔をした。
そして、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
勘助は、その礼を見て胸が痛んだ。
感謝されている。
だが、完全に受け入れられているわけではない。
それが現実だ。
助けたから信頼される。
そんな簡単な話ではない。
むしろ、助けたことで相手に新しい不安を背負わせることもある。
善意も荷になる。
勘助はそれを、道の足跡よりはっきり見た。
太吉は不満そうだった。
「勘助おじさん、家に来ないの?」
「今日はやめておく」
「父ちゃん、会いたがってた」
「では、次に村の方々がよいと言った時に」
「村の方々って誰?」
太吉の問いは素直だった。
勘助は少し困った。
庄左が横から静かに言った。
「太吉の家だけでなく、村全体ということだ」
「村全体?」
「誰かが不安になるなら、その不安も見なければならない」
太吉はまだ完全には分かっていないようだった。
だが、母の顔を見て、何かを察したのか小さく頷いた。
「じゃあ、今日は入口まで」
「はい」
「また来る?」
「道を見る必要があれば」
「じゃあ、道をいっぱい残しておく」
「道は残すものではない。使うものだ」
「難しいなあ」
太吉は頬を膨らませた。
弥平が笑った。
「太吉、足跡は残るぞ。だから、転ばないように歩け」
「うん!」
三人は村の入口で太吉たちと別れた。
帰り道、弥平はしばらく黙っていた。
いつものように軽口を言わない。
勘助も無理に話しかけなかった。
庄左も黙っている。
やがて、弥平がぽつりと言った。
「助けたのに、怖がられるんだな」
「はい」
「ちょっと、きついな」
「そうだな」
「俺、感謝されたいって思ってたのかな」
弥平は自分で驚いたように言った。
「いや、別に褒めてほしくて助けたわけじゃない。でも、あんなふうに距離を取られると、何か……胸のあたりが変になる」
勘助は弥平を見た。
その顔は、いつもの明るさの奥に痛みを隠していた。
「善意も、相手にとっては荷になるのかもしれぬ」
「荷か」
「はい」
「じゃあ、俺たちはまた荷を増やしたのかな」
弥平の声は沈んでいた。
庄左が静かに言った。
「増やしたものもある。減らしたものもある」
「減らしたもの?」
「荷車の危うさ。薪の背負い方。浪人から荷を奪われる危険。その一部は減らした」
「でも不安は増やした」
「そうだ」
庄左は続ける。
「だから、助けた後も見る必要がある。助けて終わりではない」
勘助は頷いた。
それは軍師にも通じる。
城を落として終わりではない。
村を守って終わりではない。
荷を取り戻して終わりではない。
その後に何が増え、何が減ったかを見る。
それを見なければ、善意も策も独りよがりになる。
「弥平殿」
「何」
「今日の痛みも、書いておきます」
「俺の?」
「はい」
「恥ずかしいからやめろ」
「では、名は書かぬ」
「そういう問題じゃない」
弥平は少し笑った。
笑えたなら、少しはよかった。
鹿島の門へ戻る頃、日が傾き始めていた。
門の前には卜伝がいた。
まるで、戻る時間を知っていたように。
「何を見た」
やはり第一声はそれだった。
勘助は頭を下げた。
「足跡を見ました」
「続けろ」
「荷を持つ者、子供、犬、荷車、休む石。道は人の暮らしが踏み固めたものだと見ました」
「それから」
勘助は少し息を吸った。
「助けた村の警戒を見ました」
弥平が横で顔を伏せる。
卜伝は静かに聞いている。
「村の方々は感謝しておりました。ですが、同時に不安もありました。我らが関わることで、浪人の逆恨みや武士同士の揉め事に巻き込まれるのではと」
「それで」
「助けたからといって、信頼されるわけではないと知りました。善意も相手にとっては荷になることがあります」
卜伝は弥平を見た。
「弥平」
「はい」
「お前は何を見た」
弥平は少し迷った。
だが、正直に言った。
「傷つきました」
勘助は弥平を見た。
弥平は続ける。
「助けたのに、距離を取られるのがきつかったです。感謝されたいと思っていたつもりはないのに、どこかで思ってたのかもしれません。でも、村の人が怖がるのも分かりました。俺たちは帰れるけど、村の人はそこに残るから」
卜伝は黙っている。
「だから、助けた後も見なきゃいけないんだと思いました」
卜伝は短く言った。
「よい」
弥平は顔を上げた。
卜伝は続ける。
「善意で人を殴る者は多い」
庭の空気が少し変わった。
「助けてやった。正しいことを言ってやった。守ってやった。そう思う者ほど、人の暮らしに土足で上がる」
勘助の胸に刺さった。
自分もそうなりかけていたのではないか。
荷車の置き場。
休み石。
道の改善。
正しいと思えば、すぐ言いたくなる。
だが、相手の暮らしには相手の積み重ねがある。
正しいだけでは通らない。
「山本」
「はい」
「次は、提案の間合いを見ろ」
「提案の間合い」
「人を斬る間合いだけが間合いではない。助ける間合い。黙る間合い。口を出す間合い。引く間合い。踏み込む間合い。それを誤れば、善意も刃になる」
「はい」
「弥平」
「はい」
「掃除も同じだろう」
弥平は少し考え、はっとした顔になった。
「勝手に片づけると怒られる時があります」
「なぜ」
「その人にはその人の置き方があるから……ですか」
「そうだ」
卜伝は頷いた。
「まず、相手がどこで困っているかを見ろ。自分が気になる場所から掃くな」
弥平は深く頷いた。
「はい」
卜伝は最後に庄左を見た。
「庄左」
「はい」
「お前は」
「全部を見ようとする山本を止めました。ですが、私自身も整理しようとして見落としたものがあると思います」
「何を」
「村の不安を、最初からもう少し考えるべきでした」
「そうだな」
「はい」
卜伝は三人を見渡した。
「今日はここまでだ」
そう言うと、屋敷の奥へ戻っていった。
稽古ではない。
しかし、木刀で打たれるより疲れた。
夜、勘助は紙束を開いた。
今日見たものを書く。
『道は人の暮らしが踏み固めた兵法書。足跡を見る。荷を背負う者、子供、犬、荷車、休み石。すべて道に残る』
少し筆を止め、次を書く。
『助けた村は感謝と不安を同時に持つ。助けたから信頼されるわけではない。善意も荷になる。助けた後も見ること』
さらに、卜伝の言葉を書く。
『提案の間合い。助ける間合い。黙る間合い。口を出す間合い。引く間合い。踏み込む間合い。善意も刃になる』
書きながら、太吉の母の丁寧な礼を思い出した。
感謝。
警戒。
距離。
あれもまた、人の足跡だ。
紙には残らない足跡。
勘助は筆を置き、小さく息を吐いた。
鹿島の外は、道場の庭より複雑だった。
木刀で打たれれば痛い。
だが、人の不安を見誤る痛みは、また別のところに刺さる。
それでも、見なければならない。
軍師になる道は、戦場だけにあるのではない。
村の入口で頭を下げる母の目にもある。
助けたのに傷つく弥平の胸にもある。
走りたいのにゆっくり歩いた太吉の足にもある。
山本勘助は紙束を閉じた。
明日もまた、門の外を見ることになるだろう。
今度は、善意の置き場所を間違えないために。




