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『醜いから仕官不要と追放された俺、武田信玄だけが「その目は天下を見ている」と言った 〜隻眼の軍師・山本勘助、見下した名門武家を戦場でざまぁする〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第三十話 剣聖の言葉――お前は戦場で誰を見る

 その朝、鹿島の庭は妙に静かだった。


 稽古の音がないわけではない。


 弥平はいつものように箒を動かしているし、新九郎は庭の端で足跡を確かめている。安西左馬助は木刀の手入れをしながら、刃ではない木の傷を見ている。庄左は水桶の位置を直し、通り道を塞がぬよう少しだけずらした。


 皆、いつも通りに動いている。


 だが、山本勘助には、その一つ一つが前より重く見えた。


 弥平の掃除は、ただの掃除ではない。


 人が転ぶ前に先回りする兵法だ。


 新九郎の足跡は、ただの踏み込みの跡ではない。


 強さの端と、帰る道の跡だ。


 安西の木刀の傷は、ただの稽古道具の傷ではない。


 背負うものを先に乗せすぎた時、人がどう重くなるかを示す跡だ。


 庄左が水桶を少しずらす、その何気ない動きも、道を塞がないという一手だった。


 鹿島へ来た頃なら、勘助はその多くを見落としていただろう。


 いや、見ていたとしても、意味を取り違えていた。


 掃除を雑用と見た。


 水桶をただの道具と見た。


 飯をただ腹を満たすものと見た。


 木刀を強くなるためのものと見た。


 だが今は違う。


 鹿島の庭には、人がいる。


 強い者も、弱い者も。


 焦る者も、迷う者も。


 背負う者も、逃げたい者も。


 転びかける者も、誰かが転ぶ前に道を整える者も。


 それらを見ずに、戦など語れない。


 そう思うようになっていた。


 もっとも、そう思うようになったからといって、勘助が急に強くなったわけではない。


 肩の傷はまだ少し痛む。


 片目の間合いは相変わらず狂う。


 踏み込みは遅く、木刀の先も揺れる。


 新九郎に打たれれば膝が沈み、安西に押されれば胸の奥が固くなり、庄左に間を外されれば足が迷う。


 弥平に「山本、そこ水桶の邪魔」と注意されることすらある。


 変わったのは、勝てるようになったことではない。


 見えなかったものが、少しだけ見えるようになったことだった。


 その日、朝稽古が始まる前に、塚原卜伝が庭へ出てきた。


 門弟たちは自然と姿勢を正す。


 卜伝は木刀を持っていなかった。


 それだけで、今日の稽古がいつもとは違うものになると分かった。


「山本」


「はい」


 勘助は一歩前へ出た。


 肩の布がわずかに引きつる。


 卜伝はその肩を見たが、何も言わなかった。


「今日は問う」


「はい」


「お前は戦場で誰を見る」


 短い問いだった。


 だが、勘助の腹の奥に深く落ちた。


 戦場で誰を見る。


 以前の自分なら、すぐに答えただろう。


 敵将。


 敵兵。


 味方の兵数。


 地形。


 水。


 兵糧。


 城の弱点。


 道の詰まり。


 風向き。


 それらは大事だ。


 今でもそう思う。


 だが、今それだけを答えれば、きっと足りない。


 卜伝はそれを見越して問うている。


 勘助は黙った。


 庭の空気が静まる。


 新九郎がこちらを見ている。


 安西も、庄左も、弥平も。


 見られている。


 かつてなら、その視線で体が右へ逃げた。


 今も逃げそうになる。


 だが、逃げたことに気づける。


 勘助は息を吐いた。


「敵を見ます」


 まず、そう答えた。


 卜伝は黙っている。


「敵将、敵兵、地形、兵糧、道、水、城の弱点を見ます」


「それから」


「味方を見ます」


「味方とは誰だ」


「兵です。足の速い者、遅い者。荷を背負う者。怪我をした者。腹を空かせた者。怖がる者。前へ出たがる者。戻りたがる者」


 言いながら、太吉の薪を思い出した。


 荷の重さ。


 坂道。


 休む場所。


 水場。


「兵の背に何が乗っているかを見ます。槍か、米か、怪我人か、恐れか、家族か」


 卜伝の目は動かない。


 勘助は続ける。


「村を見ます」


 その言葉に、弥平がわずかに顔を上げた。


「村の道、家の戸、火、井戸、老人、子供、病人、犬を見ます。村を地形としてだけ扱えば、策は浅くなります」


 鹿島神宮で書いた言葉が胸に浮かぶ。


 村を地形として扱うな。人がいる。


「戦が城だけで起こるのではないことを見ます。家の火にも及ぶことを見ます」


 卜伝はまだ何も言わない。


 安西が静かに聞いている。


 勘助は少しだけ声を低くした。


「強い者も見ます」


「強い者とは」


「新九郎殿のように、前へ出る者。安西殿のように、重さを背負う者。自分は強くあらねばならぬと、弱さの置き場所を失う者」


 安西の眉がほんの少し動いた。


 だが、怒りではなかった。


「強い者が痛まぬわけではないと知りました。強さの中で痛む者を見ます」


 次に、庄左を見た。


「考えすぎる者も見ます。見えすぎて遅れる者。迷いを言葉で包みすぎる者。けれど、静かに距離を測る者」


 庄左は目を伏せた。


 口元がわずかに緩んでいた。


「弥平殿のように、戦う前に人を転ばせない者も見ます。掃除をし、水桶を置き、木刀の柄を揃え、誰かが失敗する前に先回りする者」


 弥平は顔を赤くした。


「俺まで入るのかよ……」


 小さく呟いたが、声には照れがあった。


 勘助は続けた。


「逃げたい者を見ます。逃げることが悪いのではなく、どう逃がすかを見ます。走れば転ぶ者、下がらせねば斬られる者、下がったから守れる者を見ます」


 太吉の顔が浮かぶ。


 畑の端を歩く村人たち。


 荷車。


 芋。


 刃。


 肩の傷。


「そして、立とうとする者を見ます」


 卜伝が初めて少し目を細めた。


「誰が立とうとする」


「誰でもです。強い者も、弱い者も、子供も、百姓も、武士も。太吉殿は薪を背負って立とうとしました。弥平殿は掃除で立とうとしました。安西殿は家の名を背負って立とうとしています。新九郎殿は迷いを見ながら踏み込もうとしています」


 勘助は最後に、自分の足元を見た。


「拙者も、醜さや片目や痛む足を消すのではなく、背負って立とうとしています」


 庭は静かだった。


 誰も笑わない。


 卜伝はしばらく勘助を見ていた。


 そして、ゆっくり言った。


「それで足りぬ」


 勘助の胸が、少し沈んだ。


 これでも足りない。


 だが、不思議と折れはしなかった。


 卜伝がそう言うなら、足りないのだ。


 なら、何が足りない。


 勘助は目を閉じかけて、やめた。


 目を閉じるな。


 見ろ。


 戦場で誰を見る。


 敵。


 味方。


 村。


 強い者。


 弱い者。


 逃げたい者。


 立とうとする者。


 それで足りないなら。


 勘助は息を吸った。


「見えぬ者を見ようとします」


 卜伝の目が、少しだけ動いた。


「続けろ」


「戦場には、目の前にいない者もいます。家で待つ者。飯を炊く者。水を運ぶ者。怪我人を受け入れる者。死んだ後に泣く者。戦が終わった後、焼け跡に戻る者」


 言葉が腹の奥から出てきた。


「戦場に立つ兵だけを見ても足りませぬ。兵の後ろにある家、村、道、火、腹、恐れ、恨み、次の戦まで見ようとします」


 勘助は卜伝を見た。


「それでも、きっと見落とします」


「なぜ」


「拙者の目は欠けております。たとえ両目があっても、人がすべてを見ることはできませぬ。だから、見えぬものがあることを忘れずに見ます」


 庭の空気が、さらに静まった。


 勘助は深く頭を下げた。


「戦場で誰を見るか。拙者は、見える者だけでなく、見えぬ者を見ようといたします」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 弥平の箒の先が土に触れたまま止まっている。


 新九郎は腕を組まずに立っている。


 安西は木刀を持つ手をわずかに緩めている。


 庄左は、考え込むでもなく、ただ静かに勘助を見ていた。


 卜伝はやがて言った。


「少し見えたな」


 それは、褒め言葉だった。


 たぶん。


 だが、卜伝の言葉にはいつも刃が混じる。


 案の定、続きがあった。


「だが、見えぬ者を見ようとする者は、見える者を落とす」


「はい」


「遠くを見すぎれば、足元を忘れる」


「はい」


「人を思いすぎれば、勝つことを忘れる」


「はい」


「勝つことを忘れる軍師は、優しいだけの愚か者だ」


 厳しい言葉だった。


 勘助は深く頭を下げる。


「はい」


「だが、人を見ぬ軍師は、ただの殺し屋だ」


 その言葉に、全員の背筋が伸びた。


 卜伝は続ける。


「山本。お前は優しさに逃げるな。臆病を慎重と呼ぶな。勝てぬ言い訳に民を使うな」


「はい」


「同時に、勝ちに酔うな。人を駒と呼ぶな。荷を軽く見るな。村を地形として扱うな」


「はい」


「その間に立て」


 卜伝は静かに言った。


「軍師とは、その間に立つ者だ」


 勘助は声が出なかった。


 その間。


 勝ちと人。


 強さと痛み。


 前へ出る足と帰る道。


 逃がすことと止めること。


 見えるものと見えないもの。


 その間に立つ。


 そこは、きっとどちらからも責められる場所だ。


 強く攻めろと言う者からは臆病者と呼ばれる。


 人を守れと言う者からは冷たいと言われる。


 勝てば、犠牲を問われる。


 負ければ、優しさを笑われる。


 それでも立つ。


 軍師とは、その間に立つ者。


「はい」


 勘助はようやく返事をした。


 卜伝は頷いた。


「では、今日の稽古だ」


 弥平が思わず声を漏らした。


「この流れで普通に稽古なんですね」


 卜伝は弥平を見た。


「問いだけで強くなるなら、木刀はいらぬ」


「はい……」


 新九郎が小さく笑う。


「弥平、構えろ」


「え、俺ですか?」


「お前も見えぬものを見るのだろう」


「俺はまだ掃き残しくらいで」


「それも大事だ」


 安西が低く言った。


「弥平、掃き残しを侮るな」


「安西さんまで……」


 庭に少しだけ笑いが起きた。


 その笑いの中で、稽古が始まった。


 新九郎が勘助の前に立つ。


「山本」


「はい」


「今の答え、悪くなかった」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。まだ俺の打ち込みからは逃げられん」


「それは困る」


「困れ。そして見ろ」


 新九郎の踏み込み。


 以前より鋭く、そして帰る道がある足。


 勘助はそれを見た。


 正面から受ければ潰れる。


 横へ逃げすぎれば追われる。


 なら、次に生きる場所へ体を置く。


 新九郎の木刀が迫る。


 速い。


 怖い。


 だが、刃ではない。


 木刀だ。


 しかし油断すれば死ぬつもりで見る。


 勘助は半歩ずれた。


 木刀が肩の近くを通る。


 傷が引きつる。


 痛い。


 だが、倒れない。


 新九郎が木刀を止める。


「少し遅い」


「はい」


「だが、見ていた」


「はい」


「もう一度」


 次に安西と組む。


 重い踏み込み。


 安西は言う。


「山本。弱い者を見るなら、強い者から目を逸らすな」


「はい」


「逃がすなら、止める手も持て」


「はい」


 安西が押す。


 勘助は足場を見る。


 相手の重さを見る。


 正面では止められない。


 なら、重さの向きをずらす。


 安西の木刀が勘助の木刀を沈める。


 手が痺れる。


 だが、以前より少しだけ、どこで沈むかが見えた。


 安西が木刀を下ろす。


「まだ弱い」


「はい」


「だが、逃げただけではない」


「はい」


「次」


 庄左との稽古では、距離を測った。


 近いか遠いか。


 見えるか見えないか。


 庄左は言った。


「見えぬ者を見ると言ったな」


「はい」


「見えないものを作り出すなよ」


「難しい」


「見えないものがあると知ることと、見えた気になることは違う」


「はい」


「俺もよく間違える」


 勘助は少し笑った。


「庄左殿でも」


「俺だからだ」


 二人は木刀を合わせた。


 音は小さい。


 だが、そこに間がある。


 見えるもの。


 見えないもの。


 そして、見えたつもりになる危うさ。


 弥平とは、掃除をした。


 稽古の終わりに、弥平は箒を勘助へ渡した。


「見えぬ者を見る前に、まず見える落ち葉を見ろって先生が」


「確かに」


「山本、そこ踏むな。昨日、誰かが水こぼしてる」


「見えなかった」


「見えぬ者の前に、見える水だな」


「その通りだ」


 二人で笑いながら、庭を掃く。


 木刀の稽古の後に掃除をする。


 それがもう、不思議ではなくなっていた。


 夕方、卜伝は勘助をもう一度呼んだ。


 庭には西日が差している。


 門弟たちは片づけをしていた。


 卜伝は鹿島の外へ続く道を見ていた。


「山本」


「はい」


「次は、鹿島の外を見る」


 勘助は顔を上げた。


「外、でございますか」


「そうだ」


「道場の外へ」


「道場の中で見えるものには限りがある」


 卜伝は静かに言った。


「庭には庭の戦がある。だが、外には外の戦がある。百姓の荷、浪人の欲、武家の面子、村の恐れ、国境の不穏。木刀だけでは済まぬものがある」


 勘助の胸が少しざわついた。


 浪人崩れの刀。


 太吉の村。


 荷車。


 あれは、外のほんの入口だったのだろう。


「お前は、まだ鹿島の門の内にいる」


「はい」


「だが、軍師になる者は、門の内だけを見ていては足りぬ」


「はい」


「次は外を見る。見て、傷つけ。見て、間違えろ。見て、戻れ」


「戻れ、でございますか」


「戻る場所を持たぬ者は、外で壊れる」


 卜伝の声は低かった。


「鹿島は、お前が戻ってくる場所だ。だが、甘える場所ではない」


 勘助は深く頭を下げた。


「はい」


「明日から、少し外へ出す」


「承知しました」


「承知していると思うな」


「はい」


 卜伝はそれだけ言って、屋敷の奥へ戻っていった。


 勘助はしばらく、鹿島の門の方を見ていた。


 門の外。


 最初、そこは追い出された場所だった。


 雨に濡れ、笑われ、待つしかなかった場所。


 その門をくぐって内側へ入り、今度は内側の遠さを知った。


 そして今、もう一度外を見ることになる。


 ただし、今度は追い出されるのではない。


 見るために出る。


 戻る場所を持って、出る。


 新九郎が隣に来た。


「外へ出されるそうだな」


「はい」


「浮かれるなよ」


「浮かれているように見えるか」


「少し」


「そうか」


 安西も近づいてきた。


「外は、道場より理屈が通らん」


「はい」


「弱い者が必ず守られるわけではない。強い者が必ず正しいわけでもない」


「はい」


「見て怒るな。怒るなら、怒った自分も見ろ」


「承知しました」


「承知していると思うな」


 安西まで言った。


 弥平が笑う。


「みんな先生みたいになってきたな」


 庄左が静かに言った。


「そのうち弥平も言う」


「俺も?」


「明日あたり」


 弥平は少し考え、勘助へ向き直った。


「山本、外でも水桶の置き場を間違えるなよ」


「それは、かなり大事だ」


「だろ?」


 四人の声が、夕方の庭に混じる。


 勘助はその中で、少しだけ息を吐いた。


 ここが戻る場所になりつつある。


 それを感じた。


 夜、勘助は紙束を開いた。


 今日の問いを書く。


『戦場で誰を見るか。敵、味方、村、強い者、弱い者、逃げたい者、立とうとする者。見えぬ者を見ようとすること。ただし、遠くを見すぎて足元を忘れるな。勝ちと人の間に立つこと』


 筆を止める。


 勝ちと人の間に立つ。


 軍師とは、その間に立つ者。


 それは重い言葉だった。


 勘助は懐から、卜伝に渡された小石を取り出した。


 一手の石。


 手のひらに置く。


 小さい。


 だが、重い。


 この石をどこへ置くかで、人が死ぬこともある。


 人が生きることもある。


 その重さを忘れないため、勘助は紙束のそばに小石を置いた。


 外を見る。


 鹿島の外。


 そこには、道場の庭より複雑な人の足跡があるのだろう。


 武士の面子。


 百姓の暮らし。


 浪人の欲。


 村の不安。


 小さな争い。


 そして、いつか出会うであろう大きな戦。


 山本勘助は、まだ何者でもない。


 剣豪ではない。


 軍師にも、まだ遠い。


 だが、この鹿島の庭で、彼は少しだけ見ることを学んだ。


 見えぬ者を見ようとすることを。


 勝ちと人の間に立つことを。


 その重さを腹に置き、勘助は静かに目を閉じた。


 明日、門の外へ出る。


 今度は、逃げるためではなく、見るために。


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