第二十六話 迷子の太吉、再び
神宮で夜を明かした翌日の鹿島は、いつもより少しだけ白く見えた。
朝靄のせいではない。
山本勘助の目が、まだ夜の静けさを引きずっていたからかもしれない。
木刀を持てば、いつも通り手が痛んだ。
踏み込めば、左足が熱を持った。
新九郎に打たれれば肩が鳴り、安西の視線を受ければ腹の奥が固くなり、庄左に「今、考えすぎた」と言われれば、何も言い返せなかった。
鹿島神宮で誓いを立てたからといって、剣が急に強くなるわけではない。
片目が澄むわけでもない。
足が軽くなるわけでもない。
顔が変わるわけでもない。
ただ、何かを見た後の目で、同じ庭に立っている。
それだけだった。
だが、その「それだけ」は、案外大きいのかもしれない。
勘助は朝稽古の後、弥平と並んで水桶を運んでいた。
弥平は昨日より少し得意げだった。
掃除が兵法であると、卜伝だけでなく安西にまで認められたのだ。本人は照れ隠しに「俺はただ掃除してただけだ」と何度も言っていたが、その言葉の端々がどこか弾んでいる。
「山本、そこ置くなよ」
「ここか」
「そう。そこに置くと、台所から来るおばさんが足を引っかける」
「昨日も言われた」
「昨日言われたことを今日忘れるのが人間だ」
「卜伝殿の言葉のようだ」
「俺の言葉だよ」
弥平は胸を張ったが、すぐに少し恥ずかしくなったのか、桶を持ち直した。
「いや、半分くらい先生の言葉かもしれない」
「半分は弥平殿だ」
「そう言われると、何か変に緊張するな」
勘助は桶を置く場所を少しずらした。
人の通る道。
水の流れる場所。
足を滑らせる湿り。
昨日より少し見える。
鹿島神宮で、村を地形として扱うな、と紙に書いた。
人がいる、と書いた。
道場の水場にも人がいる。
台所へ急ぐ女衆がいる。
稽古へ向かう門弟がいる。
弥平がいる。
自分がいる。
桶ひとつの置き場所で、人は転ぶ。
小石ひとつの置き場所で、百人が死ぬ。
その二つは、遠いようで近かった。
朝の支度が終わった頃、卜伝が勘助を呼んだ。
「山本」
「はい」
「神宮へ行け」
勘助は一瞬、昨夜のことが続いているのかと思った。
「また参籠でございますか」
「違う」
卜伝は短く言った。
「社家へ届ける文がある。昼までに渡してこい」
「承知しました」
「弥平」
「はい!」
「お前も行け」
「俺もですか」
「道中を見ろ」
「道中……」
弥平は勘助を見た。
「先生、何を見れば」
「自分で見ろ」
「はい……」
弥平は少し肩を落とした。
勘助は思わず口元を緩める。
卜伝がこちらを見る。
「山本」
「はい」
「笑っている暇があれば、お前も見ろ」
「はい」
「神宮へ行く道は、昨夜歩いた道とは違う。昼の道を夜の道と同じに見るな」
「承知しました」
「承知していると思うな」
「はい」
いつもの言葉を受け、勘助は頭を下げた。
文を懐に入れ、弥平とともに門を出る。
昼の鹿島道は、昨夜と違って明るかった。
木々の輪郭ははっきり見える。
石も、根も、道のくぼみも、闇に隠れていない。
しかし、明るいから楽というわけではなかった。
昼には昼の難しさがある。
人がいる。
神宮へ向かう者。
薪を背負った者。
水を運ぶ者。
小さな荷を担いだ子供。
犬を連れた老人。
夜にはなかった声と動きが、道を満たしている。
弥平が言った。
「夜より歩きやすいけど、人がいる分、気を使うな」
「そうだな」
「昨日の水場みたいだ」
「道全体が水場か」
「何か嫌な例えだな」
弥平は笑った。
二人は神宮へ向かって歩いた。
途中、勘助は何度も足を止めかけた。
この道は、兵が通るには狭い。
荷車が来たら、人が避ける場所はどこか。
雨の日は、あの坂が滑る。
老人はどこで休むか。
子供が走れば、あの根につまずく。
見れば見るほど、道はただの道ではなくなる。
人の暮らしの筋だった。
神宮へ近づく少し手前で、弥平がふと声を上げた。
「あれ、山本」
「どうした」
「あの子、前に森で会った子じゃないか?」
勘助が視線を向けると、参道から少し外れた坂道に、小さな影がいた。
背に薪を負っている。
体の大きさに比べて、荷が明らかに重い。
ふらつきながら一歩ずつ進み、途中で足を止めている。
太吉だった。
以前、森で迷っていた少年。
あの時は、薪拾いの途中で道が分からなくなっていた。
勘助が声をかけるより先に、太吉がこちらに気づいた。
「あっ」
太吉の顔が明るくなる。
「怖くない顔のおじさん!」
弥平が噴き出した。
勘助は少し困った。
「その呼び方は、まだ続くのか」
「だって、名前忘れた」
「山本勘助だ」
「かんすけ?」
「そうだ」
「じゃあ、怖くない勘助おじさん」
「少し長くなっただけだな」
弥平は腹を押さえながら笑っている。
「山本、よかったな。怖くないって」
「弥平殿、笑いすぎだ」
「いや、だって、お前にぴったりじゃないか。怖い顔だけど怖くない」
「褒めているのか」
「たぶん」
太吉は二人のやり取りを不思議そうに見ていたが、背の薪がずり落ちそうになり、慌てて直そうとした。
その拍子に体が傾く。
勘助はすぐに近づいた。
「無理に動くな」
薪束を支える。
思ったより重い。
子供が背負うには重すぎた。
太吉は息を切らしている。
「今日は迷子ではないのか」
「迷ってない。道は分かる」
「では、なぜここで止まっている」
「重い」
太吉は正直に答えた。
弥平が薪束を見て眉をひそめる。
「これ、太吉一人で運んでたのか?」
「うん」
「家の人は?」
太吉の顔が少し曇った。
「父ちゃん、足を怪我した。山から滑って。血は止まったけど、歩けない」
勘助と弥平は顔を見合わせた。
「母上は」
「母ちゃんは家で父ちゃん見てる。小さい弟もいるし。だから俺が薪を運ぶ」
太吉はそう言って、少し胸を張った。
だが、足は震えている。
勘助は薪束を見た。
重い。
ただの薪ではない。
太吉の家の一日分の火。
飯を炊く火。
怪我人の体を温める火。
湯を沸かす火。
それが、子供の背に乗っている。
昨日、卜伝の小石の上で、村の者はどうなる、と問われた。
戸を外された家は夜をどう過ごす、と問われた。
今、目の前にその答えがある。
薪がなければ、家は冷える。
飯が炊けない。
湯も沸かない。
怪我人は弱る。
兵法の盤上では、薪など小さなことに見える。
だが、民にとっては一日を支えるものだ。
勘助は太吉へ言った。
「家は遠いのか」
「そんなに遠くない。あっちの坂を下りて、畑の横を通って、川の手前」
弥平が言った。
「山本、文は?」
「昼までに届ければよい」
「なら、先に社家へ行ってから戻るか、それとも」
太吉が慌てて言った。
「いいよ。俺、運べる」
そう言って薪を背負い直そうとする。
しかし、膝が笑っていた。
勘助はすぐに薪を押さえた。
「太吉」
「何」
「運べると思うことと、運べることは違う」
「……」
「その荷は重い」
「でも、俺が運ばないと」
太吉の声が少し硬くなる。
「父ちゃんが動けないから。俺がやらないと」
その言葉に、勘助は安西を思い出した。
強くならねばならない者。
家を背負う者。
太吉は子供だ。
だが、この小さな背にも家が乗っている。
父が怪我をし、母が家を守り、弟がいる。
だから自分が運ばねばならない。
強さの中で痛む者は、武士だけではない。
子供もまた、家の中で強くあろうとしている。
勘助は膝をつき、太吉と目線を近づけた。
「運ぶなとは言わぬ」
「え?」
「だが、一人で全部背負うな」
太吉は唇を噛んだ。
「でも」
「背負うものがあるなら、背負い方を覚える必要がある」
言いながら、勘助自身が安西の言葉と卜伝の言葉を思い出していた。
背負えるだけにしろ。
背負い方を覚えれば歩ける。
木刀の先に乗せるな。
腹に沈めろ。
今、太吉に必要なのは、根性ではない。
背負い方だ。
弥平がしゃがみ込んで、薪束の紐を見た。
「これ、結び方が悪い。重さが全部背中の上に乗ってる」
「そうなの?」
「うん。俺も水桶でよくやった。持ち方が悪いと、同じ重さでも倍くらい疲れる」
「弥平殿」
「何?」
「頼めるか」
「もちろん」
弥平は薪束を一度下ろし、紐をほどいた。
勘助も手伝う。
薪を二つに分け、軽い束と重い束にする。
「太吉は軽い方を背負え」
「でも、それじゃ」
「重い方は俺が持つ」
弥平が言う。
勘助は首を横に振った。
「拙者が持つ」
「山本、足」
「歩ける」
「でも」
「これは稽古だ」
弥平が少し笑った。
「先生みたいなこと言うな」
「弥平殿は太吉の足元を見てくれ。坂で転ばぬように」
「分かった」
太吉は困った顔をした。
「でも、おじさんたち、道場の人だろ。いいの?」
その時、後ろから声がした。
「道場の者が百姓仕事か」
振り返ると、鹿島の門弟の一人が立っていた。
名は彦七。
勝太とよく一緒にいた若い門弟だ。
以前、勘助のことを笑っていた者の一人でもある。
勝太は神宮の夜に謝ったが、彦七はまだ距離があった。
彦七は腕を組み、薪束を持とうとしている勘助を見て鼻で笑った。
「先生に置かれたと思えば、今度は薪運びか。鹿島新當流も便利になったものだな」
弥平の顔が少し険しくなる。
「彦七。困ってる子供を手伝うだけだろ」
「お前は掃除が得意だから、そういうのが好きなんだろうな」
「掃除を馬鹿にするなよ」
「馬鹿にはしてない。似合ってると言っただけだ」
弥平が一歩前へ出かけた。
勘助は手で制した。
「弥平殿」
「でも」
「水桶が揺れる」
弥平は一瞬何を言われたのか分からない顔をしたが、すぐに息を吐いた。
怒りで自分が揺れていることに気づいたのだろう。
勘助は彦七へ向き直った。
「彦七殿」
「何だ」
「道場の者が薪を運んではならぬか」
「ならぬとは言わん。だが、先生の門に置かれた者が、稽古もせずに百姓の荷を担いでいれば、笑われるぞ」
「もう笑われている」
彦七は少し顔をしかめた。
勘助は続けた。
「それに、これは稽古だ」
「薪運びがか」
「はい」
「何でも稽古にすればよいと思っているのか」
「思ってはおりませぬ。ただ、この荷の重さを知らずに、兵の荷を語ることはできぬと思いました」
彦七は眉をひそめた。
「兵の荷?」
「拙者は、いつか兵を動かす道を学びたいと思っています。ですが、盤上の小石だけを見ていては、荷の重さが分かりませぬ。薪を背負う子供の足がどこで止まるか、坂でどこに手をつくか、家まで何度休むか。それを知らずに、兵糧や行軍を語るのは浅い」
彦七は黙った。
弥平は横で少しだけ目を丸くしている。
太吉は話の半分も分かっていないだろうが、真剣な顔で聞いていた。
彦七は鼻を鳴らした。
「大層な理屈だな」
「理屈だけかもしれませぬ。だから、運びます」
勘助は重い方の薪束を背負った。
ずしりと背に重さが乗る。
思った以上だった。
肩紐が食い込む。
左足へ重みが流れる。
体が右へ逃げかける。
勘助は思わず息を吐いた。
これは重い。
ただの物の重さではない。
背負うと、歩き方が変わる。
視線が下がる。
息が変わる。
足の置き場が変わる。
彦七が言った。
「ほら、ふらついているではないか」
「はい。重いです」
「認めるのか」
「重いものを軽いと言っても、足は軽くなりませぬ」
彦七はまた黙った。
弥平が太吉へ軽い薪束を背負わせる。
「太吉、紐はここ。背中だけじゃなく、腰にも重さを分ける。苦しかったらすぐ言え」
「うん」
「我慢して黙って転ぶのが一番困る」
「分かった」
太吉は頷いた。
弥平が勘助を見た。
「山本、本当に大丈夫か」
「大丈夫ではない」
「正直だな」
「だが、歩く」
「無理したら言えよ。俺も持つ」
「頼む」
彦七はまだ見ていた。
勘助は彼に頭を下げた。
「文を届けた後、道場へ戻ります」
「……勝手にしろ」
彦七はそう言ったが、先ほどほどの嘲りはなかった。
むしろ、何か言い返せずにいる顔だった。
勘助たちはまず神宮の社家へ文を届けた。
その間、太吉は弥平と水を飲んで待った。
文の受け渡しはすぐに済んだ。
社家の者は勘助の背の薪束を見て少し驚いたが、何も聞かなかった。
その後、三人は太吉の家へ向かった。
坂道は、思っていた以上に厳しかった。
薪束を背負うと、下り坂が怖い。
荷が背を押す。
足が前へ流れる。
左足に力を入れすぎると痛む。
右へ逃げると、道の端の石に足を取られる。
弥平が先を歩き、足場を見た。
「山本、右は湿ってる。左の草の方がいい。でも太吉は真ん中」
「分かった」
「太吉、そこで一回止まれ。紐直す」
「うん」
太吉は素直に従った。
最初は「俺が運ぶ」と強がっていたが、弥平が荷の位置を直すたびに歩きやすくなることを知り、だんだん顔が和らいできた。
「弥平兄ちゃん、すごい」
「兄ちゃん?」
弥平は目を丸くした。
太吉は無邪気に言う。
「だって、おじさんじゃないし」
弥平は勘助を見て、急に得意げになった。
「聞いたか、山本。俺は兄ちゃんだ」
「よかったな」
「お前はおじさん」
「それはもう受け入れる」
「受け入れるのか」
太吉が笑った。
その笑いを聞いて、勘助は少しだけ背の重さが軽くなった気がした。
しかし、荷は荷だった。
途中、三度休んだ。
一度目は坂の上。
二度目は畑の脇。
三度目は小さな水路のそば。
勘助はそのたびに、周囲を見た。
ここに休む場所がある。
荷を下ろしやすい石がある。
水を飲める場所がある。
日陰がある。
逆に、休めない場所もある。
道が細すぎるところ。
足場が悪いところ。
他の者の通行を塞ぐところ。
兵の行軍でも同じだ。
休ませたいと思っても、休ませられる場所とそうでない場所がある。
地図の上では同じ一里でも、荷を背負った一里は違う。
子供の足の一里。
怪我人の一里。
兵の一里。
馬の一里。
すべて違う。
勘助は、また一つ紙に書くべき言葉を得た。
やがて、太吉の家が見えた。
茅葺きの小さな家だった。
畑の横にあり、近くに細い川が流れている。
戸口の前で、太吉の母らしき女が薪の戻りを待っていた。
太吉の姿を見るなり、目を見開く。
「太吉! 遅いから心配して……その方々は?」
「前に森で助けてくれた、怖くない勘助おじさんと、弥平兄ちゃん!」
弥平が少し胸を張った。
勘助は頭を下げた。
「鹿島の道場におります、山本勘助と申します。こちらは弥平殿。道中、太吉殿の荷が重そうでしたので、少し手伝いました」
女は深く頭を下げた。
「まあ……ありがとうございます。こんなところまで」
家の中から、男のうめき声が聞こえた。
太吉の父だろう。
勘助は薪を下ろした。
肩が痛い。
足も震えている。
だが、下ろした瞬間、背が軽くなりすぎて、かえって体がふらついた。
弥平が支える。
「山本、大丈夫か」
「荷を下ろした後も危ういのだな」
「何でも稽古にするなよ」
「今のは、本当にそう思った」
太吉の母が慌てて水を持ってきた。
「どうぞ。粗末なものですが」
「かたじけない」
勘助と弥平は水をいただいた。
冷たい水だった。
弥平が小さく息をつく。
「うまい」
太吉の母は申し訳なさそうに言った。
「本当ならお礼に何か差し上げたいのですが、今は夫があの通りで」
「お気遣いなく」
勘助は家の中をちらりと見た。
戸口の奥で、男が足に布を巻いて横になっている。
顔色は悪いが、命に関わるほどではなさそうだ。
ただ、動けない。
それだけで家の全てが変わる。
薪を運ぶ者がいなくなる。
水を汲む者が減る。
畑を見る者が減る。
太吉の背に荷が乗る。
母の顔に疲れが出る。
小さな弟が静かにしている。
戦でなくても、人は簡単に詰まる。
勘助はそれを見た。
太吉の母は、薪束を見て小さく息を吐いた。
「これで今夜は火を絶やさずに済みます」
その言葉は、勘助の胸に深く残った。
今夜は火を絶やさずに済む。
戦場の勝利ではない。
城を落としたわけでもない。
だが、これは確かな一手だった。
帰り道、弥平はしばらく黙っていた。
勘助も黙っていた。
坂を上る。
背に荷はない。
それでも、先ほどの重さが体に残っている。
弥平がぽつりと言った。
「薪って、重いな」
「重かった」
「俺、水桶の方が慣れてるから、薪ってあんなに背中に来ると思わなかった」
「拙者もだ」
「太吉、あれ運んでたんだな」
「はい」
「子供なのにな」
弥平の声には、少し怒りのようなものが混じっていた。
誰に向けた怒りかは分からない。
太吉の父を怪我させた山か。
子供に荷を背負わせる暮らしか。
何もできない自分か。
勘助は言った。
「兵も、荷を背負えば太吉になるのかもしれぬ」
「え?」
「武士だから、兵だから、強いからといって、荷が軽くなるわけではない。腹が減れば動けぬ。水がなければ喉が渇く。荷が重ければ足が止まる」
「うん」
「拙者は、兵を小石のように動かしたがる。だが、小石には薪の重さがない」
弥平はしばらく考えた。
「じゃあ、山本が軍師になるなら、薪の重さを覚えておけばいいんじゃないか」
「覚えておく」
「忘れたら?」
「また持つ」
「それがいい」
弥平は笑った。
「先生も言いそうだ。忘れたらまた持て、って」
「言いそうだ」
道場へ戻ると、彦七が門の近くにいた。
どうやら先に戻っていたらしい。
彼は勘助と弥平を見て、少し気まずそうに言った。
「戻ったか」
「はい」
「薪は運べたのか」
「運べました」
「……そうか」
それだけだった。
しかし、彦七は笑わなかった。
弥平が小声で言う。
「今の、ちょっと変わったな」
「分からぬ」
「山本はそういう時、分からぬって言うよな」
「決めつけると、見誤る」
「お、成長してる」
勘助は少し笑った。
庭へ入ると、卜伝が縁側に座っていた。
いつから待っていたのか分からない。
勘助と弥平は頭を下げた。
「戻りました」
「何を見た」
卜伝はやはり、最初にそう問うた。
勘助は答えた。
「荷の重さを見ました」
「続けろ」
「太吉という子供が、父の怪我で薪を運んでおりました。薪は重く、背負い方が悪ければ倍疲れます。坂では荷が背を押し、下ろした後も体がふらつきます。休める場所と休めぬ場所があり、水を飲める場所と飲めぬ場所があります」
卜伝は黙っている。
「拙者は、兵を動かすことを考えてきました。ですが、兵の背に何が乗っているかを見ておりませんでした。荷の重さを知らずに、行軍を語るのは浅いと思いました」
卜伝は頷かなかった。
だが、目は静かだった。
「弥平」
「はい」
「お前は何を見た」
弥平は少し緊張した。
「ええと……薪は重いです」
「続けろ」
「子供が背負うには重いです。でも、その家には必要なものです。だから、ただ軽くしてやればいいってだけじゃなくて、どう分けるかとか、どう結ぶかとか、どこで休むかが大事だと思いました」
弥平は少し自信なさそうに続ける。
「水桶と似てました。持ち方が悪いと、同じ重さでもしんどい。道具も荷も、置き方と持ち方で人を助けるんだと思いました」
卜伝は言った。
「よい」
弥平の顔がぱっと明るくなる。
すぐに自分で表情を引き締めた。
卜伝は勘助へ視線を戻す。
「山本」
「はい」
「民の荷を知らぬ軍師は、兵の荷を軽く見る」
「はい」
「兵の荷を軽く見る者は、兵の足を軽く見る」
「はい」
「兵の足を軽く見る者は、戦場に着く前に負ける」
勘助は深く頭を下げた。
「はい」
「今日のことを紙に書け」
「はい」
「ただし、美談にするな」
勘助は顔を上げた。
「美談、でございますか」
「子供を助けた、よいことをした。それで終わるな。荷の重さ、坂の角度、休む場所、水の位置、背負い方。書くなら、そこを書け」
「はい」
「弥平」
「はい」
「お前も明日、薪を少し背負え」
「俺もですか」
「今日見たものを、忘れる前に体へ入れろ」
「はい……!」
卜伝はそれだけ言うと、立ち上がった。
去り際、ふと足を止める。
「山本」
「はい」
「百姓仕事と笑う者もいる」
「はい」
「笑わせておけ。ただし、お前まで軽く見るな」
「はい」
卜伝は屋敷の奥へ戻っていった。
その夜、勘助は紙束を開いた。
鹿島神宮で書いた余白の隣に、今日のことを書き足す。
『民の荷を知ること。薪の重さ。背負い方。休み場所。水場。荷を下ろした後のふらつき。子供の強がり。家の火』
書きながら、太吉の母の言葉を思い出した。
これで今夜は火を絶やさずに済みます。
勘助は筆を止めた。
城を落とす策。
兵を動かす一手。
それらは大きなものに見える。
だが、火を絶やさないこともまた、人を生かす一手なのだ。
勘助は紙にもう一行書いた。
『戦は城だけで起こるのではない。家の火にも及ぶ』
書いた後、しばらくその文字を見つめた。
窓の外では、弥平がまだ掃除道具を片づけている音がした。
明日、弥平は薪を背負う。
勘助も、また背負うかもしれない。
忘れたら、また持つ。
その繰り返しだ。
山本勘助は筆を置き、静かに息を吐いた。
鹿島で学ぶ兵法は、どんどん遠くへ広がっていく。
木刀から足へ。
足から水場へ。
水場から村へ。
村から家の火へ。
そして、そのすべてが、いつか戦場で人を生かす道につながるのかもしれない。
まだ分からない。
だが、今日の薪の重さだけは、忘れない。
勘助はそう思いながら、紙束を丁寧に閉じた。




