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『醜いから仕官不要と追放された俺、武田信玄だけが「その目は天下を見ている」と言った 〜隻眼の軍師・山本勘助、見下した名門武家を戦場でざまぁする〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第二十五話 鹿島神宮、夜の参籠

 その日の夕方、塚原卜伝は山本勘助を呼んだ。


 庭ではなかった。


 道場でもない。


 木刀を持てとも言われなかった。


 水桶を運べとも、掃除をしろとも、足跡を見ろとも言われなかった。


 卜伝は、ただ静かに言った。


「今夜、神宮へ行け」


 勘助は一瞬、言葉の意味を取り損ねた。


「鹿島神宮へ、でございますか」


「そうだ」


「一人で」


「一人で」


 卜伝はそう言い切った。


 夕暮れの庭には、稽古を終えた門弟たちの気配が残っていた。


 新九郎は木刀の手入れをしている。


 庄左は水桶を片づけている。


 弥平は掃き残しを気にして、同じ場所を三度ほど掃いている。


 安西左馬助は庭の端で、一人、足跡を見ていた。


 それぞれの稽古が終わった後も、鹿島の庭は完全には静まらない。


 人がいる。


 息がある。


 悔しさがある。


 疲れがある。


 それらが薄く庭に残り、夕方の湿った空気に混じっている。


 卜伝はその中で、もう一度言った。


「神前で夜を過ごせ」


「参籠、でございますか」


「そうだ」


 勘助は胸の内側が、少しだけ冷えるのを感じた。


 神前で夜を過ごす。


 それは、ただ寝場所を変えるという話ではない。


 鹿島に来てから、勘助は多くを見せられてきた。


 立ち方。


 礼。


 木刀。


 踏み込み。


 間合い。


 掃除。


 水。


 飯。


 強い者の痛み。


 そして、小石ひとつの置き場所で百人が死ぬかもしれないという重さ。


 そのすべてを抱えたまま、神前で一夜を過ごす。


 卜伝が何を求めているのか、勘助には分からなかった。


 だが、分からない時は、まず行くしかない。


「承知いたしました」


 勘助が頭を下げると、卜伝は短く頷いた。


「木刀は置いていけ」


「はい」


「紙は持っていけ」


 その言葉に、勘助は顔を上げた。


「紙、でございますか」


「泥のついた紙束だ」


 胸の奥を突かれた気がした。


 泥で汚れた覚え書き。


 城攻めの案。


 道の見方。


 兵の動かし方。


 かつて門前で踏まれ、笑われ、それでも捨てられなかった紙束。


 鹿島へ来てから何度も見返し、そのたびに己の浅さを思い知らされてきたもの。


「持っていけ」


「はい」


「書くかどうかは、お前が決めろ」


「はい」


「ただし、神前で格好をつけるな」


 卜伝はいつもの調子で言った。


「鹿島の神は、お前の格好など見ておらぬ」


 それを聞いていた弥平が、小さく吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。


 卜伝の目がそちらへ動く。


「弥平」


「はい!」


「何がおかしい」


「いえ、その、神様も山本の格好は気にしないのかなと思って」


 弥平は言ってから、自分でも失礼だったと思ったのか青くなった。


 勘助は思わず笑いそうになった。


 卜伝は怒らなかった。


「気にせぬだろう」


「え」


「神が人の顔ばかり見ていれば、鹿島はもっと騒がしい」


 弥平は返事に困っていた。


 新九郎が横から言う。


「弥平。先生の言葉に返そうとするな。転ぶぞ」


「はい……」


 庄左が静かに付け加えた。


「もう少しで転んでいたな」


「庄左さんまで」


 安西は何も言わなかったが、ほんの少しだけ口元を動かしたように見えた。


 勘助はそれを見て、胸が少し温かくなった。


 鹿島の人々の距離は、まだ近いようで遠い。


 だが、最初より少しだけ、そこに自分の息が混じるようになっていた。


 夕餉の後、勘助は荷の中から紙束を取り出した。


 泥は乾き、端が硬くなっている。


 ところどころ文字が滲み、読めない箇所もある。


 それでも捨てられなかった。


 いや、捨てなかった。


 その紙束を懐へ入れ、小さな墨と筆も持つ。


 書くかどうかは分からない。


 ただ、持っていく。


 門を出ようとすると、弥平が水筒を差し出した。


「持っていけ」


「よいのか」


「神宮で喉渇いても困るだろ。先生は水までは言ってなかったけど」


「かたじけない」


「礼はいい。いや、今は言ってもいいか」


 弥平は照れたように笑った。


「あと、夜の石段は滑るから気をつけろ。昼は何でもないところでも、夜は別物だから」


「覚えておく」


「あと、暗いからって足元ばっかり見るなよ。枝に頭ぶつけるから」


「それは卜伝殿にも言われた」


「じゃあ大事だ」


 そこへ新九郎が来た。


「山本」


「はい」


「神前で余計なことを考えすぎるな」


「難しい注文だ」


「分かっている。お前には特に難しい」


「そこまで言うか」


「言う。だが、考えるなとは言っていない。考えに飲まれるなと言っている」


 新九郎は少しだけ視線を逸らした。


「戻ったら、明日は打ち込みだ」


「参籠の翌日にか」


「当然だ。神前で何か掴んだ顔をしていたら、叩いて確かめる」


「恐ろしいな」


「神よりは優しい」


「そうなのか」


「知らん」


 勘助は少し笑った。


 庄左は静かに近づき、短く言った。


「眠れなくても、眠れなかったことを責めるな」


「庄左殿らしい助言だ」


「俺は夜に考えすぎる」


「知っている」


「お前もだ」


「はい」


「考えすぎたら、紙に書くといい。ただし、書いたものをすぐ答えと思うな」


「覚えておく」


 最後に、安西が少し離れた場所から言った。


「山本」


「はい」


「神前で誓いすぎるな」


 勘助は思わず安西を見た。


「誓いすぎる?」


「人は夜に誓うと、朝に重さを知る」


 安西は淡々と言った。


「背負えるだけにしろ」


 その言葉は、安西らしかった。


 家の名を背負う者の言葉だった。


 勘助は深く頭を下げた。


「承知しました」


「承知していると思うな」


「はい」


 安西はそれ以上言わず、背を向けた。


 勘助は門を出た。


 鹿島の夜は、昼とまるで違っていた。


 木々の影が濃い。


 道は細く、夜露で湿っている。


 昼なら見える石が、夜には地面と同じ色に沈む。


 弥平の言う通りだった。


 足元ばかり見ると枝に当たる。


 上ばかり見ると石に足を取られる。


 見えるものが少ない夜ほど、見るものを選ばなければならない。


 勘助はゆっくり歩いた。


 痛む左足を急がせない。


 かといって、哀れまない。


 次の場所へ体を置く。


 弥平の掃除の足を思い出す。


 新九郎の鋭い踏み込みではない。


 安西の重い足でもない。


 庄左の静かな足でもない。


 自分の痛む足で、夜の道を歩く。


 鹿島神宮へ向かう道には、湿った木の匂いがあった。


 鳥はもう眠っているのか、昼より声が少ない。


 代わりに虫が鳴いている。


 遠くで水の音がする。


 木の葉が風を受け、ささやくように揺れる。


 片目の夜は、やはり心細かった。


 昼ならまだ距離を測れるものが、夜には曖昧になる。


 石段の端。


 木の根。


 小さなくぼみ。


 すべてが闇に混じる。


 だが、鹿島で学んだことがある。


 目だけで測るな。


 足裏で知れ。


 風で知れ。


 息で知れ。


 勘助は、夜の道そのものを稽古だと思って歩いた。


 鹿島神宮は、静かにそこにあった。


 昼間に見る神宮とは違う。


 夜の神宮は、人を迎えるというより、人を試すように佇んでいる。


 大きな木々の影。


 深い参道。


 社殿の輪郭。


 月明かりに淡く浮かぶ屋根。


 そこには、人の稽古場とは違う空気があった。


 剣の音もない。


 弥平の箒もない。


 新九郎の叱責も、庄左の静かな助言も、安西の重い声もない。


 卜伝の言葉すら、今は遠い。


 ただ、夜がある。


 神前がある。


 そして、自分がいる。


 勘助は深く礼をした。


 鹿島で学んだ礼。


 まだ美しくはない。


 右へ逃げる足。


 固くなりかける手。


 どう見られるかを気にする心。


 それらをひとつずつ見ながら、頭を下げる。


 神は顔を見ていない。


 卜伝はそう言った。


 ならば、自分で自分の顔ばかり見る必要もないのかもしれない。


 社殿の近くに座り、勘助は懐から紙束を取り出した。


 夜気に晒すと、紙の乾いた泥の匂いが少し立った。


 この紙は、勘助の過去そのものだった。


 浅く、焦り、見返したがり、誰かに認められたくて、けれど捨てられなかったもの。


 彼は一枚目を開いた。


 城の見取り。


 門の弱点。


 北の竹藪。


 風向き。


 火矢。


 そこには、かつて門前で笑われた自分がいた。


 いや、その前からいた。


 山本勘助という男は、ずっと見ていた。


 人が見ないところを。


 城の隙を。


 道の曲がりを。


 水の流れを。


 けれど、そこに人がいなかった。


 老人がいなかった。


 子供がいなかった。


 犬がいなかった。


 怪我人が戻る場所がなかった。


 飯を食う兵がいなかった。


 紙の上の策は、勝ちたがっていた。


 勘助は、その紙を見て小さく呟いた。


「浅かったな」


 夜の神宮は答えない。


 ただ、風が木を揺らす。


 紙をめくる。


 別の一枚には、兵糧の運び方が書かれていた。


 どこへ荷を置くか。


 どの道なら早いか。


 どこで敵に襲われやすいか。


 それなりに考えている。


 だが、弥平に教えられたような、桶一つの置き場所の細かさはなかった。


 荷を置く場所で誰かが転ぶかもしれない。


 水を汲む者の道を塞ぐかもしれない。


 飯を食う順番で兵の心が荒れるかもしれない。


 そういうものがない。


 勘助は筆を取った。


 しばらく迷い、余白に小さく書いた。


『飯、水、怪我人の戻る道を先に見ること』


 字は震えた。


 夜の冷えのせいか、緊張のせいかは分からない。


 もう一枚。


 城攻めの別案。


 そこにも余白へ書く。


『村を地形として扱うな。人がいる』


 書いた瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。


 自分の策の浅さを、自分で刻む痛み。


 だが、それは必要だった。


 庄左が言った。


 書いたものをすぐ答えと思うな。


 これは答えではない。


 忘れないための傷だ。


 勘助は筆を置き、膝の上に紙束を乗せたまま目を閉じた。


 すると、過去の声が戻ってきた。


 まず、母の声。


 嫌いでも、捨てないで。


 あの声は、いつも柔らかかった。


 だが、その柔らかさは弱さではない。


 捨てないということは、抱えるということだ。


 醜い顔も。


 濁った片目も。


 痛む足も。


 人に笑われた記憶も。


 捨てずに抱えるには、強さがいる。


 母は、それを知っていたのかもしれない。


 次に、父の沈黙が来た。


 父は、多くを語らなかった。


 勘助の顔を見て、片目を見て、足を見て、それでも何を言えばよいか分からぬように黙っていた。


 その沈黙を、勘助は長く恨んだ。


 なぜ認めてくれなかった。


 なぜ守ってくれなかった。


 なぜ、もっと強い言葉で背を押してくれなかった。


 そう思った。


 今も、その痛みは消えていない。


 けれど、鹿島で強い者の痛みを少し知った。


 安西のように、期待に押し潰される者がいる。


 新九郎のように、強くあることで自分を保つ者がいる。


 庄左のように、余った場所で自分の立つ場所を探す者がいる。


 弥平のように、掃除ばかり上手くなる自分に迷う者がいる。


 ならば、父にも父の痛みがあったのかもしれない。


 醜い息子をどう見ればよいか分からなかった。


 不具の足をどう扱えばよいか分からなかった。


 才があるのか、ないのか。


 見えているのか、見えていないのか。


 その分からなさに、父も黙ったのかもしれない。


 許せるかどうかは、まだ分からない。


 だが、父の沈黙をただ憎むだけではなくなっていた。


 次に、門前の侮辱が来た。


 醜い顔。


 片目。


 役立たず。


 仕官不要。


 泥に踏まれた紙。


 笑い声。


 あの時の熱が、腹の奥にまだ残っている。


 見返したい。


 ざまぁしたい。


 いつか、あの者たちに思い知らせたい。


 その欲は消えない。


 消えないし、今は消すつもりもなかった。


 卜伝は言った。


 欲を捨てろとは言わぬ。


 隠すな。


 飾るな。


 太刀の先に乗せるな。


 腹に置け。


 勘助は腹に手を当てた。


 見返したい欲がある。


 それは確かだ。


 だが、その欲だけで軍師になれば、人を駒にするだろう。


 勝つためだけに村の戸を外し、兵の腹を忘れ、怪我人の戻る場所を作らず、勝った自分に酔うだろう。


 それでは駄目だ。


 見返すためだけの一手では、人が死ぬ。


 人が死ぬ。


 その言葉を、勘助は神前で初めて本当に怖いと思った。


 木刀で打たれる痛みとは違う。


 門前で笑われる痛みとも違う。


 自分の策で、誰かが死ぬ。


 それは、怖かった。


 社殿の前で、勘助は静かに息を吐いた。


 夜は深くなっている。


 風は冷たい。


 足が少し痛む。


 長く座っているせいで、左膝が固まり始めていた。


 立つべきか。


 座ったままでいるべきか。


 考えていると、背後から小さな音がした。


 勘助は振り返った。


 誰もいない。


 いや、少し離れた木の陰に、人影があった。


 神職かと思ったが、違う。


 若い門弟だった。


 名は、確か勝太。


 普段、勘助とはあまり話さない。


 最初の頃、勘助を笑った者たちの一人でもある。


 勝太は気まずそうに立っていた。


「……山本」


 小さな声。


 勘助は立とうとしたが、膝が痛み、少し遅れた。


 勝太は慌てるように言った。


「あ、いや、立たなくていい」


「どうした」


「俺も……その、神宮に用があった」


 嘘だろう。


 勘助にも分かった。


 だが、指摘しなかった。


「そうか」


「先生に言われたわけじゃない。勝手に来た」


「なぜ」


 勝太は少し黙った。


 それから、視線を逸らしたまま言った。


「昨日の一の太刀の話で、何か眠れなくなった」


 勘助は黙って聞いた。


「俺はさ、正直、奥義って聞いて浮かれた。いつか授かったら、家に帰って自慢できると思った。俺は鹿島でここまで来たんだって。昔俺を馬鹿にした兄貴に見せられるって」


 勝太は苦笑した。


「けど先生に、足元を忘れるって言われて……俺、今日の稽古で足元ばっかり気になって、逆に転びかけた」


「拙者もよくある」


「お前はいつもだろ」


 言ってから、勝太ははっとした。


「悪い」


「事実だ」


「……そういう返し、困るな」


 勝太は少し笑った。


 その笑いには、以前の侮りは少なかった。


「山本」


「はい」


「俺、お前のこと笑ったよな。門前で」


「笑った」


「覚えてるのか」


「覚えている」


「だよな」


 勝太は肩を落とした。


「謝る。あれは、悪かった」


 勘助はすぐに返事をしなかった。


 謝られた。


 それは予想外だった。


 許すべきなのか。


 怒るべきなのか。


 軽く流すべきなのか。


 分からない。


 弥平ならどう言うだろう。


 新九郎なら「今さらだ」と言うかもしれない。


 庄左なら、少し黙ってから言葉を選ぶ。


 安西なら、謝るなら短くしろと言うだろう。


 卜伝なら、見ろと言う。


 勘助は自分の腹の中を見た。


 怒りはある。


 恥もある。


 だが、それだけではない。


 勝太にも、何かがある。


 兄に馬鹿にされたという言葉。


 奥義が欲しいという焦り。


 自分を笑ったのは、勘助だけを見下したかったからではなく、自分が上にいたいからだったのかもしれない。


 そう思った。


 ただし、それを口にしない。


 今は、触れる時ではない。


 勘助は静かに言った。


「痛かった」


 勝太が顔を上げる。


「え」


「笑われたことは、痛かった。紙を踏まれたことも、今も覚えている」


「……ああ」


「だから、すぐ許せるとは言えぬ」


 勝太は唇を噛んだ。


「そうだよな」


「だが、謝ったことは受け取る」


 勝太は少し驚いた顔をした。


「それでよいか」


「いや……俺が言うことじゃないけど。十分だ」


 勝太は深く頭を下げた。


「悪かった」


 勘助も軽く頭を下げた。


 夜の神宮で、二人はしばらく黙っていた。


 勝太はやがて、社殿へ向かってぎこちなく礼をした。


 その礼は、勘助の最初の礼ほどではないが、やはり少し崩れていた。


 自分がどう見られるかを気にしている。


 勘助には見えた。


 だが、それを言わなかった。


 勝太はそのまま帰っていった。


 勘助は一人、また神前に座った。


 謝罪を受け取った。


 だが、傷はすぐには消えない。


 それでいいのだと思った。


 許すことも、許せないことも、人の中で一度に決まるものではない。


 それもまた、間合いなのだろう。


 夜がさらに深くなった。


 眠気は来たり、去ったりした。


 勘助は完全には眠れなかった。


 庄左の言葉を思い出す。


 眠れなかったことを責めるな。


 安西の言葉を思い出す。


 神前で誓いすぎるな。


 背負えるだけにしろ。


 それでも、勘助には一つだけ言葉にしたいことがあった。


 彼は社殿へ向かって膝を正した。


 痛む足を無理に整えず、できる範囲で正す。


 深く息を吸う。


 そして、小さく言った。


「鹿島の神よ」


 声は夜に溶けるほど小さい。


「拙者は、醜い顔をしております。片目で、足も悪く、剣も弱く、すぐに怒り、すぐに恥じ、見返したい欲もございます」


 言葉にしても、神前は静かだった。


「それでも、この目で見たいものがあります」


 勘助は片目を閉じ、また開いた。


 夜の社殿が滲んで見える。


「人を死なせる道だけでなく、生かす道を」


 胸が震えた。


「敵を倒す道だけでなく、味方が戻る道を」


 風が木々を揺らす。


「村を壊す策ではなく、村が明日も飯を炊ける道を」


 言葉が少しずつ腹へ沈んでいく。


「拙者は、まだ弱うございます。臆病です。無能とも笑われました。ですが、この目で……この欠けた目で、見えぬものを見ようといたします」


 誓いすぎるな。


 安西の言葉が脳裏をよぎる。


 だから、勘助は最後の言葉を少しだけ小さくした。


「背負えるだけを、今日、背負います」


 それは大げさな誓いではなかった。


 天下を取るでもない。


 名軍師になるでもない。


 誰にも負けないでもない。


 ただ、今日背負えるものを背負う。


 明日また、もう一度背負う。


 それだけだった。


 だが、今の勘助にはそれが精一杯だった。


 夜明け前、空がわずかに白み始めた。


 鳥が一羽、遠くで鳴いた。


 勘助は紙束をまとめ、懐へしまった。


 余白に書いた文字が、まだ乾ききっていない。


 飯、水、怪我人の戻る道。


 村を地形として扱うな。人がいる。


 その二行は、これから先、何度も勘助を刺すだろう。


 それでいい。


 忘れるから、また見る。


 鹿島への帰り道、朝露で石が滑った。


 勘助は一度、足を取られかけた。


 だが、倒れなかった。


 次の場所へ体を置く。


 弥平の掃除の足。


 新九郎の注意。


 庄左の夜の間合い。


 安西の背負うもの。


 卜伝の問い。


 それらが、勘助の足をほんの少し支えた。


 道場へ戻ると、弥平が門前を掃いていた。


 まだ朝早い。


 弥平は勘助を見るなり、箒を止めた。


「おかえり。眠れたか?」


「少しだけ」


「少しならいい方か」


「たぶん」


 新九郎も庭に出ていた。


「顔が変わったな」


 勘助は自分の顔に触れた。


「醜くなくなったか」


「そういう意味ではない」


「では」


「何か、少し重いものを持って帰った顔だ」


 安西が少し離れた場所から言った。


「誓いすぎたか」


「いえ」


 勘助は安西へ頭を下げた。


「背負えるだけにしました」


 安西は少しだけ頷いた。


「ならいい」


 庄左は近づき、勘助の懐の紙束を見た。


「書いたのか」


「少し」


「答えと思うなよ」


「はい」


 最後に、卜伝が屋敷の奥から現れた。


 勘助は深く礼をする。


 卜伝はその礼を見て言った。


「少しましだ」


 弥平が嬉しそうに笑う。


 新九郎が頷く。


 庄左が静かに目を伏せる。


 安西は何も言わない。


 勘助は頭を上げた。


「卜伝殿」


「何だ」


「戻りました」


「なら、稽古だ」


 あまりにも当然のように言われた。


 勘助は一瞬だけ笑いそうになった。


 だが、笑わずに木刀を取りに向かう。


 神前の夜は終わった。


 誓いも、涙も、思索も、すべて朝の稽古へ戻る。


 それでよいのだろう。


 人は毎日、門をくぐる。


 昨日の誓いも、今日の木刀で試される。


 山本勘助は木刀を手にした。


 片目はまだ欠けている。


 足はまだ痛む。


 顔は変わらず醜い。


 だが、その目で見るものは、少しだけ変わっていた。


 人を死なせる道だけでなく、生かす道を。


 その小さな誓いを腹に置き、勘助は鹿島の朝の庭へ一歩踏み出した。


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