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『醜いから仕官不要と追放された俺、武田信玄だけが「その目は天下を見ている」と言った 〜隻眼の軍師・山本勘助、見下した名門武家を戦場でざまぁする〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第二十七話 人を守るための木刀

 翌朝、弥平は薪を背負わされた。


 言い出したのは塚原卜伝である。


 いや、正確には、昨日のうちに言われていた。


 今日見たものを、忘れる前に体へ入れろ。


 その一言で、弥平は朝の掃除を終えたあと、道場裏に積まれていた薪をいくつか束ね、背に負うことになった。


 弥平は最初、少しだけ得意げだった。


「昨日は太吉に背負い方を教えたからな。俺だって水桶なら慣れてるし、薪だってまあ、何とかなるだろ」


 そう言っていた。


 だが、いざ背負うと顔色が変わった。


「……山本」


「何だ」


「薪って、背中に刺さるな」


「刺さる」


「水桶と違う。水桶は腕と腰だけど、薪はこう、背中全部に『俺はここにいるぞ』って言ってくる」


「分かる」


「あと、歩くと少しずつずれる。これ、太吉よく一人で運んだな」


「そうだな」


 弥平は数歩歩いて、すぐに立ち止まった。


 卜伝は縁側から見ている。


 新九郎も腕を組んで眺めていた。


 庄左は薪束の結び目を見て、少し考え込んでいる。


 安西左馬助は黙っていたが、いつものように腕を組まず、弥平の足元を見ていた。


「弥平」


 卜伝が言った。


「はい」


「重いか」


「重いです」


「なら、軽いと言うな」


「はい」


「山本」


「はい」


「昨日、お前はこれを見た。今日は何を見る」


 勘助は、薪を背負ってふらつく弥平を見た。


 弥平は弱いわけではない。


 水桶を運ぶ足は自然で、掃除では誰よりも庭を見ている。


 だが、薪はまた別の荷だった。


 荷の形が違えば、歩き方も違う。


 背負う者が違えば、休む場所も違う。


「荷ごとに、人の足は変わるのだと思います」


「続けろ」


「水桶は揺れます。薪は刺さります。米俵なら沈みます。怪我人を背負えば、相手の息でこちらの息も乱れるかもしれませぬ」


 卜伝は少しだけ目を細めた。


「なら、兵の荷は」


「一つではありませぬ」


 勘助は答えた。


「槍を持つ者、弓を持つ者、米を持つ者、傷を負う者、恐れを抱える者。それぞれ荷が違います」


「よい」


 卜伝は短く言った。


 弥平が薪を背負ったまま、横から言う。


「先生、よいのは分かりましたけど、そろそろ下ろしていいですか」


「まだだ」


「はい……」


 新九郎が少し笑った。


「弥平、顔が薪に負けているぞ」


「新九郎さんも一回背負ってくださいよ。絶対顔変わりますから」


「俺は稽古で十分だ」


「ずるい」


 安西が静かに言った。


「弥平、膝が逃げている」


「え、俺ですか?」


「薪を嫌って腰が引けている。腰が引けるから余計に背に刺さる」


「どうすれば」


「背負うと決めたなら、背で受けろ。嫌がって中途半端に逃げるな」


 安西らしい助言だった。


 厳しいが、的確だった。


 弥平は一度深く息を吐き、薪束を背に受け直した。


 不思議と少しだけ姿勢が整う。


「……少し楽になった」


「楽ではない。ましになっただけだ」


「ましでもありがたいです」


 その様子を見ていた卜伝は、勘助へ一通の小さな包みを渡した。


「山本」


「はい」


「太吉の家へ持っていけ」


 包みの中には、布と薬草が入っていた。


 太吉の父の怪我に使うものだろう。


「よろしいのでしょうか」


「余りだ」


 卜伝は何でもないように言った。


「ただし、施しだと思うな」


「はい」


「見に行け。昨日見たものが、今日どう変わるかを見ろ」


「承知しました」


「弥平」


「はい」


「お前も行け」


「この薪を背負ってですか?」


「途中まででよい」


 弥平は少し安心した顔をした。


 卜伝はすぐに続ける。


「途中から山本が持て」


 今度は勘助の足がわずかに反応した。


「はい」


 卜伝は二人を見た。


「木刀を持っていけ」


 勘助は少し驚いた。


「木刀を、でございますか」


「道中、犬に吠えられることもある」


 卜伝は淡々と言った。


「犬で済めばよいがな」


 その言葉の意味を、すぐに深く考えるべきだったのかもしれない。


 だが、その時の勘助は、太吉の家のこと、薪の重さ、布と薬草をどう渡すかで頭がいっぱいだった。


 弥平が小声で言った。


「先生、たまに不吉なこと言うよな」


「たまにではない気もする」


「それもそうだな」


 二人は道場を出た。


 弥平は薪を背負い、勘助は木刀と薬草の包みを持つ。


 鹿島から太吉の家へ向かう道は、昨日歩いたばかりだ。


 だが、昨日とは違う。


 昨日は太吉の荷を見た。


 今日は、自分たちが荷を持つ。


 それだけで道の見え方が変わる。


 弥平は坂の手前で息を吐いた。


「山本、ここで交代」


「早いな」


「途中まででいいって先生が言った」


「確かに」


 勘助は薪を受け取った。


 背に乗せる。


 昨日の重さが戻る。


 肩紐が食い込む。


 木刀は腰に差すように持つが、薪があると邪魔になる。


 これも学びだった。


 武器と荷は、互いに邪魔をすることがある。


 荷を背負う兵が、すぐに武器を抜けるとは限らない。


 勘助はゆっくり歩き始めた。


 弥平は横で足元を見る。


「山本、右の石、昨日より湿ってる」


「分かった」


「そこ、太吉が昨日休んだ場所だ」


「覚えている」


「今なら、何で休みたくなったか分かるな」


「分かる」


 太吉の休んだ石は、ただ座りやすいだけではなかった。


 坂の途中で、荷を下ろしやすい高さにある。


 背負い直す時、足場が安定している。


 近くに細い水路があり、少し水も飲める。


 偶然なのか、人が何度も使ううちに休む場所になったのか。


 どちらにせよ、道には人の記憶が残る。


 その時、前方から騒がしい声が聞こえた。


 男の怒鳴り声。


 女の悲鳴に近い声。


 荷車の軋む音。


 弥平が足を止める。


「何だ?」


 勘助は薪を背負ったまま、耳を澄ませた。


 道の先は少し下っており、右手に畑、左手に小さな林がある。


 その先に、太吉の家へ向かう分かれ道がある。


 声はそのあたりから聞こえた。


「やめてください、それは村へ運ぶ米で……!」


「うるせえ。道を通る銭だと思え」


 男の声。


 一人ではない。


 二人か、三人。


 勘助は薪を下ろそうとした。


 だが、ここで不用意に動けば音が出る。


 弥平が小声で言う。


「山本」


「弥平殿、薪を頼む」


「お前は?」


「見る」


「分かった」


 弥平はすぐに薪を受け取った。


 勘助は木刀を手に取り、道の端を進んだ。


 見えた。


 分かれ道のところで、小さな荷車が止められている。


 荷車には米俵と野菜の籠が積まれていた。


 荷車を引いているのは、昨日太吉の家で見かけた近所の男だろうか。年は四十ほど。腕は太いが、武士ではない。


 その前に、浪人崩れのような男が三人いた。


 髪は乱れ、刀は差しているが、身なりは荒れている。


 一人は刀の柄に手をかけている。


 一人は荷車の米俵へ手を伸ばしていた。


 もう一人は、周囲の村人を睨んでいる。


 太吉もいた。


 母の後ろに隠れるようにしながら、それでも前へ出ようとしている。


 勘助の腹が冷えた。


 正面から戦えば、勝てない。


 相手は三人。


 刀を持っている。


 こちらは木刀。


 弥平も木刀はあるが、実戦では頼り切れない。


 村人たちは怯えている。


 荷車は坂の途中にある。


 右は畑で足場が柔らかい。


 左は林で根が多い。


 道は狭く、荷車がほぼ塞いでいる。


 浪人三人のうち、刀に手をかけている男が一番危ない。


 荷を奪おうとしている男は欲が前に出ている。


 周囲を睨む男は、村人を押さえる役か。


 勘助は地形を見た。


 坂。


 荷車。


 米俵。


 野菜籠。


 畑のぬかるみ。


 林の根。


 村人の位置。


 太吉。


 母。


 怪我をした父は家の中だろう。


 ここで大声を出せば、家の者も出てくるかもしれない。


 人を増やせば混乱する。


 まず、逃がす道を作らねばならない。


 敵を倒すことではない。


 村人を逃がすこと。


 荷車をどう使うか。


 坂をどう使うか。


 勘助は息を吐いた。


 腹に置け。


 怖さを、怒りを、見返したい欲を。


 今は、木刀の先に乗せるな。


 弥平が後ろから来て、薪を道端に下ろした。


「三人か」


「はい」


「俺たちだけで?」


「倒すのではない」


「じゃあ」


「逃がす」


 弥平は小さく頷いた。


 顔は青い。


 だが、逃げてはいない。


「何をすればいい」


 勘助は素早く言った。


「弥平殿は右の畑側へ回って、村人に後ろへ下がるよう伝えてくれ。走らせるな。畑は足を取られる」


「分かった」


「それと、荷車の車輪止めを見てくれ。外せそうなら合図を」


「荷車を動かすのか」


「坂を使う」


 弥平は一瞬、目を丸くしたが、すぐに頷いた。


「分かった」


「無理はするな」


「山本もな」


 二人は別れた。


 勘助は正面へ出た。


 浪人崩れの一人がこちらに気づいた。


「何だ、お前」


 勘助は木刀を下げたまま、ゆっくり歩いた。


 走らない。


 走れば村人が慌てる。


 相手も刀を抜く。


「その荷は村のものにございます」


 勘助は言った。


 男たちは勘助の顔を見て、すぐに笑った。


「何だ、その顔」


「片目か」


「おいおい、鹿島の道場ってのは、そんなのまで飼ってんのか」


 いつもの言葉だった。


 胸の奥が熱くなる。


 だが、今は腹に置く。


 太吉が声を上げた。


「勘助おじさんを馬鹿にするな!」


 勘助はすぐに太吉を見た。


「太吉、下がれ」


「でも!」


「下がれ」


 強めに言うと、太吉はびくりとした。


 母が太吉の肩を押さえ、後ろへ引いた。


 まず、よい。


 浪人の一人がにやりと笑う。


「おじさんだとよ。片目のおじさん、木刀一本で何をする気だ」


「斬る気はございませぬ」


「なら、引っ込んでろ」


「荷を返していただければ」


「返す? これは通行料だ。こいつらが勝手に俺たちの道を通った」


 そんな道理はない。


 だが、道理を説いて引く相手ではない。


 勘助は相手の足を見る。


 刀に手をかけた男は、正面。


 荷を掴んでいる男は荷車の左側。


 もう一人は村人の近く。


 弥平は畑側へ回っている。


 村人たちへ小声で何か言っているのが見えた。


 村人は少しずつ下がり始める。


 よい。


 ただし、まだ遅い。


 刀の男が一歩前へ出た。


「聞こえなかったか。引っ込め」


 勘助は下がらない。


「拙者は弱い」


 突然そう言うと、男たちは少し戸惑った。


「は?」


「刀を持つそなたら三人に、木刀一本で勝てるとは思っておりませぬ」


 男たちは笑った。


「分かってんじゃねえか」


「ならば、なおさら考えます」


 勘助は木刀を構えた。


 構えはまだ美しくない。


 だが、礼で学んだ。


 相手を見る。


 足元を見る。


 人の流れを見る。


「弱い者は、正面から強い者へ突っ込んでは死にますゆえ」


 男の顔が変わった。


「何をごちゃごちゃと」


 男が刀を抜きかけた。


 その瞬間、弥平が畑側から叫んだ。


「山本、車輪止め、外せる!」


 よし。


 勘助は動いた。


 前へ出るのではない。


 横へ。


 荷車の正面に立つ男ではなく、荷を掴んでいる男の足元へ木刀を伸ばす。


 男は驚いて手を引く。


 その一瞬で、勘助は荷車の柄を押した。


 同時に弥平が車輪止めを外す。


 荷車が、坂の力でわずかに動いた。


 ぎしり、と音が鳴る。


 浪人たちの目が一瞬そちらへ向く。


 米俵を掴んでいた男が慌てて押さえようとする。


 だが、坂で動き出した荷車は重い。


 完全に暴走するほどではない。


 しかし、人の足を乱すには十分だった。


「おい、止めろ!」


 男が荷車へ体を預ける。


 その足が、畑側の柔らかい土へ入った。


 沈む。


 勘助はそこを木刀で打たなかった。


 打てば相手は怒り、刀を抜く。


 代わりに、荷車の横に積まれていた野菜籠を木刀の柄で押した。


 籠が傾き、芋がいくつか転がる。


 柔らかい畑の土。


 転がる芋。


 荷車を押さえようとする男。


 足が滑った。


「うわっ!」


 男は尻餅をついた。


 村人たちが息を呑む。


 刀の男が怒鳴った。


「てめえ!」


 来る。


 勘助は正面から受けない。


 新九郎のように斬り込まない。


 安西のように押し返さない。


 次に生きる場所へ体を置く。


 道の右へ半歩。


 刀の男の足が荷車の軌道を避けて左へ寄る。


 そこには林の根がある。


 勘助は木刀を刀へ合わせず、男の視線の前へ突き出した。


 斬るためではない。


 目を一瞬止めるため。


 男は反射的に木刀を払おうとした。


 その足が根にかかる。


 完全には転ばない。


 だが、踏み込みが乱れた。


 そこへ弥平が米俵の端を押し戻す。


 荷車が斜めに止まった。


 道が塞がる。


 刀の男と村人の間に、荷車が壁になった。


「村人を下げろ!」


 勘助が叫ぶ。


 弥平がすぐに動いた。


「みんな、こっち! 走らない! 畑の端を歩いて!」


 弥平の声はよく通った。


 掃除で人の通り道を見てきた弥平だからこそ、どこを歩かせれば転ばないか分かる。


 村人たちは弥平に従い、畑の端を回って下がる。


 太吉も母に抱えられるようにして下がった。


 残る浪人は三人。


 一人は尻餅。


 一人は刀を抜きかけ、根に足を取られた。


 もう一人は、村人を追おうとして荷車に道を塞がれている。


 完全に勝ったわけではない。


 むしろ、ここからが危ない。


 怒らせた。


 勘助はそれを理解していた。


 刀の男が、ついに刀を抜いた。


「ふざけやがって……!」


 刃が光る。


 木刀とは違う。


 この距離で斬られれば、腕が飛ぶ。


 勘助の喉が乾いた。


 怖い。


 怖いが、足を置く。


 逃げる道は、背後。


 しかし背後には弥平と村人がいる。


 こちらへ走れば、村人の道を塞ぐ。


 なら、横。


 荷車の影。


 林の根。


 坂。


 男が斬り込んだ。


 速くはない。


 だが、本物の刃だ。


 勘助は木刀で受けない。


 受ければ折れるか、腕ごと持っていかれる。


 横へ沈む。


 左足が痛む。


 置く。


 刀が肩の近くを通った。


 服の端が裂けた。


 痛みはない。


 まだ斬られていない。


 勘助は木刀の先で男の手ではなく、荷車の柄を打った。


 荷車が少し跳ねる。


 男の足場がまた揺れる。


 だが、相手も浪人崩れとはいえ刀を持つ男だった。


 すぐに踏み直し、今度は横薙ぎに来る。


 避けきれない。


 勘助は木刀を斜めに置いた。


 刃を受けるのではなく、逸らす。


 木刀に鋭い衝撃が走る。


 表面が削れた。


 手が痺れる。


 肩が悲鳴を上げる。


 それでも、斬撃は逸れた。


 勘助は後ろへよろめく。


 刀の男が追う。


「山本!」


 弥平の声。


 弥平が横から飛び出そうとする。


「来るな!」


 勘助は叫んだ。


 弥平が止まる。


 その止まり方がよかった。


 畑へ入れば足を取られた。


 弥平は止まったことで生きた。


 勘助は刀の男を見る。


 怒っている。


 怒りで視野が狭い。


 荷車も、芋も、根も、村人の退路も見ていない。


 刀の男は勘助しか見ていない。


 なら、使える。


 勘助はわざと一歩下がった。


 弱く見せる必要はない。


 実際に弱い。


 男は嗤い、踏み込む。


「終わりだ!」


 その足は、最初に尻餅をついた男が散らした芋の上へ乗った。


 勘助はそれを見ていた。


 いや、弥平が見ていた。


 弥平が大声で叫ぶ。


「山本、右!」


 勘助は右へ体を置いた。


 男の足が滑る。


 完全には転ばない。


 だが、刀の軌道が乱れた。


 勘助は初めて、男の体へ木刀を当てた。


 胴ではない。


 腕でもない。


 膝の横。


 斬るためではない。


 倒すため。


 木刀が膝の外側を叩く。


 男の体が崩れる。


 そこへ荷車の傾いた柄がぶつかり、男はたまらず膝をついた。


 刀が地面へ落ちる。


 弥平がすぐに飛び込み、刀を蹴って遠ざけた。


「よし!」


 弥平が叫ぶ。


 だが、まだ二人いる。


 尻餅をついた男が起き上がり、もう一人が懐から短刀を抜きかけた。


 その時、村の方から複数の足音が聞こえた。


 村人たちが、鍬や棒を持って集まり始めていた。


 太吉の母が呼んだのだろう。


 あるいは、弥平が下がらせた村人たちが知らせたのか。


 浪人崩れたちは形勢を見た。


 刀の男は膝をつき、刀は離れている。


 村人が増えた。


 勘助と弥平はまだ立っている。


 勝てるかもしれないが、奪った荷を持って逃げるのは難しい。


「くそっ!」


 一人が吐き捨てた。


「覚えてろ!」


 浪人たちは刀の男を引きずるようにして、林の方へ逃げていった。


 追う者はいなかった。


 勘助も追わなかった。


 追えば、林で逆に斬られる。


 今の目的は、村人を守ること。


 荷を守ること。


 追撃ではない。


 弥平が大きく息を吐いた。


「……生きてる?」


「どうにか」


「肩」


 弥平に言われ、勘助は自分の肩を見た。


 服が裂けている。


 皮膚に浅く血が滲んでいた。


 刀がかすったのだ。


 急に痛みが来た。


「浅い」


「浅くても血出てる!」


 弥平は慌てて布を出した。


「じっとしてろ。動くな。いや、動くなって言ってもお前は見るんだろうけど」


「弥平殿」


「何だよ」


「助かった」


「こっちの台詞だよ」


 弥平は震える手で布を当てた。


「右って叫んだの、よく聞いたな」


「聞こえた」


「俺、芋見てた」


「よく見ていた」


「掃除で鍛えた」


 弥平はそう言って、少し笑った。


 笑いながら、目が潤んでいた。


「怖かった」


「拙者も怖かった」


「だよな」


「怖かった」


 二人はしばらく、荷車の横で息を整えた。


 村人たちが集まり、何度も頭を下げた。


 太吉が泣きそうな顔で走ってきた。


「勘助おじさん!」


「走るな」


「でも!」


「畑で転ぶ」


 太吉はぴたりと止まった。


 それからゆっくり歩いてきて、勘助の服の裂け目を見た。


「血、出てる」


「浅い」


「俺のせい?」


「違う」


 勘助はすぐに言った。


「太吉が下がったから、守れた」


「本当?」


「本当だ。あそこで前へ出ていたら、拙者はそなたを庇って倒れていた」


 太吉は唇を噛み、何度も頷いた。


「俺、下がった」


「よく下がった」


 太吉は泣きそうになりながら、少しだけ笑った。


 荷車の持ち主が深々と頭を下げる。


「ありがとうございます。米を取られていたら、村の何軒かが困るところでした」


 勘助は荷車を見た。


 米俵。


 野菜籠。


 散らばった芋。


 守ったのは、ただの荷ではない。


 村の飯だ。


 家の火と同じ。


 勘助は弥平と一緒に、散らばった芋を拾った。


 戦いの後に芋を拾う。


 それが妙に鹿島らしく思えた。


 太吉の家へ行き、薬草と布を渡すと、太吉の母は何度も頭を下げた。


 父親も床から身を起こそうとしたが、勘助が止めた。


「動かないでください」


「いや、恩人に寝たままでは」


「動けば、また太吉殿の荷が増えます」


 そう言うと、父親は苦笑して横になった。


「それは困るな」


 弥平が薬草の使い方を伝え、勘助は家の入口に立って周囲を見た。


 浪人崩れたちはまた来るかもしれない。


 すぐに対策が必要だ。


 村人たちに、荷を一人で運ばないこと、坂の分かれ道に見張りを置くこと、荷車を止める場所を変えることを伝えた。


 偉そうに命じるのではなく、見たままを話した。


「分かれ道で止まると、荷車が道を塞がれます。少し手前の広い場所で一度止め、二人で進む方がよいです」


「畑側は足を取られます。逃げるなら林側ではなく、畑の端をゆっくり。走れば転びます」


「芋は転がると足を滑らせます。籠は荷車の奥へ」


 弥平が横から付け加える。


「あと、車輪止めはすぐ外せるように。でも勝手に動かないように。結び方、俺が見ます」


 村人たちは真剣に聞いた。


 中には、木刀一本の若者二人にここまで言われることを面白く思わない者もいたかもしれない。


 だが、さきほど荷を守られたばかりだ。


 誰も笑わなかった。


 道場へ戻る頃には、空が赤くなっていた。


 勘助の肩はずきずき痛む。


 弥平も疲れ切っていた。


 門の前に着くと、新九郎が立っていた。


「遅い」


「すまぬ」


 新九郎は勘助の肩を見た。


 顔が険しくなる。


「斬られたのか」


「かすっただけだ」


「かすっただけで済んだ顔ではない」


「顔は元から」


「そういう冗談を言うな」


 新九郎の声は珍しく本気で怒っていた。


 その後ろから庄左と安西も来る。


 弥平が事情を説明した。


 浪人崩れ。


 荷車。


 坂。


 芋。


 村人を逃がしたこと。


 勘助が刀を受けず、逸らし、膝を崩したこと。


 話しているうちに、卜伝も縁側に現れた。


 弥平の説明を最後まで聞き、卜伝は勘助を見た。


「山本」


「はい」


「何をした」


 勘助は答えた。


「勝とうとはしませんでした」


「続けろ」


「倒すことではなく、村人を逃がすことを考えました。荷車を壁にし、坂で動かし、畑の足場と芋で相手の足を乱しました。相手を斬るのではなく、道を塞ぎ、足を崩しました」


「怖かったか」


「怖かったです」


「刀を見たか」


「見ました」


「自分の肩が斬られるのも見えたか」


「見えませぬでした。気づいたら裂けておりました」


「なら、まだ甘い」


「はい」


 新九郎が一歩出た。


「先生、山本は」


 卜伝は手を上げて止めた。


「弥平」


「はい」


「お前は何をした」


「村人を下がらせました。あと、車輪止めを外して、刀を蹴りました。芋も見ました」


「芋」


「はい。男が滑りそうだったので」


 卜伝は短く言った。


「よい」


 弥平は目を丸くした。


「よい、ですか」


「よい。掃除が働いた」


 弥平の顔が、今にも泣きそうに緩んだ。


 安西が低く言った。


「山本」


「はい」


「正面からなら負けていたな」


「はい」


「逃げていれば、村人は斬られていたかもしれん」


「はい」


「なら、今日はよく立った」


 勘助は息を止めた。


 安西が、そんなことを言うとは思わなかった。


 新九郎も少し驚いた顔をしている。


 庄左は静かに頷いていた。


 卜伝は最後に言った。


「木刀は、人を打つためだけにあるのではない」


 庭が静かになる。


「今日は、それを少し知ったな」


 勘助は深く頭を下げた。


「はい」


「だが、傷は傷だ。手当てを受けろ。明日は稽古を軽くする」


 勘助が顔を上げると、卜伝はすぐに続けた。


「軽くするだけだ。休みではない」


 弥平が小さく笑った。


「先生らしい」


 新九郎が勘助の肩を支えた。


「歩けるか」


「歩ける」


「強がるな」


「少し強がった」


「正直に言えばいいと思っているだろ」


「違うのか」


「時と場合による」


 庄左が布と水を用意し、弥平が薬草を探しに走った。


 安西は少し離れて立っていたが、やがて短く言った。


「次は、刀を見る時に肩も見ろ」


「難しい」


「だから稽古だ」


 その言葉に、勘助は少し笑った。


 夜、手当てを終えた勘助は、紙束を開いた。


 肩が痛むため、筆を持つ手も少し震える。


 それでも書いた。


『木刀は人を打つためだけではない。逃げ道を作る。荷車を壁にする。坂を使う。足場を見る。村人を走らせない。弥平、芋を見る。刀は怖い。肩は斬られるまで分からぬ』


 最後の一文を書いた時、思わず苦笑した。


 情けない。


 だが、書かなければ忘れる。


 今日、勘助は勝っていない。


 浪人崩れを成敗したわけでもない。


 刀を奪い、縄で縛り、華々しく村人に感謝されたわけでもない。


 ただ、逃がした。


 荷を守った。


 肩を斬られた。


 芋を拾った。


 それでも、勘助にとっては初めてだった。


 人を守るために木刀を振るった。


 そのことが、胸に残っている。


 鹿島神宮で誓った。


 人を死なせる道だけでなく、生かす道を見たいと。


 今日は、その道の入口を少しだけ見たのかもしれない。


 勘助は筆を置き、痛む肩を押さえた。


 この痛みも、忘れてはならない。


 刀は怖い。


 人を守るのは怖い。


 それでも、次も立てるようにならねばならない。


 夜の道場では、弥平がまだ興奮気味に新九郎へ話している声が聞こえた。


「本当に芋で滑ったんですよ!」


「芋を誇るな」


「でも先生がよいって!」


「掃除が働いたと言ったんだ。芋が偉いわけではない」


「芋も少し偉いです」


 庄左が静かに言う。


「芋の配置も兵法かもしれない」


「庄左さんまで!」


 安西の低い声も聞こえた。


「芋であれ石であれ、足を崩すものは侮るな」


 弥平が嬉しそうに笑った。


 勘助も寝床の中で、少しだけ笑った。


 鹿島の夜は、今日も静かではなかった。


 だが、その人の気配が、今は少しありがたかった。


 山本勘助は、痛む肩を抱えながら目を閉じた。


 人を守るための木刀。


 それは、勝つための木刀より、ずっと重かった。


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