第二十一話 強さの中で痛む者
安西左馬助の稽古は、重かった。
ただ木刀が重いのではない。
踏み込みが重い。
息が重い。
沈黙が重い。
庭に立つだけで、周りの空気が少し低くなる。
山本勘助は、その朝、稽古の列の端に立ちながら安西を見ていた。
もちろん、見すぎてはいけない。
それは分かっている。
昨日、安西に言われた。
人は、お前のために心を開いているのではない。
その言葉は、夜が明けても胸の奥に残っていた。
だから、勘助は安西の心を覗こうとはしなかった。
ただ、稽古を見る。
足を見る。
木刀を見る。
息を見る。
見えたものを、すぐ言葉にしない。
胸の中に置く。
置いて、腐らせず、膨らませず、ただそこに置いておく。
それもまた、稽古だった。
安西は新九郎と向かい合っていた。
鹿島の門弟たちの中でも、この二人の立ち合いは目を引く。
新九郎は鋭い。
安西は重い。
速さと重さ。
切り裂く者と押し潰す者。
木刀が交わるたび、庭の空気が乾いた音を立てた。
新九郎が右足で踏み込む。
いつもの鋭さ。
だが、以前より戻りが整っている。
勘助を教えるうちに、自分の踏み込みを見直したのだろう。
安西はそれを正面から受けた。
木刀がぶつかる。
重い音。
受けた安西は、わずかに沈み、そこから押し返す。
新九郎の木刀が跳ね上がる。
しかし新九郎も崩れない。
半歩引いて、すぐに角度を変える。
安西は追う。
追う足が重い。
けれど、ほんの少し。
本当にほんの少しだけ、安西の顎が下がった。
打ち込む前ではない。
打ち込んだ後。
新九郎に外された瞬間。
ほんの一息分、安西の顎が下がる。
悔しさか。
焦りか。
己への怒りか。
勘助には分からない。
だが、その一瞬で安西の上体がわずかに固まる。
新九郎は見逃さなかった。
木刀の先を返し、安西の胴へ浅く入れる。
当たった。
門弟たちの間から、小さな息が漏れる。
安西はすぐに体勢を戻した。
「もう一本」
低い声だった。
新九郎は少しだけ眉を動かす。
「安西殿、今のは」
「もう一本だ」
「……承知しました」
二人は再び構えた。
勘助は、安西の手を見た。
木刀を握る手が、わずかに強くなっている。
強すぎる。
安西ほどの者でも、悔しさで手が固くなる。
いや、安西ほどの者だからこそかもしれない。
強くなければならない。
負けてはならない。
外されてはならない。
そういう思いが、手に出ている。
勘助は、そのことを口にしなかった。
新九郎が踏み込む。
安西が受ける。
今度は安西の打ち込みが先に出た。
重い。
新九郎は受けずに外す。
安西は追う。
追いすぎた。
新九郎が横へ回る。
安西の木刀は空を切る。
戻りかけたところへ、新九郎の木刀が肩口に触れた。
二本目も新九郎。
庭の空気が重くなる。
安西は動きを止めた。
木刀の先を下ろさない。
肩で息をしている。
荒い息ではない。
しかし、抑え込んでいる息だった。
新九郎は木刀を下ろし、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました」
安西は少し遅れて頭を下げた。
「……こちらこそ」
それだけ言うと、安西は庭の端へ下がった。
誰もすぐには話しかけなかった。
弥平が勘助の横で、小さく呟く。
「安西さん、珍しく続けて取られましたね」
「新九郎殿が、よく見ていた」
「山本は、安西さんの方を見てただろ」
「見ていた」
「何か見えた?」
勘助は答えようとして、口を閉じた。
弥平が気づく。
「あ、言わない方がいいやつか」
「たぶん」
「そっか」
弥平はそれ以上聞かなかった。
その気遣いがありがたかった。
かわりに弥平は、箒を肩に担いで言った。
「俺さ、前なら安西さんが負けるところ見ると、ちょっと安心したかもしれない」
「安心?」
「強い人でも打たれるんだって。自分だけじゃないんだって。そう思って」
弥平は少し気まずそうに笑った。
「でも今は、何か見てて苦しかった」
「なぜ」
「分からない。でも、安西さんって、打たれた時に痛がるより先に、自分に怒ってる感じがする」
勘助は弥平を見た。
弥平も見ている。
自分だけではない。
弥平も、安西の痛みを少し感じている。
「弥平殿は、やはり人をよく見ている」
「だから、そういうの真顔で言うなって」
「本当のことだ」
「本当のことは、言い方を考えないと照れるんだよ」
弥平は耳を赤くして、掃除へ戻っていった。
その後、勘助は庄左と間合いの稽古をした。
昨日の夜稽古の続きだった。
近いか遠いか。
届くか届かないか。
見えるものと見えないものの間。
しかし、勘助の意識は何度も安西へ向かった。
庄左にすぐ指摘される。
「今、こちらを見ていなかった」
「すまぬ」
「安西殿か」
「……はい」
「何か見たな」
「見た。だが、言わぬ方がよいと思っている」
庄左は木刀を下ろした。
「それで、頭の中で抱え込んでいるのか」
「抱え込むのも違うのか」
「違うな。置けと言っただろう」
「置く場所が見つからぬ」
「なら、いったん稽古の外に置け。今は俺を見る」
勘助は庄左を見た。
「それを本人に言うところが、庄左殿らしい」
「言わなければ、お前は別の場所を見る」
「確かに」
「俺も同じだ。考えを置かずに立つと、相手の木刀に遅れる」
庄左は構え直した。
「山本。見えたものを大事にするなら、今は今の稽古を見ることだ」
勘助は深く息を吐いた。
「はい」
「返事が重い」
「軽くしてよいものか迷った」
「迷うな。構えろ」
庄左の言葉に従い、勘助は構えた。
安西のことはいったん置く。
消すのではない。
忘れるのでもない。
ただ置く。
それが難しい。
だが、庄左の木刀が目の前にある。
今、見なければならないものはそれだった。
昼飯の時、安西はいつもの席に座っていた。
粥を食べる手つきは変わらない。
背筋も伸びている。
誰かと話すわけでもない。
ただ、静かに食べている。
しかし勘助には、朝の二本が安西の中でまだ音を立てているように見えた。
見えた。
だが、見ただけにする。
弥平が隣で小声で言う。
「山本、見ないようにしてる顔が逆に見てるぞ」
「難しいな」
「難しいな」
新九郎が向かいに座った。
今日は少し口数が少ない。
勘助は新九郎を見る。
「新九郎殿」
「何だ」
「朝の立ち合い、見事だった」
新九郎は箸を止めた。
「安西殿の前で言うなよ」
「今は聞こえぬ距離だ」
「そういう問題ではない」
「では、言わぬ方がよかったか」
「いや……」
新九郎は珍しく言葉を濁した。
「見事と言われるほどではない。安西殿が少し力んでいた」
「それを見逃さなかった」
「先生なら、もっと早く見た」
「卜伝殿と比べるのか」
「比べるなと言われても、目の前にいる」
新九郎は苦く笑った。
「上には上がいる。先生を見ると、自分がどれほど足りないか分かる。安西殿を見ると、自分とは違う強さがあると分かる。庄左を見ると、静けさが足りないと分かる。お前を見ると……」
「拙者を見ると?」
「面倒なものが見える」
弥平が吹き出しかけた。
新九郎は続ける。
「だが、それも稽古になっている。腹立たしいが」
「それは、ありがたいと言ってよいのか」
「言うな」
「では、言わぬ」
新九郎は粥を食べながら、少しだけ安西の方を見た。
「安西殿は、強い」
「はい」
「強いが、負けるのが下手だ」
勘助はその言葉に、はっとした。
負けるのが下手。
自分は負けてばかりだから、負けの痛みは知っていると思っていた。
だが、安西は別の意味で負けに慣れていないのかもしれない。
強くなければならない者は、負けた時の置き場所がない。
負けを覚えろと卜伝に言われた時、勘助は自分のための言葉だと思っていた。
しかし、それは安西にも必要な言葉なのかもしれない。
「新九郎殿は、負けるのが上手いのか」
勘助が聞くと、新九郎は嫌そうな顔をした。
「上手いわけがないだろう」
「では」
「俺は負けたら腹が立つ。だが、先生に負けることも、安西殿に押されることも、庄左に間を外されることもあった。お前にも足場を使われた」
「小さな相打ちだ」
「いちいち訂正するな」
新九郎は少しだけ笑った。
「悔しいが、見れば次がある。見ないと、ただ腹が立つだけで終わる」
勘助は箸を止めた。
「それを、安西殿にも言うのか」
「俺が言えば喧嘩になる」
「拙者が言っても喧嘩になる」
「なら、誰も言うな」
弥平が小さく言った。
「先生なら言えますね」
三人は同時に黙った。
確かに、卜伝なら言える。
だが、卜伝は必要な時まで言わない。
その沈黙もまた、稽古なのだろう。
午後、安西は一人で庭に残って打ち込みをしていた。
強い音が響く。
一打。
また一打。
重い。
だが、朝より少し力が入りすぎている。
打つたびに、土が深く沈む。
木刀の先がほんのわずか乱れる。
門弟たちは遠巻きにしていた。
誰も近づかない。
勘助も近づかなかった。
ただ、道場の縁側で木刀の手入れをしながら、その音を聞いていた。
見ない。
だが、聞こえる。
音にも苛立ちが出ている。
木刀が空気を切る音。
足が土を踏む音。
息を吐く音。
どれも硬い。
弥平が隣で小声で言う。
「声かけないのか」
「かけぬ」
「珍しいな」
「今は、かける時ではないと思う」
「そっか」
弥平は少し安心したように笑った。
「山本も学んでるな」
「少しだけ」
「少しだけでいいんじゃないか。急に全部できたら怖いし」
そこへ卜伝が現れた。
安西の打ち込みをしばらく見ている。
止めない。
叱らない。
ただ見る。
安西は卜伝に気づいているはずだ。
それでも打つ。
打つ。
打つ。
やがて卜伝が言った。
「安西」
安西は木刀を止めた。
「はい」
「木刀が重いか」
「いいえ」
「では、何が重い」
安西は答えなかった。
庭が静まる。
勘助は縁側の端で、息を潜めていた。
卜伝の問いは、安西の中心へ向かっていた。
安西は長く沈黙した。
やがて、低く言った。
「……家の名です」
誰も動かなかった。
安西は続けた。
「父は、私に鹿島で名を上げろと言いました。兄は病で早くに亡くなりました。家の者は、私が強くなることを当然としております。弱いところを見せれば、家中が不安になる。負ければ、父の期待を裏切る」
声は震えていなかった。
だが、硬かった。
「私は、強くならねばなりません」
卜伝は静かに言った。
「強くならねばならぬ者は、よく力む」
「……はい」
「力めば、太刀は重くなる」
「はい」
「家の名を木刀に結ぶな」
安西は顔を上げた。
卜伝は続ける。
「家の名は背にある。木刀の先に乗せれば、手元が死ぬ」
安西は唇を引き結んだ。
「では、どうすれば」
「背負え」
「背負う?」
「捨てるな。振り回すな。背負え」
卜伝の声は、いつもより少し深かった。
「背負うものがある者は、背が曲がる。だが、背負い方を覚えれば、歩ける。木刀へ移すな。足へ逃がすな。腹に沈めろ」
安西は黙っていた。
しばらくして、深く頭を下げた。
「はい」
「今日はもう打つな」
「しかし」
「打つな」
短い言葉だった。
安西は木刀を下ろした。
「……承知しました」
卜伝はそのまま去った。
安西はしばらく庭に立っていた。
勘助は縁側から動かなかった。
見た。
聞いた。
だが、今は行かない。
それが正しいのかは分からない。
だが、少なくとも今、勘助の言葉は余計だと思った。
安西はやがて庭を出ていった。
その背は、いつもより少し重く見えた。
夜。
勘助は薪置き場の近くで、一人木刀を磨いていた。
すると安西が来た。
昨日と同じように、稽古後の静かな顔だった。
勘助は立ち上がり、頭を下げる。
「安西殿」
「座っていろ」
「はい」
安西は少し離れたところに腰を下ろした。
しばらく二人は黙っていた。
夜風が木々を揺らす。
虫の声がする。
安西が言った。
「今日の先生の話を聞いていたな」
「はい」
「隠さぬのか」
「聞こえておりました」
「そうか」
また沈黙。
勘助は何も言わなかった。
安西が続ける。
「何か言いたそうな顔をしている」
「言わぬ方がよいと思っております」
「なら、言うな」
「はい」
「……いや」
安西は少しだけ息を吐いた。
「一つだけ言え」
勘助は迷った。
ここで間違えれば、また踏み込みすぎる。
だが、安西が一つだけと言った。
なら、一つだけ。
「背負うものがある方の足は、重いのだと思いました」
安西は黙っている。
勘助はそれ以上言わなかった。
安西は夜の庭を見た。
「お前は、背負うものがないのか」
問われて、勘助は考えた。
「ないと思っておりました」
「今は?」
「少しずつ、増えております」
「何が」
「卜伝殿の言葉。新九郎殿の打ち込み。庄左殿との夜稽古。弥平殿の掃除。安西殿の重い足。母の言葉。父の沈黙。笑われた門前。泥で汚れた紙」
安西は少しだけ目を細めた。
「多いな」
「はい」
「それを全部背負うつもりか」
「背負い方を覚えねば、潰れると思います」
安西は小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
「先生の受け売りだな」
「はい」
「だが、悪くない」
その言葉は、安西の口から出ると妙に重かった。
勘助は頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「はい」
「明日、組む」
「はい」
「今日よりは、ましに来い」
「努めます」
「努めるだけでは足りん」
いつもの安西だった。
だが、昨日より少しだけ距離が違った。
安西は立ち上がり、去っていった。
勘助は木刀を膝の上に置いたまま、その背を見送った。
強さの中で痛む者。
安西左馬助。
その痛みは、勘助の痛みとは違う。
比べるものではない。
同情するものでもない。
ただ、そこにあるものとして見る。
そして、触れる時を誤らない。
それは、剣の間合いと同じくらい難しい。
いや、もっと難しいかもしれない。
勘助は夜の空を見上げた。
鹿島の月は細い。
片目では、少し滲んで見える。
だが、その滲みの中に、勘助はまた一つ、新しい間合いを知った気がした。
強い者へ近づく間合い。
痛みを語らぬ者のそばに立つ間合い。
そして、言葉を飲み込む間合い。
軍師になる道は、木刀を振るよりもずっと人の近くにある。
そのことを、勘助は少しずつ知り始めていた。




