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『醜いから仕官不要と追放された俺、武田信玄だけが「その目は天下を見ている」と言った 〜隻眼の軍師・山本勘助、見下した名門武家を戦場でざまぁする〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第二十二話 弥平、掃除で兵法を語る

 朝の鹿島は、掃除の音から始まる。


 山本勘助は、近頃それを知った。


 剣の道場だから、朝は木刀の音から始まるものだと思っていた。


 鋭い掛け声。


 踏み込みの音。


 木と木がぶつかる乾いた響き。


 そういうものが、鹿島の朝を作るのだと。


 だが実際には、もっと早い音があった。


 箒が土を撫でる音。


 水桶が置かれる音。


 井戸縄が軋む音。


 板の間を布で拭く音。


 木刀を並べ直す、かすかな木の音。


 それらが先にある。


 それらがあってから、剣の音が始まる。


 勘助はその朝、まだ薄暗い庭の端で、弥平が箒を動かす姿を見ていた。


 弥平の掃除は、やはり自然だった。


 稽古の時には、足が迷う。


 木刀を持つと肩が上がる。


 踏み込もうとすれば、どこかぎこちなくなる。


 けれど箒を持つと、別人のように足が落ち着く。


 落ち葉が溜まる場所へ、すっと体が移る。


 湿った土を削りすぎず、乾いた土を荒らしすぎず、苔を残すべき石は残し、滑りすぎる場所だけを払う。


 力は入っていない。


 だが、手を抜いているわけでもない。


 勘助は、その足運びから昨日の気づきを得た。


 踏み込むとは、強く踏むことばかりではない。


 次に生きる場所へ体を置くこと。


 弥平の掃除から、そう学んだ。


 それ以来、勘助の目には掃除がただの雑用には見えなくなっていた。


「……山本」


 箒を止めずに、弥平が言った。


「はい」


「見すぎ」


「すまぬ」


「謝っても見てる」


「見事だと思って」


「それは昨日も聞いた」


「昨日より見事に見える」


「やめろ。朝から変な汗が出る」


 弥平はそう言いながらも、少しだけ耳を赤くしていた。


 勘助は笑いそうになり、こらえる。


 すると弥平が振り返った。


「今、笑っただろ」


「笑いかけた」


「正直だな」


「嘘をつくほどのことではない」


「そういうところが変なんだよなあ」


 弥平は箒の柄を肩に乗せ、庭を見回した。


「今日は先生に言われた。山本に掃除をちゃんと教えろって」


「昨日も教わった」


「昨日のは入口。今日は少し細かいやつ」


「掃除にも細かい段階があるのか」


「あるよ。山本はすぐ兵法だ何だって言うけど、掃除もちゃんとやろうとすると面倒なんだぞ」


 その言葉には、少しだけ誇りがあった。


 弥平自身は気づいていないかもしれない。


 だが勘助には分かった。


 弥平は剣ではまだ自信を持てていない。


 けれど掃除に関しては、自分が道場を支えているという感覚がある。


 それを軽く扱ってはいけない。


 勘助は静かに頭を下げた。


「よろしく頼む」


「だから、そうやって真面目に頭下げるなって。掃除を教えるだけなんだから」


「掃除も兵法だと卜伝殿が仰った」


「それを言われると逃げ場がない」


 弥平は苦笑しながら、庭の中央を指した。


「まず、ここ。昨日の稽古で新九郎さんと安西さんがかなり踏んだから、土が少し沈んでる」


 勘助は指された場所を見る。


 確かに、わずかにくぼんでいる。


 朝露がそこへ集まり、小さく湿っていた。


「このままにすると?」


「踏み込んだ時に足が取られる」


「そう。特に新九郎さんみたいに強く踏む人は、足裏が一瞬沈む。本人なら戻せるけど、弥平くらいだと転ぶ」


「弥平殿が自分で言うのか」


「言うよ。転んだことあるし」


 弥平は少し遠い目をした。


「前にここで足を取られて、木刀ごと転んだ。新九郎さんに『庭に負けるな』って言われた」


「新九郎殿らしい」


「その後、先生に『庭に負けたのではない。庭を見ていなかった』って言われた」


「卜伝殿らしい」


「で、庄左さんが何も言わずに土をならしてくれた」


「庄左殿らしい」


「安西さんは見てなかった」


「……安西殿らしいのか?」


「その頃の俺は、本当に視界に入ってなかったんだと思う」


 弥平はさらりと言った。


 だが、その言葉の奥に少しだけ寂しさがあった。


 勘助は何か言おうとして、やめた。


 今は弥平が掃除を教える時間だ。


 傷に触れる時間ではない。


 弥平はしゃがみ、木の板でくぼみの縁を軽くならした。


「全部平らにすればいいわけじゃない。踏み跡を消しすぎると、今度はどこが沈みやすいか分からなくなる」


「消しすぎてもいけないのか」


「うん。先生は言ったんだ。『危うさを消しすぎるな。危うさがある場所を知れ』って」


 勘助は深く頷いた。


「戦場にも通じるな」


「出た」


「いや、本当に」


「分かってる。最近、俺もそう思うから困るんだよ」


 弥平は少し顔をしかめた。


「何でも戦場に見えてくる。庭のくぼみも、水桶の置き場も、板の軋みも。先生のせいだ」


 勘助は思わず笑った。


「拙者のせいではなく?」


「半分は山本のせい」


「半分は卜伝殿か」


「そう」


 弥平はそう言いながら、次に水場へ向かった。


「次、水場」


 井戸の周りは、朝のうちが一番忙しい。


 水を汲む者。


 桶を運ぶ者。


 布を濡らす者。


 台所へ向かう者。


 道場へ向かう者。


 勘助は、最初にここで桶の置き場を誤り、女衆の足を止めたことを思い出した。


 弥平は井戸の周りを示す。


「ここは、濡れる」


「水場だからな」


「うん。でも、濡れ方が場所によって違う。井戸のすぐ横は濡れて当然。皆も気をつける。危ないのは、少し離れたここ」


 弥平は足で、井戸から二、三歩離れた場所を示した。


 見た目には乾いているように見える。


 だが、よく見ると薄く湿っていた。


「桶を持ち替える時、水が跳ねる。ここだけ少し濡れる。見た目では分かりにくいから、急いでる人が滑る」


「そこを掃くのか」


「掃くというより、拭く。土を入れる時もある。あと、桶を置くならこっち」


 弥平は桶を置いて見せた。


 通る人の邪魔にならず、かつ汲む者がすぐ取れる位置。


 勘助はその配置を見た。


 道がある。


 水場にも道がある。


 人の流れ。


 手の動き。


 足の置き場。


 それらを乱さぬ場所がある。


「弥平殿」


「何」


「桶の置き場所を一つ誤るだけで、人が転ぶのだな」


「転ぶよ」


「戦で、兵糧の荷を置く場所を誤れば」


「大勢が転ぶ?」


「おそらく」


 勘助は水場を見つめた。


「荷の置き場。水の場所。休む場所。怪我人を通す道。全部、間違えれば人が詰まる」


「山本、顔が怖い」


「すまぬ」


「いや、今のはちょっと分かる。俺も水場で詰まると焦るし。たくさん人がいたら、もっと大変なんだろうな」


 弥平は桶を持ち上げた。


「でもさ、そういうのって、戦う前の話だよな」


「そうだ」


「戦う前に、もう勝ったり負けたりしてるのか」


 勘助は弥平を見た。


 弥平は何気なく言ったのだろう。


 だが、その言葉は重かった。


 戦う前に、もう勝ったり負けたりしている。


 卜伝が聞けば「覚えておけ」と言いそうな言葉だった。


「弥平殿」


「何」


「今の言葉は、かなり大事だ」


「え、どれ?」


「戦う前に、もう勝ったり負けたりしている」


 弥平は自分で言った言葉を思い出し、少し照れたような顔をした。


「いや、そんな大層なつもりじゃ」


「大層なつもりではない言葉ほど、時に本当のことを言う」


「またそういうことを真顔で言う」


「真顔でしか言えぬ」


「知ってる」


 水場の次は、道場の板の間だった。


 ここは弥平よりも庄左が詳しそうだと思ったが、弥平は意外に細かく知っていた。


「ここ、軋む」


「確かに」


「稽古中にここを踏むと、音で先生が振り向く」


「卜伝殿は音で分かるのか」


「たぶん全部分かる。俺がこっそり逃げようとした時も、音だけで呼ばれた」


「逃げようとしたのか」


「掃除が面倒で」


 弥平は悪びれずに言った。


「でも、その時先生に言われた。『逃げる足は、普段より音が出る』って」


「……卜伝殿らしい」


「それから、この板。少し滑る。雨の日は特に。だから拭き残すと危ない」


 弥平は布を出し、床を拭く動きを見せた。


「木刀はここへ置く。向きは揃える。柄が通路側に飛び出してると、足を引っかける」


「木刀の置き方まで」


「当たり前だろ。木刀って、人を打つ前に人を転ばせることもあるんだよ」


 勘助は、床に並べられた木刀を見た。


 確かに、置き方一つで危うさが変わる。


 柄が少し飛び出していれば、急ぐ者は足を引っかける。


 木刀の先が逆を向いていれば、取る時に一拍遅れる。


 その一拍が、稽古なら笑いで済む。


 だが戦場なら、命に関わるかもしれない。


「弥平殿」


「また何か思いついた顔だ」


「木刀の置き方も、兵の配置に似ている」


「はいはい、出ました」


「いや」


「分かってるよ。俺も言われると思った」


 弥平は木刀を一本持ち上げた。


「でも、配置っていうならさ。強い木刀とか弱い木刀ってないだろ」


「木刀に強弱はないな」


「でも、取りやすい場所にある木刀と、取りにくい場所にある木刀はある」


「……ある」


「人も、そういうのあるのかな」


 勘助は黙った。


 弥平は自分で何かを言い当てたような顔をして、少し慌てた。


「いや、今のも深い意味はないぞ。掃除の話だからな」


「いや、今のも大事だ」


「またかよ」


「強い者、弱い者だけではなく、置き場所がある。卜伝殿も仰っていた。人には、それぞれ置きどころがあると」


 太吉のことを思い出す。


 迷子の少年。


 怖がって走る。


 荷を背負うと崩れる。


 だが、使い方次第では役に立つ。


 木刀も同じ。


 人も同じ。


 置き場所を誤れば、強いものでも邪魔になる。


 置き場所を得れば、弱いものでも働く。


 弥平は少し恥ずかしそうに笑った。


「俺、今日は何か、いいこと言ってる?」


「言っている」


「やめろ。調子乗る」


「乗ってもよいのでは」


「乗ると転ぶ」


「それも兵法だな」


「便利すぎるって、その言葉」


 そこへ新九郎が入ってきた。


「朝から楽しそうだな」


 弥平が慌てて姿勢を正す。


「掃除を教えてました!」


「そう見える」


 新九郎は木刀の並びを見た。


 一本だけ、わずかに柄の向きがずれている。


 彼はそれを直した。


「弥平」


「はい」


「ここがずれている」


「あ、本当だ」


「山本に教えている時ほど、自分が崩れる」


「うっ」


 新九郎は勘助を見る。


「お前もだ。見る側になると、急に分かった気になるな」


「はい」


「掃除を教わったなら、午後の稽古で使え」


「掃除を?」


「足の置き方、道具の置き方、人の邪魔にならない場所。それを木刀でも考えろ」


「はい」


 弥平が小声で言う。


「新九郎さんも、最近何でも兵法にしますよね」


「聞こえている」


「聞こえるように言いました」


「度胸が出たな」


「山本に見られ続けてると、少し鍛えられます」


 勘助は苦笑した。


 新九郎も、ほんの少しだけ笑った。


 その昼、勘助と弥平は飯の支度を手伝った。


 飯を運ぶのもまた、弥平に言わせれば兵法だった。


「粥の椀は熱い。急ぐとこぼす。こぼすと床が滑る。滑ると誰かが転ぶ。転ぶと先生に怒られる」


「最後が一番重いのか」


「重いよ」


 弥平は真剣だった。


 椀を並べる位置。


 座る者の流れ。


 食べ終えた後に片づけやすい向き。


 それらを弥平は何気なく整えていく。


 勘助は感心した。


「弥平殿は、先回りしているのだな」


「先回り?」


「誰かが失敗する前に、失敗しにくくしている」


 弥平は少し考えた。


「うん……そうかもな。誰かが転ぶ前に拭く。誰かがぶつかる前にどける。誰かが取りづらい前に置き直す」


「それは兵法だ」


「今日は何回それ言うんだよ」


「何度でも言える」


「言わなくていい」


 だが、弥平はどこか嬉しそうだった。


 昼飯の席で、勘助は弥平の言葉を新九郎や庄左に話した。


「弥平殿は、失敗する前に先回りしている」


 弥平は慌てた。


「ちょ、山本、言わなくていいって」


 新九郎は箸を止めた。


「失敗する前に先回り、か」


 庄左も静かに頷く。


「よい言葉だな」


 弥平はますます照れた。


「いや、俺は掃除の話をしただけで」


 安西も少し離れた席から聞いていたらしい。


 彼は粥をすすりながら言った。


「掃除の話で済ませるな」


 弥平は背筋を伸ばした。


「はい!」


「人が転ぶ前に拭く。人が詰まる前にどける。木刀を取りやすいように置く。戦場なら、それが兵の命を拾うこともある」


 安西の言葉に、弥平は目を丸くした。


 安西が弥平の掃除を認めるようなことを言うとは思っていなかったのだろう。


 新九郎も少し驚いた顔をしている。


 安西は表情を変えずに続けた。


「ただし、掃除で満足するな。お前は木刀を持つ者でもある」


「はい」


「掃除で見えているものを、稽古で捨てるな」


「はい!」


 弥平の返事は、いつもより強かった。


 勘助はその様子を見て、胸の奥が少し温かくなった。


 弥平が認められた。


 それが嬉しかった。


 午後の稽古では、卜伝が弥平を呼んだ。


「弥平」


「はい!」


「掃除の足で歩け」


「……木刀は?」


「持つな」


 弥平は戸惑いながら庭へ出た。


 箒もない。


 木刀もない。


 ただ歩く。


 卜伝は言った。


「朝、庭を掃くように歩け」


 弥平は一度深く息を吐いた。


 そして、歩いた。


 最初はぎこちなかった。


 門弟たちの視線がある。


 自分が見られている。


 それだけで体が固くなる。


 しかし、弥平は途中で庭の落ち葉を見た。


 風を見た。


 いつも掃く場所を見た。


 すると、足が少しずつ自然になった。


 次の落ち葉がある場所へ、体が向かう。


 掃除の時の足だ。


 卜伝は言った。


「それでよい」


 弥平の顔がぱっと明るくなりかけた。


 すぐに卜伝が続ける。


「だが、喜ぶと崩れる」


 弥平の足が本当に少し崩れた。


 周囲に笑いが起きる。


 だが、今日の笑いは軽い。


 弥平を嘲るものではなかった。


 弥平自身も苦笑している。


「先生、早いです」


「崩れる方が早い」


「はい……」


 卜伝は次に木刀を持たせた。


「同じ足で構えろ」


 弥平は木刀を持つ。


 途端に肩が上がる。


 卜伝が言う。


「木刀を持つと、掃除を忘れる」


「はい」


「忘れるな」


「はい」


 弥平は何度も試した。


 木刀を持つと固くなる。


 箒を思い出すと少し戻る。


 構えようとすると崩れる。


 落ち葉を集める足を思い出すと、また少し戻る。


 勘助はそれを見ながら、自分のことのように感じた。


 自分も同じだ。


 木刀を持つと、木刀ばかりになる。


 剣を学ぶと、剣だけを見る。


 だが、掃除も、水も、道も、飯も、すべてつながっている。


 卜伝はそれを見せている。


 弥平を通して。


「山本」


 卜伝が呼んだ。


「はい」


「弥平と組め」


「はい」


 弥平がぎょっとする。


「え、俺と山本ですか?」


「そうだ」


「俺、まだ」


「まだだからやる」


「はい……」


 二人は向かい合った。


 木刀を持つ。


 弥平の構えはまだ不安定だ。


 だが、足は朝より少し落ち着いている。


 勘助は、相手を倒すのではなく、足を見ることにした。


 自分も、次の場所へ体を置く。


 弥平も、掃除の足を忘れないようにする。


 卜伝が言った。


「打ち合うな。互いに、相手の邪魔にならぬ場所へ動け」


 勘助は一瞬、意味を掴み損ねた。


「邪魔にならぬ場所、でございますか」


「そうだ」


 剣の稽古で、相手の邪魔にならない。


 奇妙な命令だった。


 だが、弥平は少し分かった顔をした。


「掃除の時みたいに、相手の通り道を塞がないってことか」


「そうだ」


 卜伝は短く言った。


 二人はゆっくり動き始めた。


 打ち込まない。


 ただ、木刀を構えたまま、相手の動線を塞がぬよう歩く。


 しかし難しい。


 相手を見ると、自分の足が止まる。


 自分の足を見れば、相手の邪魔になる。


 弥平が右へ行くと思って空けると、弥平は左へ迷う。


 勘助が避けすぎると、今度は自分が石の近くへ寄りすぎる。


 何度もぶつかりそうになった。


 そのたびに弥平が笑う。


「難しいな、これ」


「打ち合うより難しいかもしれぬ」


「いや、打ち合いは怖い」


「それはそうだ」


 卜伝が言う。


「人を動かす者は、人の邪魔を知れ」


 二人は止まった。


 卜伝は続ける。


「味方の道を塞ぐな。逃げる者の道を塞ぐな。水を運ぶ者の道を塞ぐな。怪我人の戻る道を塞ぐな。敵を斬ることばかり考える者は、味方を転ばせる」


 勘助の胸に深く入った。


 敵を斬ることばかり考える者は、味方を転ばせる。


 それは、自分に向けられた言葉でもあった。


 軍師になる道。


 敵を倒す策だけでは足りない。


 味方が転ばぬ道。


 逃げる道。


 戻る道。


 水の道。


 飯の道。


 それを見る。


 弥平の掃除は、まさにそれだった。


 稽古が終わった後、勘助は弥平と一緒に水場へ戻った。


 二人とも疲れていた。


 打ち合っていないのに、妙に疲れた。


 弥平が水を飲みながら言った。


「今日、俺、ちょっと役に立った?」


 その声は、少し冗談めかしていた。


 だが、奥には本気があった。


 勘助はすぐには答えなかった。


 軽い言葉で済ませたくなかった。


「役に立った」


「本当に?」


「本当に」


「掃除で?」


「掃除で」


 弥平は瓢を見つめた。


「剣で役に立ちたいんだけどな」


「掃除で見えているものを、剣へ持っていけばよいと安西殿が言っていた」


「うん」


「弥平殿は、人が失敗する前に先回りできる。それは、戦場に出ずとも人を生かす目だ」


 弥平は動きを止めた。


「……それ、褒めすぎじゃないか」


「そうか」


「そうだよ。俺、ただ掃除してるだけだぞ」


「ただ掃除しているだけで、人を転ばせないようにしている」


「……」


「それは、人を生かしている」


 弥平はしばらく何も言わなかった。


 やがて、顔を背ける。


「やめろよ」


「何を」


「そういうの。急に、胸が変になるだろ」


「すまぬ」


「謝るな。いや、謝ってもいいけど」


 弥平は水をもう一口飲んだ。


「俺さ、鹿島に来た時、剣で強くなりたかったんだ」


「はい」


「今もなりたい。でも、みんなみたいに上手くできなくて、掃除ばっかり上手くなって。何しに来たんだろうって思う時もあった」


 その声は、いつもの明るさより少し低かった。


「でも、今日、掃除も少しは剣につながるのかなって思った。山本が昨日、俺の足を見て踏み込み掴んだって言った時も、ちょっと嬉しかった」


「はい」


「だからさ」


 弥平は照れくさそうに笑った。


「明日も掃除する」


 勘助は頷いた。


「拙者も手伝う」


「落ち葉の山、崩すなよ」


「気をつける」


「桶の位置も間違えるなよ」


「気をつける」


「木刀の柄を通路に出すなよ」


「気をつける」


「全部気をつけるだけじゃ足りないって、先生なら言うな」


「言うだろうな」


 二人は少し笑った。


 夜。


 勘助は寝床に入る前、庭の端に立った。


 弥平が掃いた庭は、静かだった。


 危うさは消えすぎていない。


 だが、誰かが不用意に転ぶ場所は減っている。


 石の苔は半分残り、半分落とされている。


 水場の桶は、通り道を塞がぬ場所に置かれている。


 木刀は柄の向きを揃えて並べられている。


 人が失敗する前に、先回りする。


 それも兵法。


 敵を倒す策ではない。


 派手な勝利でもない。


 だが、誰かを転ばせないための備え。


 いつか自分が戦場を見る時、これを忘れてはならない。


 兵が走る道。


 荷が通る道。


 怪我人が戻る道。


 水を汲む場所。


 飯を配る順番。


 木刀一本の置き方が人を転ばせるなら、荷車一台の置き方で部隊は詰まる。


 勘助は静かに呟いた。


「掃除も、兵法」


 以前なら、ただの言葉だった。


 今は、少しだけ体に入っている。


 そこへ、背後から弥平の声がした。


「山本、寝ないのか」


「今行く」


「明日、朝早いぞ。掃除あるし」


「分かっている」


「落ち葉、多いぞ」


「それも兵法か」


「そう。落ち葉も兵法」


 弥平は少し得意げに言った。


 勘助は笑った。


 鹿島の夜は静かだった。


 木刀の音はもうない。


 だが、庭には朝から積み重ねられた稽古が残っている。


 掃除の跡。


 足跡。


 水場の湿り。


 木刀の向き。


 それらすべてが、勘助には小さな兵法書のように見えた。


 剣聖の道場で学ぶものは、剣だけではない。


 人を転ばせないための箒。


 それを、勘助はこの日、弥平から学んだ。


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