第二十話 安西左馬助の苛立ち
安西左馬助は、強い男だった。
少なくとも、山本勘助の目にはそう映っていた。
踏み込みは重い。
打ち込みは鋭い。
木刀を構えれば、庭の空気が少し沈む。
新九郎のように速さで間を裂くのではない。
庄左のように静かに距離を詰めるのでもない。
安西は、正面から来る。
逃げ道を潰すように。
言い訳を踏み砕くように。
弱い者が、弱いままそこに立っていることを許さぬように。
その圧が、勘助は苦手だった。
新九郎には口の悪さがある。
だが、新九郎の怒りは熱い。
近づけば火傷するが、火の向きは分かる。
庄左は静かだ。
時折、何を考えているのか読めなくなるが、声に棘は少ない。
弥平は明るい。
自分の弱さを茶化しながら、それでも人の痛みに気づくところがある。
だが、安西は違った。
安西の厳しさは、硬い。
石のように。
正しく、重く、逃げ場がない。
だからこそ、勘助は安西を見る時、いつも少し身構えてしまう。
その朝もそうだった。
鹿島の庭には、前夜の湿り気が残っていた。
弥平が掃いた場所は乾き始めているが、松の影はまだ暗い。鳥の声が遠くで鳴り、道場の板の間から門弟たちの足音が聞こえてくる。
勘助は庄左との夜稽古の疲れを残したまま、木刀を持って庭に立っていた。
片目の間合い。
見えぬものを、音や息や足裏で測る。
少しだけ掴んだ気がしていた。
だが、朝になり、目が見える場所へ戻ると、それはすぐに逃げていった。
見えるから、また目に頼る。
目に頼るから、距離が狂う。
距離が狂うから、体が固まる。
体が固まるから、足が逃げる。
何度も繰り返しているうちに、安西が近づいてきた。
「山本」
「はい」
「構えろ」
短い言葉だった。
勘助は木刀を構える。
安西も構えた。
朝稽古の組み合わせとしては珍しくない。
だが、勘助の胸は沈んだ。
安西の前に立つと、自分の弱さが言い訳ごと押し潰される気がする。
それを見透かしたように、安西が言った。
「嫌な顔をするな」
「顔に出ておりましたか」
「出ている」
「拙者の顔は、出ぬとよく言われておりました」
「出る。見ようとすればな」
その言葉に、勘助は少し驚いた。
安西は続ける。
「お前だけが人を見ると思うな」
胸を突かれた。
勘助は返す言葉を探したが、見つからない。
安西は木刀を構えたまま言った。
「来い」
「はい」
勘助は踏み込んだ。
昨日掴みかけた、次の場所へ体を置く足。
それを意識する。
だが、安西の圧が近づいた瞬間、体が引けた。
木刀の先が届く前に、安西の木刀が上から押さえ込む。
重い。
受けたつもりが、腕ごと沈む。
安西はそのまま一歩詰め、勘助の肩を軽く打った。
軽く、とはいえ安西の打ちだ。
痛みが走る。
「浅い」
「はい」
「次」
二度目。
今度は深く踏み込もうとした。
だが、痛む足が遅れ、体が前へ流れる。
安西はそこを逃さない。
木刀の腹で勘助の木刀を弾き、胸元へ柄を押し当てた。
勘助は後ろへよろめき、どうにか倒れずに残った。
「深ければよいというものではない」
「はい」
「次」
三度目。
距離を測る。
遠い。
いや、近い。
安西の打つ気が前へ出る。
距離以上に近く感じる。
それに怖じて、勘助は動けなかった。
安西の木刀が、勘助の木刀の先を軽く叩く。
その一打だけで、構えが崩れた。
「見て止まるな」
「はい」
「次」
四度目。
勘助は安西の足を見る。
強い足。
重い足。
正面を潰す足。
その足が来る前に避けようとした。
だが、安西は来なかった。
勘助だけが半歩ずれ、木刀の先が中心から外れる。
そこを打たれる。
「逃げたな」
「……はい」
「次」
何度も打たれた。
新九郎に打たれる時とは違う。
新九郎の打ちは、速さでこちらを置き去りにする。
安西の打ちは、こちらの弱さを正面から踏みつけてくる。
逃げたくなる。
怒りたくなる。
言い訳をしたくなる。
だが、安西は言い訳を許さない。
「山本」
「はい」
「お前は、弱さを見ていると言う」
安西は木刀を下ろさずに言った。
「はい」
「なら、今の弱さを言え」
勘助は息を切らしていた。
肩が痛い。
手も痺れている。
左足は熱を持ち、呼吸は浅い。
だが、それだけではない。
「……安西殿の打ちを、怖がりました」
「他には」
「押される前から、押されると思いました」
「他には」
「踏み込む前に、負ける形を想像しました」
「他には」
容赦がない。
勘助は唇を噛んだ。
「安西殿を、ただ厳しい方として見ておりました」
安西の目が少し動いた。
「どういう意味だ」
「拙者を見下している。弱さを許さない。そういう方だと」
「違うと思うか」
「分かりませぬ」
勘助は正直に答えた。
「ですが、それだけではないのではないかと、今思いました」
「なぜ」
「打ちが、怒りだけではないからです」
安西は黙った。
庭の周囲で見ていた門弟たちも、少し静かになる。
勘助は続けた。
「怒りはあります。苛立ちも。ですが、それだけなら、もっと雑に打つはずです。安西殿の打ちは重いですが、雑ではありませぬ。拙者を潰すことだけが目的なら、もっと簡単に潰せるはずです」
安西の顔が険しくなる。
「分かったような口を利くな」
「すみませぬ」
「謝るな」
「はい」
「お前の悪い癖だ。見えたものを、すぐ言葉にする」
安西は木刀を下ろした。
「人は、お前のために心を開いているのではない」
その言葉は、木刀より痛かった。
勘助は頭を下げる。
「はい」
「先生にも言われているはずだ。人の恐れは傷と同じだと」
「はい」
「なら、触れるな。少なくとも、今は」
「はい」
安西は背を向けた。
「今日の稽古は終わりだ」
「え」
思わず声が出た。
安西は振り返らずに言う。
「お前は今、剣ではなく人を見ようとしすぎている。剣を握っている時に、それをやるな。斬られるぞ」
そう言って、安西は去っていった。
勘助は庭に残された。
肩は痛い。
だが、それ以上に胸が痛かった。
自分はまた、踏み込んではいけない場所へ踏み込んだのかもしれない。
新九郎の時もそうだった。
何かから逃げているように見える。
そう言って怒らせた。
卜伝に戒められた。
見えたからといって、口にするな。
見えぬふりをすれば腐る。
だが、無造作に触れれば膿む。
分かっていたつもりだった。
つもりだけだった。
弥平が水を持って近づいてくる。
「山本」
「……失敗した」
「うん」
弥平は正直に頷いた。
「今のは、ちょっと踏み込みすぎたと思う」
「足ではなく、言葉でか」
「そう。足より先に、言葉が踏み込みすぎた」
弥平らしい言い方だった。
勘助は苦笑しようとしたが、できなかった。
「弥平殿にも分かるほどか」
「分かるよ。安西さん、怒ってた。でも、怒ってるだけじゃなかった」
「弥平殿にもそう見えたか」
「うん。けど、それを今言われたくなかったんだと思う」
弥平は瓢を渡した。
「水、飲め」
「かたじけない」
「礼はいい。いや、今は言ってもいいか」
勘助は水を飲んだ。
冷たい。
だが、胸の熱は引かない。
そこへ庄左が来た。
「山本」
「はい」
「安西殿の言葉は、聞いた方がいい」
「聞いております」
「いや、今は胸に刺さっているだけだ。後で逃げるなという意味だ」
勘助は庄左を見た。
庄左は静かだった。
「俺も考えすぎて、人を見誤ることがある」
「庄左殿も?」
「ある。相手の言葉の裏を考えすぎて、目の前の言葉を聞かなくなる」
「拙者は、見えた気になって触れてしまう」
「そうだな」
庄左は否定しなかった。
その否定しないところが、ありがたかった。
「安西殿は、強い。だが、強いから痛まないわけではない」
勘助は卜伝の言葉を思い出した。
弱い者だけが痛むと思うな。
強い者は、強さの中で痛む。
「強さの中で痛む」
勘助は呟いた。
庄左は頷く。
「お前には、そこがまだ見えていない。いや、見えかけて、焦って触れた」
「はい」
「見えたものを大事にするなら、急ぐな」
勘助は深く息を吐いた。
「はい」
その日の午前は、そこから安西と組むことはなかった。
勘助は新九郎と基礎の型を繰り返し、弥平と掃除をし、庄左と短い間合いの確認をした。
だが、ずっと安西の言葉が残っていた。
人は、お前のために心を開いているのではない。
その通りだった。
勘助は、見えることに少し甘え始めていたのかもしれない。
相手の足。
肩。
呼吸。
言葉の端。
そこから何かを読む。
それは確かに勘助の力になりつつあった。
だが、読まれる側の痛みを忘れていた。
見られることは、怖い。
勘助自身、門の内側に入ってそれを知ったはずだった。
人の視線が近いこと。
寝息まで聞こえること。
失敗を見られること。
弱さを見られること。
それが怖いと知っているはずなのに、他人を見る時には忘れてしまう。
昼飯の時、安西はいつもの席で黙って粥を食べていた。
勘助は離れた端の席から、その姿を見た。
見すぎるな。
そう思い、すぐ視線を落とす。
すると、新九郎が向かいから言った。
「見るなと言われて、本当に見ないのも違う」
勘助は顔を上げた。
「難しいことを言う」
「お前が難しくしている」
「安西殿を怒らせた」
「怒らせたな」
新九郎は粥をすすった。
「だが、安西殿は怒って終わる人ではない」
「そうなのか」
「そうだ。あの人は、自分にも厳しい。他人だけに厳しいなら、俺も嫌いになっている」
弥平が小声で言う。
「新九郎さん、安西さんのこと苦手だけど嫌いじゃないですよね」
「弥平」
「はい」
「飯を食え」
「はい」
庄左が静かに言った。
「安西殿は、家からの期待が大きい」
勘助は庄左を見る。
庄左は声を落として続けた。
「詳しく語るべきではないが、下総の家では名を立てることを望まれているらしい。鹿島で学び、強くなり、家に戻って武名を示す。それが安西殿の役目だ」
「役目」
「そうだ。俺のような二男の余り者とは違う」
庄左は自分でそう言ったが、声に卑屈さはなかった。
「安西殿は、強くなければならない。最初からそういう場所に立っている」
新九郎が少しだけ黙る。
彼にも通じるものがあるのだろう。
家柄。
期待。
強くあらねばならぬという重み。
勘助には、逆に縁遠かったものだ。
自分は期待されなかった。
むしろ、失望される前に諦められていた。
その痛みは知っている。
だが、期待され続ける痛みを、知らない。
弥平が粥を混ぜながら言った。
「強い人って、悩まないのかと思ってた」
新九郎が少し苦い顔をする。
「そんなわけがない」
「ですよね。最近、そう思います」
弥平はちらりと勘助を見た。
「山本が来てから、みんな色々見えるようになっちゃった気がする」
「それは拙者のせいか」
「半分は」
「残り半分は」
「先生のせい」
その言葉を聞いて、三人は少しだけ周囲を見た。
卜伝はいない。
いないが、どこかで聞いている気がする。
昼飯の後、勘助は卜伝に呼ばれた。
庭ではなく、道場の奥にある縁側だった。
卜伝は座って茶を飲んでいる。
勘助は少し離れて正座した。
「安西を怒らせたか」
最初の言葉がそれだった。
勘助は頭を下げた。
「はい」
「何をした」
「見えたものを、すぐ言葉にしました」
「何が見えた」
勘助は少し迷った。
言ってよいのか。
また踏み込みすぎるのではないか。
卜伝は言った。
「ここでは言え」
「はい」
勘助はゆっくり答えた。
「安西殿の打ちには怒りがあります。ですが、ただ拙者を潰したいだけではないように思いました。強くあらねばならぬという焦り、あるいは……弱さを見せる者への苛立ちがあるように見えました」
「なぜ苛立つ」
「自分は弱さを見せることを許されていないからではないかと」
卜伝は茶を置いた。
「それを安西に言ったのか」
「近いことを言いました」
「早い」
「はい」
「浅い」
「はい」
「だが、見当外れではない」
勘助は顔を上げた。
卜伝は庭を見ている。
「安西は強い」
「はい」
「だが、強さの中で固まっている」
「固まる」
「強くなければならぬ者は、弱さの置き場所を失う。弱さを置く場所がない者は、他人の弱さを見ると苛立つ」
勘助は黙って聞いた。
「お前は弱さを見せすぎる」
「はい」
「安西は弱さを隠しすぎる」
「はい」
「どちらも危うい」
卜伝は勘助を見た。
「お前は、自分だけが痛いと思うな」
「はい」
「醜いと言われた者だけが痛むのではない。期待された者も痛む。強い者も痛む。美しい者も痛む。家を背負う者も痛む。余った者も痛む。掃除ばかりしている者も痛む」
弥平の顔が浮かんだ。
庄左の言葉も。
新九郎の沈黙も。
安西の重い踏み込みも。
「痛みを比べるな」
卜伝は言った。
「見るなら、それぞれの痛みを別のものとして見ろ」
「はい」
「そして、触れる時を誤るな」
「はい」
「軍師になる者が、人の痛みを見誤れば、兵は死ぬ」
胸が冷えた。
剣の稽古の話ではなくなっている。
だが、これこそが卜伝の稽古なのだろう。
勘助は深く頭を下げた。
「覚えます」
「忘れる」
いつもの言葉だった。
「だから、また痛め」
「……はい」
その夕方、勘助は道場の裏手で薪を運んでいた。
弥平に頼まれた仕事だった。
足は痛いが、水桶よりはまだ運びやすい。
薪を積み直していると、安西がやってきた。
稽古後らしく、額に汗が残っている。
勘助はすぐに頭を下げた。
「安西殿」
「朝のことを気にしている顔だな」
「はい」
「顔に出ている」
「今日はよく言われます」
安西は少しだけ眉を動かした。
沈黙が落ちる。
勘助は言うべきか迷った。
謝るべきだ。
だが、軽く謝ればまた傷に触れる。
言葉を選んでいると、安西が先に言った。
「謝るなら、短くしろ」
勘助は頭を下げた。
「踏み込みすぎました。申し訳ございません」
「よい」
意外なほど短い返事だった。
勘助は顔を上げる。
安西は薪の束を見ていた。
「お前の言ったことは、不愉快だった」
「はい」
「だが、不愉快な言葉が必ず外れているとは限らん」
安西は一本の薪を手に取った。
「俺は、弱さを見せる者が好きではない」
勘助は黙って聞いた。
「見せれば誰かが拾ってくれると思っている者がいる。傷を見せれば、努力の不足まで許されると思っている者がいる。俺はそういう者が嫌いだ」
薪を置く音がした。
「だが」
安西は続けた。
「弱さを一切見せるなと言われ続けるのも、息が詰まる」
それは、安西が初めて見せた隙のような言葉だった。
勘助は動かなかった。
ここで余計なことを言えば、また踏み込みすぎる。
だから、黙っていた。
安西は少しだけ勘助を見た。
「今日は何も言わぬのか」
「言えば、また触れすぎると思いました」
「少しは学んだか」
「少しだけ」
「少しでは足りん」
「はい」
安西は木刀を持ち直した。
「山本」
「はい」
「お前は弱い」
「はい」
「だが、弱いことを逃げ道にしないなら、見る価値はある」
その言葉は、安西なりの評価だった。
勘助は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。評価ではない」
「では」
「保留だ」
「保留」
「そうだ。俺はお前をまだ認めん。だが、見ないことにするほどでもない」
安西は背を向けた。
「明日、また組む」
「はい」
「今度は、言葉ではなく木刀で来い」
「はい」
安西は去っていった。
勘助はしばらく薪の前に立っていた。
保留。
認められてはいない。
だが、見ないことにするほどでもない。
それだけで十分だった。
鹿島へ来たばかりの勘助なら、それを冷たい言葉として受け取ったかもしれない。
だが今は違う。
見てもらえることの重さを、少し知っている。
門前で笑われた時、誰も本当には見ていなかった。
顔を見て、片目を見て、足を見て終わりだった。
安西はまだ認めない。
しかし、見てはいる。
それは前進だった。
夜。
勘助は寝床に入る前、庭に立った。
安西の重い踏み込みを思い出す。
強い者の痛み。
期待される者の苦しさ。
弱さを見せられない者の息苦しさ。
それは、勘助がこれまであまり知らなかった痛みだった。
自分は、弱い者として痛んできた。
醜い者として痛んできた。
追い出される者として痛んできた。
だが、世の中には別の痛みがある。
強く見える者にも。
恵まれて見える者にも。
家名を持つ者にも。
役目を背負う者にも。
その痛みを見落とす軍師になれば、きっと兵を見誤る。
勘助は小さく息を吐いた。
「痛みを比べるな」
卜伝の言葉を呟く。
「それぞれの痛みを、別のものとして見ろ」
鹿島の夜風が、庭を渡る。
安西左馬助の苛立ちは、まだ消えない。
勘助への不満も、消えない。
だが、その奥にあるものを、勘助は少しだけ見た。
そして、今度はすぐに触れなかった。
それもまた、小さな稽古だった。
木刀を振るより難しい、人との間合い。
勘助はその間合いを、夜の庭で静かに測り直していた。




