第十九話 片目の間合い
間合いは、目で測るものだと思っていた。
相手との距離。
木刀の先。
足が届く場所。
踏み込めば当たるか、届かぬか。
斬られる前に退けるか、退けぬか。
それらは、目で見れば分かるものだと。
だが山本勘助にとって、それは最初から少し違っていた。
片目。
その欠けは、ただ視界が狭いというだけではない。
距離が狂う。
相手の木刀の先が、思ったより近い。
逆に、届くと思った打ち込みが、わずかに遠い。
真正面ならまだよい。
しかし、斜めに動かれると途端に分からなくなる。
木刀の先が揺れる。
相手の肩が動く。
足が出る。
それらが重なった瞬間、勘助の片目は距離を掴み損ねる。
この日の稽古は、それを徹底的に思い知らされるものだった。
朝の庭。
卜伝は勘助と新九郎を向かい合わせに立たせた。
「今日は間合いだ」
その一言を聞いた瞬間、勘助の胸の奥が少し沈んだ。
新九郎が横目で見る。
「嫌な顔をしたな」
「したか」
「した」
「なら、したのだろう」
「正直すぎる」
新九郎は木刀を軽く構えた。
「間合いは嫌か」
「嫌だ」
「なぜ」
「外れる。近いと思えば遠く、遠いと思えば近い」
「片目だからか」
その言葉に、庭の空気が少しだけ固くなった。
新九郎は侮辱として言ったのではない。
ただ事実を問うた。
勘助もそれを分かっていた。
「そうだ」
勘助は答えた。
「片目だからだ」
以前なら、その言葉を口にするだけで、喉の奥が苦くなった。
だが今は、少し違う。
不利を不利でないと言えば嘘になる。
卜伝にそう言われた。
だから、認める。
片目だから、間合いが狂う。
それは事実だ。
新九郎は頷いた。
「なら、今日はそこを誤魔化すな」
「誤魔化したら?」
「打たれる」
「誤魔化さなくても打たれそうだ」
「それもそうだ」
新九郎は少しだけ口元を動かした。
そこへ卜伝の声が飛ぶ。
「余裕があるなら始めろ」
二人は同時に姿勢を正した。
最初の稽古は単純だった。
新九郎が木刀を構え、勘助は一定の距離から踏み込んで打つ。
ただし、当てるのではない。
木刀の先が届くか届かないか、その境を測る。
それだけだ。
それだけのはずだった。
「始め」
卜伝の声。
勘助は新九郎を見る。
木刀の先。
肩。
足。
距離。
このくらいなら届く。
そう思って一歩踏み込んだ。
木刀を振る。
空を切った。
新九郎は一寸も動いていない。
ただ、勘助の木刀は届かなかった。
門弟の一人が小さく笑う。
「遠いな」
勘助は唇を噛む。
新九郎は淡々と言った。
「次」
二度目。
今度は少し深く踏み込む。
届いた。
いや、届きすぎた。
新九郎の木刀が軽く横から入り、勘助の腕を打つ。
「近い」
新九郎の声。
「はい」
「次」
三度目。
距離を慎重に見る。
慎重に見すぎて、踏み込みが遅れる。
新九郎が木刀の先をすっと出した。
勘助の胸元に触れる。
「遅い」
「はい」
四度目。
相手の木刀の先を見る。
先だけを見すぎて、足が止まる。
新九郎が半歩詰め、肩を打つ。
「目が先に死んだ」
「はい」
五度目。
新九郎の足を見る。
足を見ている間に、木刀の先が動く。
脇を打たれる。
「足だけ見るな」
「はい」
六度目。
全部を見ようとする。
何も見えなくなる。
新九郎の打ち込みを受け損ね、手元を弾かれる。
木刀が落ちかけた。
安西左馬助の声が飛んだ。
「戦場なら、指が落ちている」
「はい」
勘助は木刀を握り直した。
手の中が汗で濡れている。
間合い。
ただ距離を測るだけ。
それだけなのに、何度も死んでいる。
新九郎は息を乱していない。
庄左は少し離れたところで見ている。
弥平は心配そうに水桶の横で立っていた。
卜伝は無言だった。
無言が一番重い。
さらに何度も繰り返した。
遠い。
近い。
遅い。
早い。
浅い。
深い。
見すぎ。
見なさすぎ。
何度も打たれ、何度も外し、何度も木刀を弾かれた。
昼前には、勘助の腕は痺れ、肩は熱を持ち、左足は重くなっていた。
しかし、一番疲れていたのは目だった。
見ようとしている。
見なければならない。
片目で。
足りない片目で。
その焦りが、視界をさらに狭くした。
新九郎が木刀を下ろした。
「山本」
「はい」
「お前、途中から俺を見ていない」
勘助は顔を上げる。
「見ていない?」
「木刀の先と、足と、距離だけ見ている。俺を見ていない」
「それは……」
「間合いは、木刀の長さだけではない」
新九郎は木刀の先を地面に下ろした。
「俺が打ちたいか、待ちたいか。押したいか、誘いたいか。焦っているか、余裕があるか。それも間合いだ」
勘助は黙った。
新九郎の言葉は、意外なほど深かった。
いや、新九郎はもともと深く考えていないわけではない。
ただ、それを言葉にするのが不得手なのだ。
庄左が横から補う。
「距離だけを測れば、相手の心に遅れる」
「心」
「大げさに聞こえるかもしれないが、そういうことだ。相手が前へ来る気なら遠くても近い。相手が退く気なら、近くても遠い」
勘助は木刀を見た。
確かにそうだ。
森で卜伝も言っていた。
人の迷いを見ろ。
戦を見る者は、道を見る。水を見る。腹を見る。人の迷いを見る。
間合いも同じなのかもしれない。
ただの距離ではない。
相手の意志が、そこにある。
安西が低い声で言った。
「だが、心などと言って距離を誤魔化すな。届くものは届く。届かぬものは届かぬ。そこを見誤る者は死ぬ」
「はい」
庄左は頷く。
「安西殿の言う通りだ。心だけ見れば刃に遅れる。距離だけ見れば人に遅れる」
勘助は苦笑した。
「難しいな」
新九郎が即座に言う。
「だから稽古だ」
弥平が水を持ってきた。
「山本、飲め。目が死んでる」
「目が死ぬとは、どういう顔だ」
「こう、見よう見ようとして、逆に何も見えてない顔」
「それはかなり正しい」
「だろ。俺も稽古の時よくなる」
弥平は瓢を渡しながら続けた。
「掃除の時はさ、全部見ようとすると駄目なんだよ」
「掃除の話か」
「だって俺、掃除くらいしか言えないし」
弥平は少し拗ねたように言った。
「落ち葉を一枚ずつ見てたら終わらない。庭全体だけ見てたら、足元の石につまずく。だから、目の前を掃きながら、風とか、落ち葉が溜まる場所とか、次に行く場所を何となく見てる」
庄左が興味深そうに弥平を見た。
「何となく、か」
「はい。いや、言葉にすると変なんですけど」
勘助は水を飲みながら考えた。
何となく見る。
それは、勘助が一番苦手なことかもしれない。
彼は見えたものに意味をつけようとする。
足跡、土、風、癖、恐れ。
すべてを拾おうとする。
だが、すべて拾えば、体は止まる。
庄左も言った。
全部を同時に抱えるな。
卜伝が静かに言った。
「山本」
「はい」
「午後は目隠しだ」
弥平が瓢を落としかけた。
「またですか」
「そうだ」
勘助は息を吸った。
目隠し。
片目で間合いが測れないから、目を塞ぐ。
以前にも行った稽古だった。
打たれた。
怖かった。
だが、あの時、音や風や足裏を知った。
卜伝は言う。
「目で測れぬ間合いを、目で測ろうとするな」
「はい」
「だが、目を捨てるな」
「はい」
「見えぬものを聞け。聞こえぬものを足で知れ。足で知れぬものを、息で測れ」
言葉だけ聞けば、まるで禅問答のようだった。
だが、今の勘助には少しだけ分かる。
目だけでは足りない。
耳だけでも足りない。
足だけでも足りない。
息だけでも足りない。
それらを一つずつ使い、同時に頼りすぎない。
難しい。
しかし、そこに道がある。
午後。
勘助は目隠しをした。
布が視界を塞ぐ。
世界が暗くなる。
片目の不利どころではない。
完全な闇だ。
だが、以前より少し落ち着いていた。
地面。
足裏。
風。
庭の匂い。
人の気配。
新九郎の呼吸。
庄左の静けさ。
弥平の落ち着かない足音。
安西の重い立ち方。
そして、卜伝の気配。
誰よりも静かなのに、誰よりもそこにいる。
卜伝が言った。
「庄左」
「はい」
「相手をしろ」
勘助は少し驚いた。
新九郎ではない。
庄左。
庄左は静かに木刀を持って前へ出た。
音が少ない。
目隠しでは、これは厄介だ。
新九郎は踏み込みが鋭い分、音にも出る。
安西は重い。
弥平は迷いが足に出る。
だが庄左は、静かだ。
「山本」
庄左の声が正面から聞こえた。
「俺は、新九郎ほど速くない。安西殿ほど重くもない」
「だが、音が少ない」
「そうだな」
「困る」
「俺も困る。考えすぎると遅れる」
庄左の声は、いつも通り淡々としていた。
だが、少しだけ柔らかい。
「お互い、困りながらやろう」
「それはよい稽古になりそうだ」
「たぶんな」
卜伝の声。
「始め」
庄左が動いた。
足音はほとんどしない。
衣擦れ。
木刀が空気を押す音。
勘助は耳を澄ませる。
遅い。
肩を打たれる。
「遅れた」
庄左が言う。
「はい」
二度目。
今度は音がする前に動いた。
早すぎた。
庄左の木刀が勘助の逃げた先へ来る。
腕を打たれる。
「怖がって先に逃げた」
「はい」
三度目。
足音を待つ。
聞こえない。
待ちすぎて胸を打たれる。
「俺の足音を待つな」
「難しいことを言う」
「俺も難しい」
四度目。
勘助は音ではなく、風を感じようとした。
木刀が近づく時、空気がわずかに押される。
だが、感じた時には遅い。
肩を打たれる。
五度目。
庄左の呼吸を聞こうとする。
呼吸が静かすぎる。
聞き取れない。
打たれる。
何度も繰り返した。
新九郎とは違う疲れ方だった。
庄左の打ちは強くない。
痛めつけるためのものではない。
だが、静かに打たれる。
気づいた時には当たっている。
それが余計に怖かった。
勘助は息を整えた。
自分の呼吸が荒い。
荒いから、庄左の音が聞こえない。
まず自分を静かにする必要がある。
息を吐く。
足裏を置く。
木刀を握りすぎない。
庄左が動く。
音は少ない。
だが、地面がほんのわずかに変わる。
庄左の足が土を押す。
音ではない。
沈み。
いや、気配に近い。
勘助は半歩だけ退いた。
木刀が胸の前を通った。
当たらない。
庄左が止まる。
「避けたな」
勘助は目隠しのまま答えた。
「偶然かもしれぬ」
「偶然でも、今のは拾った」
庄左の声に、少しだけ喜びが混じっていた。
弥平が遠くで小さく「おお」と声を漏らす。
卜伝は何も言わない。
続ける。
また打たれる。
今度は避けられない。
次も打たれる。
その次、ほんの少しだけ木刀の先をずらせた。
さらに次、早く動きすぎて打たれる。
完全ではない。
むしろ、打たれる方が多い。
だが、真っ暗な中に、ほんの細い線が見え始めていた。
見えてはいない。
感じている。
相手との距離が、目だけではなく、足裏や息の間に浮かぶ瞬間がある。
稽古が終わった時、勘助は汗だくだった。
目隠しを外すと、光が眩しい。
庄左も少し息を乱していた。
「疲れたな」
庄左が言った。
「打った側もか」
「考えすぎないように打つのは、難しい」
「庄左殿も稽古になったのか」
「なった」
それは短いが、嬉しい言葉だった。
卜伝が問う。
「山本。何を見た」
勘助は少し考えた。
「見えぬ中に、間がありました」
「続けろ」
「目で測る間合いは、木刀の先と足の距離でした。ですが、目を塞ぐと、相手が動く前の静けさや、自分の息の乱れも間合いになるのだと感じました」
卜伝は黙っている。
「拙者は、片目であることを距離の不利だと思っておりました。今も不利です。ですが、間合いは距離だけではありませぬ。相手の気、息、足、迷い、自分の恐れ。それらの間にも、近い遠いがございます」
庄左が静かに頷いた。
卜伝は言った。
「まだ言葉が先に立っている」
「はい」
「だが、悪くない」
勘助は深く頭を下げた。
「はい」
「庄左」
「はい」
「夜、山本と距離を測れ」
庄左は少しだけ目を上げた。
「夜、でございますか」
「暗い方がよい。目で測るな」
「承知しました」
弥平が小声で言う。
「夜稽古か。大変そうだな」
卜伝は弥平を見た。
「お前も来い」
「俺もですか」
「水を持ってこい」
「稽古ではなく水係ですか」
「水係も稽古だ」
「はい……」
新九郎が少し笑った。
安西は黙っているが、目には興味があった。
夜。
鹿島の庭は昼とはまるで違っていた。
月は細く、庭石の輪郭も曖昧だった。
松の影は濃く、池の縁は闇に溶けている。
弥平が水桶を持って縁側近くに座っている。
眠そうだが、どこか楽しそうでもある。
庄左は木刀を持って庭に立っていた。
勘助も木刀を持つ。
目隠しはしない。
だが、見えにくい。
片目ではなおさらだ。
庄左が言った。
「昼より怖いか」
「怖い」
「俺も少し怖い」
「庄左殿も?」
「夜は考えすぎる。見えないものを、勝手に作る」
勘助はその言葉に頷いた。
夜は、見えないものを大きくする。
相手の木刀も。
自分の足の痛みも。
庭の影も。
人の声も。
庄左は木刀を構えた。
「ゆっくりやろう。打ち合うのではなく、距離を測る」
「はい」
二人は向かい合った。
少しずつ歩く。
近づく。
離れる。
木刀の先を合わせる。
届くか届かないか。
月明かりでは、木刀の先がぼやける。
だから、音を聞く。
草鞋が土を踏む音。
衣擦れ。
呼吸。
弥平が水桶の横で息を呑む音。
遠くで虫が鳴く。
庄左が言う。
「今、近い」
勘助は木刀を伸ばす。
届く。
「今は?」
「遠い……いや、近い?」
「迷ったな」
「はい」
「俺が打つ気を少し出した」
「気だけで近く感じた」
「そうだ」
庄左はゆっくり木刀を下げる。
「距離は変わっていない。だが、俺が前へ出る気配を出すと、近くなる」
「不思議だ」
「不思議だが、戦場ではそれで死ぬのだろう」
勘助は頷いた。
次は勘助が少し前へ出る気を見せる。
庄左がすぐに言う。
「今、近い」
「まだ動いておりませぬ」
「動く前に近くなった」
「気配が漏れたか」
「漏れた」
勘助は少し悔しくなった。
「隠すには」
「隠そうとすると、かえって出る」
「では」
「別の気配に混ぜる」
庄左は考えながら言った。
「たぶん」
「たぶんか」
「俺も今、考えている途中だ」
二人は何度も距離を測った。
打つのではない。
当てるのでもない。
ただ、近いか遠いか。
届くか届かないか。
相手が打つ気なのか、待つ気なのか。
自分が怖がって近く感じているのか。
相手が本当に近いのか。
夜の庭で、それを繰り返す。
弥平は途中で退屈するかと思いきや、真剣に見ていた。
やがて言った。
「二人とも、何か静かに怖いな」
庄左が少し笑った。
「弥平にはどう見える」
「見えるっていうか……木刀が当たってないのに、時々、当たりそうって思う」
「それが近い時だ」
「じゃあ俺も少しは見えてるんですかね」
勘助は頷いた。
「見えている。いや、感じている」
弥平は少し嬉しそうにした。
「水係でも稽古になるんだな」
「卜伝殿の言う通りだ」
「先生に言うと、明日からもっと水係にされそうだから黙ってよう」
庄左が真顔で言った。
「もう聞こえているかもしれない」
弥平は慌てて周囲を見回した。
暗がりに卜伝はいない。
いないはずだ。
だが、いるかもしれないと思わせるのが卜伝だった。
夜稽古の終わりに、庄左は木刀を下ろした。
「山本」
「はい」
「俺は、考えすぎる」
「はい」
「お前は、見すぎる」
「はい」
「夜は、その二つが少し似ているな」
勘助は首を傾げた。
「似ている?」
「見えないから考える。考えるから、見えないものを見た気になる」
庄左は月の薄い庭を見た。
「だから、俺たちは時々、互いに止めた方がいい」
「互いに」
「俺が考えすぎて遅れたら、お前が言え。お前が見すぎて迷ったら、俺が言う」
勘助は庄左を見た。
静かな顔だった。
淡々としている。
だが、その言葉の中には確かな信頼があった。
勘助はゆっくり頭を下げた。
「頼む」
「こちらこそ」
弥平が水桶を抱えながら、小さく笑った。
「何かいいですね。夜に男二人で木刀持って、頼むとかこちらこそとか」
「弥平」
庄左の声は静かだったが、少しだけ圧があった。
「はい、すみません」
勘助は笑った。
その笑いは、昼の打たれ疲れを少しだけ軽くした。
寝床へ戻る前、勘助は庭の端で空を見上げた。
片目では、月も少し歪んで見える。
だが、夜の間合いは、目だけではなかった。
虫の声。
土の湿り。
庄左の息。
弥平の水桶。
自分の怖さ。
それらの間に、近い遠いがある。
片目であることは、まだ不利だ。
明日も打たれるだろう。
距離を誤り、木刀を弾かれ、また痛みを覚えるだろう。
だが、間合いは目だけで測るものではない。
それを知った。
勘助は小さく呟いた。
「見えぬものを、見ようとする」
それは、いつか戦場で必要になる目だった。
敵の姿だけでなく、敵の迷い。
味方の足音だけでなく、腹の空き具合。
城の堀だけでなく、人の恐れ。
そのすべての間合いを測る者に、いつかなれるだろうか。
まだ分からない。
けれど、今夜は一人ではなかった。
見すぎる勘助の横に、考えすぎる庄左がいた。
そして水桶を抱えた弥平がいた。
鹿島の門の内側で、勘助は少しずつ、人との間合いも学び始めていた。




