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『醜いから仕官不要と追放された俺、武田信玄だけが「その目は天下を見ている」と言った 〜隻眼の軍師・山本勘助、見下した名門武家を戦場でざまぁする〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第十八話 痛む足で踏み込め


 踏み込みとは、前へ出ることだ。


 山本勘助は、そう思っていた。


 敵へ近づく。


 間合いを詰める。


 木刀を届かせる。


 相手が反応する前に、一歩を踏み出す。


 だから、強い踏み込みとは速く、鋭く、深いものなのだと。


 少なくとも、鹿島へ来る前の勘助はそう思っていた。


 そして、その考えがどれほど浅かったのかを、この日の朝、嫌というほど思い知らされた。


 庭には、まだ朝露が残っていた。


 弥平が夜明け前から掃いた場所は乾き始めているが、松の影に近いところは湿っている。池の縁には薄く苔が残り、石の周りは踏む場所によって滑り方が違った。


 卜伝は庭の中央に立っていた。


 木刀は持っていない。


 ただ、勘助たち門弟を一人ずつ見渡した。


「今日は踏み込みだ」


 それだけで、勘助の左足がわずかにこわばった。


 新九郎が近くでそれに気づいたらしく、横目で見る。


「始まる前から逃げているぞ」


「足が先に聞いてしまった」


「耳のある足だな」


「痛みには敏い」


「冗談を言う余裕があるなら、今日はまだましだ」


 新九郎はそう言ったが、顔は笑っていなかった。


 踏み込み。


 新九郎の得意とするものだった。


 彼の踏み込みは鋭い。


 右足が地面を噛み、体ごと前へ走る。木刀の先が届く頃には、相手はすでに圧で押されている。勘助は何度もその踏み込みに飲まれ、打たれ、崩された。


 安西左馬助の踏み込みは別だった。


 鋭さよりも重さ。


 正面から壁が迫ってくるような圧がある。受ける側は、打たれる前に胸の奥を押される。


 庄左の踏み込みは静かだった。


 音が少ない。


 深く入るわけではないのに、気づくと間合いが詰まっている。考えすぎる癖があると本人は言うが、その足運びには無駄がなかった。


 弥平は、稽古の踏み込みになるとぎこちない。


 ただし、掃除や水運びの時だけは妙に自然だ。


 そして勘助は。


 痛む足を嫌い、踏み込む前に体が引ける。


 卜伝は静かに言った。


「新九郎」


「はっ」


「見せろ」


 新九郎が庭の中央に立つ。


 木刀を構え、卜伝に礼をし、一度だけ踏み込んだ。


 たった一歩。


 だが、その一歩で空気が切れた。


 右足が地面に置かれた瞬間、木刀の先は相手の間合いを裂いていた。


 勘助は目を細めた。


 速い。


 そして強い。


 しかし、以前よりわずかに違う。


 新九郎自身も、己の右足の強さを意識しているのだろう。踏み込んだ後、戻る足が以前より少し整っていた。


 勘助が見ていると、新九郎がこちらを向いた。


「また足を見ているな」


「見える」


「せめて木刀も見ろ」


「見ている」


「本当か?」


「半分ほど」


「半分では打たれる」


「だろうな」


 新九郎は呆れたように息を吐いた。


 卜伝は次に安西を呼んだ。


「安西」


「はっ」


 安西の踏み込みは、新九郎とは違っていた。


 大きくはない。


 しかし、重い。


 庭の土が、安西の足を受け止めるたびにわずかに沈む。木刀が振られる前から、前へ押し潰されるような力があった。


 卜伝は何も言わない。


 安西は一礼して下がる。


 続いて庄左。


 庄左は静かに前へ出た。


 足音が小さい。


 だが、軽いわけではない。


 地面から浮かず、沈まず、音を残さずに距離だけが縮む。


 勘助は思わず呟いた。


「消えるようだ」


 庄左が戻りながら言う。


「消えてはいない。お前が音を探しすぎているだけだ」


「そうか」


「見るものが増えるほど、見えないものも増える」


 庄左らしい言葉だった。


 最後に弥平が呼ばれた。


 弥平は露骨に緊張した顔で前へ出た。


「弥平」


「はい!」


「踏み込め」


「はい!」


 弥平は木刀を構え、前へ出た。


 ぎこちない。


 足が迷い、手が遅れ、木刀の先がわずかに揺れる。


 門弟の一人が小さく笑った。


 弥平の耳が赤くなる。


 しかし卜伝は笑わない。


「もう一度」


「はい」


 二度目も同じだった。


 少し早くなったが、やはり固い。


 弥平は肩を落として戻ってきた。


「駄目だった……」


 勘助は首を傾げた。


「掃除の時は、あれほど自然なのにな」


「今言わなくていいだろ」


「すまぬ」


「謝られても傷は浅くならないぞ」


 弥平は少し拗ねたように言った。


 卜伝は最後に勘助を見た。


「山本」


「はい」


「やれ」


 勘助は庭の中央へ出た。


 木刀を構える。


 朝露の湿りを足裏に感じる。


 左足が痛む。


 痛む前から逃げようとする。


 新九郎が見ている。


 安西が見ている。


 庄左が見ている。


 弥平が心配そうに見ている。


 卜伝が見ている。


 そして、門弟たちが見ている。


 勘助は息を吸った。


 踏み込む。


 その瞬間、左足が遅れた。


 右足だけが前に出る。


 木刀の先が落ちる。


 体が斜めになり、踏み込んだというより、前へ崩れた。


 膝が折れかける。


 どうにか持ちこたえたが、すでに形は崩れていた。


 庭に小さな笑いが起きた。


 安西が厳しい声で言う。


「踏み込みではない。転びかけだ」


「はい」


 新九郎が腕を組む。


「足が死んでいる」


「はい」


 庄左が静かに言う。


「踏む前に痛みを想像している」


「……はい」


 弥平は何か言いたそうにしていたが、口を閉じた。


 卜伝が言った。


「もう一度」


「はい」


 二度目。


 勘助は左足を意識した。


 意識しすぎた。


 今度は前へ出られない。


 木刀だけが先へ行き、体が残る。


 卜伝の声。


「足に心を置きすぎた」


「はい」


 三度目。


 足を忘れようとした。


 忘れられるはずがなかった。


 痛みを無視しようとして、かえって体が固まる。


「痛みを敵にした」


「はい」


 四度目。


 思い切って踏もうとした。


 今度は深すぎた。


 戻れない。


 新九郎がすぐに言う。


「その足では、外されたら終わりだ」


「はい」


 五度目。


 浅くする。


 届かない。


 安西が言う。


「戦場なら、相手の木刀ではなく刃が届く」


「はい」


 六度目。


 息を整える。


 少しまし。


 だが、木刀の先が揺れた。


 庄左が言う。


「考えすぎて、手が待っている」


「はい」


 七度目。


 弥平が小さく呟いた。


「山本、頑張れ」


 その声が聞こえた瞬間、勘助は少しだけ力んだ。


 応えようとした。


 結果、肩が上がる。


 踏み込みはまた崩れた。


 卜伝が言う。


「応援にも崩されるな」


「はい」


 弥平が青くなる。


「あ、俺のせいですか」


「半分は山本のせいだ」


 卜伝は淡々と言った。


 弥平は困ったように勘助を見る。


 勘助は息を切らしながら言った。


「弥平殿の声はありがたかった」


「でも崩れたぞ」


「ありがたさに、体が追いつかなかった」


「何だよ、それ」


 弥平は笑えばよいのか困ればよいのか分からない顔をした。


 踏み込みの稽古は続いた。


 前へ出る。


 崩れる。


 戻る。


 また出る。


 また崩れる。


 木刀を大きく振るわけではない。


 相手と打ち合っているわけでもない。


 ただ、一歩前へ出るだけ。


 それだけなのに、勘助の体は汗に濡れていた。


 足が痛む。


 手も痛む。


 息が荒い。


 周囲の声は少しずつ遠くなり、地面と痛みだけが近くなる。


 卜伝は見ている。


 何度も。


 何度も。


「もう一度」


 その声が、やけに遠い。


 勘助は踏み込んだ。


 また崩れる。


 倒れはしない。


 だが、打てる足ではない。


 新九郎が近づいてきた。


「山本」


「はい」


「お前は踏み込もうとしていない」


 勘助は息を整えながら顔を上げた。


「これだけ踏んでいるつもりで、まだか」


「踏もうとしているのではなく、痛い足を無理に前へ出そうとしているだけだ」


「違うのか」


「違う」


「どう違う」


 新九郎は少し考えた。


 彼にしては珍しく、言葉を選んでいた。


「俺は、敵を割るつもりで踏む」


「敵を割る」


「そうだ。相手の中心へ入る。相手の間へ自分を差し込む。だから踏み込みが強くなる」


 いかにも新九郎らしい。


 相手を割る踏み込み。


 鋭く、強く、迷いなく。


 勘助は頷いた。


「拙者には難しい」


「分かっている」


「即答か」


「お前が俺と同じ踏み方をすれば、足が壊れる」


 新九郎ははっきり言った。


「だから真似るな。俺の踏み込みを羨むな。お前の足で踏め」


「拙者の足で」


「そうだ」


 安西が遠くから声をかけた。


「踏み込みとは、弱い足を庇うことではないぞ」


 新九郎が振り返る。


「安西殿」


「山本は、庇うと逃げるの境がまだ見えておらぬ」


 安西は近づいてきた。


「痛むなら痛むでよい。だが、痛む足を大事に扱うことと、怖がって使わぬことは違う」


「はい」


「足に同情するな」


 その言葉に、勘助は眉を動かした。


「同情、でございますか」


「そうだ。自分の足を哀れんでいるうちは、踏めん」


 厳しい言葉だった。


 だが、刺さった。


 勘助は自分の左足を見る。


 痛む足。


 悪い足。


 何度も嫌い、何度も捨てようとし、それでも捨てられなかった足。


 最近は、少しだけ受け入れ始めたつもりだった。


 だが、受け入れることと哀れむことは違う。


 自分はこの足を大切にしているつもりで、まだどこかで「かわいそうな足」として扱っていたのかもしれない。


 それもまた、上から見ている。


 この足で生きるしかないのに。


 安西はさらに言った。


「痛む足で踏み込め」


 庭が静かになった。


 それは命令ではなく、刃のような言葉だった。


 痛みを消してから踏み込むのではない。


 痛まないふりをして踏み込むのでもない。


 痛む足で踏み込む。


 勘助は息を吸った。


「はい」


 もう一度、構える。


 足が痛む。


 哀れまない。


 憎まない。


 同情しない。


 あるものとして扱う。


 踏み込む。


 今度は、先ほどより少しだけ前へ出た。


 まだ遅い。


 木刀も揺れる。


 だが、逃げて崩れたのではない。


 痛みの中へ、ほんの少しだけ体を置いた。


 卜伝が静かに言った。


「今のを覚えろ」


 勘助は息を切らしながら頷いた。


「はい」


 その言葉で、午前の稽古はいったん終わった。


 勘助は庭の端へ戻り、座り込んだ。


 左足が熱を持っている。


 膝の奥がじんじんする。


 弥平が水を持ってきた。


「足、大丈夫か」


「大丈夫ではない」


「正直だな」


「今日は嘘をつく余裕がない」


「最近、ずっとそう言ってる気がする」


 弥平は水を渡した。


 勘助はそれを飲む。


 冷たい水が喉を通り、腹に落ちる。


「弥平殿」


「何だ」


「掃除の時、どう踏んでいる」


「どうって……普通に」


「その普通が知りたい」


 弥平は困った顔をした。


「いや、俺、稽古では踏み込み下手だぞ」


「掃除の時は上手い」


「掃除の上手さを剣に持っていけって、最近みんなに言われるんだよな」


「なら、拙者にも教えてほしい」


「俺が?」


 弥平は自分を指差した。


「新九郎さんでも、庄左さんでも、安西さんでもなく?」


「掃除の足は、弥平殿が一番自然に見える」


 弥平は耳まで赤くした。


「そういうことを真顔で言うなよ」


「真顔でしか言えぬ」


「なお悪い」


 弥平は照れ隠しのように水桶を持ち上げた。


「昼の後、掃除するから見ればいいよ。邪魔しないなら」


「邪魔をしたら?」


「今日は怒る」


「分かった」


 昼飯の時、勘助は足の痛みに顔をしかめながら粥をすすった。


 新九郎が向かい側に座っている。


 安西は少し離れた場所。


 庄左は相変わらず静かに食べている。


 弥平は、何やら落ち着かない。


 勘助に掃除を見られると思うと、緊張するらしい。


「弥平殿」


「何だよ」


「飯の時から緊張していては、掃除で崩れるのでは」


「誰のせいだと思ってるんだよ」


「拙者か」


「そうだよ」


 新九郎が粥をすすりながら言う。


「弥平。山本に見られるくらいで崩れるなら、お前もまだまだだ」


「新九郎さんだって、山本に足見られると嫌がるじゃないですか」


「俺は嫌がっても崩れん」


 庄左が静かに言った。


「昨日は少し崩れたな」


「庄左」


「事実だ」


 新九郎は言い返せなかった。


 安西が横から短く言う。


「見られるのも稽古だ」


 その一言で、弥平も新九郎も黙った。


 勘助は安西を見た。


 安西は粥を食べながら続ける。


「山本は見すぎる。だが、見られて崩れるなら、崩れるものを持っているということだ」


「はい」


 勘助が返事をすると、安西は少し眉を寄せた。


「お前に言ったのではない」


「しかし、拙者にも当てはまる」


「……勝手に受け取れ」


 安西はそれ以上言わなかった。


 昼の後、弥平は庭の端を掃き始めた。


 勘助は少し離れて見た。


 見すぎるなと言われている。


 だが、今回は見る。


 弥平もそれを承知している。


 弥平は最初、ひどくぎこちなかった。


 箒を持つ手が固く、足も普段より不自然だ。


 勘助は黙っていた。


 やがて弥平が苛立ったように言う。


「何か言えよ」


「言うと、余計に崩れると思った」


「言わなくても崩れてるだろ」


「そうだな」


「見られてると思うと、掃除まで変になるんだよ」


「拙者も、礼でそうなった」


「じゃあ同じか」


「たぶん」


 弥平は大きく息を吐いた。


「じゃあ、見てるの忘れる」


「それができるのか」


「知らない。でもやる」


 弥平は少し目を閉じ、箒を持ち直した。


 それから、いつものように掃き始めた。


 勘助は見た。


 箒の先が落ち葉を集める。


 弥平の足は、大きく踏まない。


 強く蹴らない。


 次に掃く場所へ、体が自然と移る。


 落ち葉の山を崩さぬよう、風を読みながら、ほんの少しずつ場所を変える。


 踏んでいるというより、置いている。


 いや。


 次の場所に体を置いている。


 勘助は思わず身を乗り出した。


「弥平殿」


「何だよ。また崩れたか?」


「いや。今のは、踏んでいない」


「は?」


「踏み込んでいない。次の場所へ体を置いている」


 弥平は箒を止めた。


「何それ」


「拙者にも、今言って分かった」


「自分で分かってなかったのか」


「今分かった」


 弥平は困ったように笑った。


「俺、そんなこと考えてないぞ」


「考えていないから自然なのだろう」


「褒めてる?」


「褒めている」


「じゃあ、ありがとう……でいいのか?」


「たぶん」


 弥平は照れたように箒で地面を軽く突いた。


「でも、踏み込むのって、敵へ向かうんだろ? 掃除とは違うんじゃないか」


「違う。だが、似ているかもしれぬ」


 勘助は立ち上がった。


 足は痛む。


 だが、今試したかった。


「木刀を持ってもよいか」


「え、今?」


「今」


「先生に怒られないか?」


「たぶん怒られる。だが、忘れぬうちに試したい」


 弥平は周囲を見た。


 ちょうど新九郎と庄左が庭の反対側で話していた。


 安西は見当たらない。


 卜伝もいない。


「少しだけだぞ」


「分かった」


 勘助は木刀を持ち、庭の端に立った。


 構える。


 敵へ向かうと思うと、体が固まる。


 痛む足で踏み込むと思うと、足が身構える。


 なら、次の場所へ体を置く。


 敵を割るのではない。


 強く踏むのでもない。


 今いる場所から、次に生きる場所へ移る。


 勘助は息を吐いた。


 一歩。


 痛い。


 だが、先ほどとは少し違う。


 地面を蹴り破ろうとしていない。


 足を前へ無理に投げ出していない。


 体ごと、次の場所へ置いた。


 木刀の先はまだ揺れる。


 速くもない。


 強くもない。


 だが、崩れが少なかった。


 弥平が目を丸くした。


「今の、ちょっとよかったんじゃないか?」


「分からぬ」


「いや、俺でも分かる。さっきより転びそうじゃなかった」


 その声を聞きつけ、新九郎が近づいてきた。


「何をしている」


 弥平が慌てる。


「あ、いや、山本が急に木刀を」


「弥平殿は悪くない」


「山本」


 新九郎は勘助を見た。


「今のをもう一度やれ」


「見ていたのか」


「最後だけな」


 庄左も来た。


「何か掴んだか」


「掴んだというほどでは」


「いいから、やれ」


 新九郎に促され、勘助はもう一度構えた。


 次の場所へ体を置く。


 地面を蹴らず、痛みを哀れまず、敵を割ろうとせず。


 一歩。


 さきほどより少し乱れた。


 見られていると、やはり変わる。


 新九郎は言った。


「悪くない」


 勘助は驚いた。


「悪くない、か」


「調子に乗るな。まだ遅い。木刀も揺れている。足も怖がっている」


「はい」


「だが、午前よりはましだ」


 庄左が言う。


「何を変えた」


「弥平殿の掃除を見た」


 弥平がぎょっとする。


「俺?」


「踏むというより、次の場所に体を置く感じだと思った」


 新九郎は弥平を見た。


 弥平は箒を抱えたまま固まる。


「いや、俺は掃除してただけで」


 庄左が静かに頷いた。


「なるほど」


「庄左殿は分かるのか」


「少し。新九郎の踏み込みは、相手を割る。安西殿の踏み込みは、相手を押す。山本の足では、そのどちらもまだ難しい。なら、まず次の場所に体を置くというのは悪くない」


 新九郎は少し考え込んだ。


「逃げではないのか」


「逃げにもなる。だが、逃げる場所ではなく、生きる場所へ置くなら違う」


 庄左の言葉に、勘助は胸を突かれた。


 生きる場所へ置く。


 それだ。


 自分の踏み込みは、新九郎のように敵を割るものではない。


 安西のように押し潰すものでもない。


 庄左のように静かに間を詰めるものでもない。


 まず、自分が次に生きられる場所へ体を置く。


 そこから考える。


 そこから見る。


 そこから打つ。


 勘助は左足を見た。


 痛む足。


 しかし、その足でしか置けない場所がある。


「もう一度」


 新九郎が言った。


 勘助は頷く。


 一歩。


 また乱れる。


 だが、先ほどより少し見える。


 どこで痛みが来るか。


 どこで肩が上がるか。


 どこで木刀の先が揺れるか。


 弥平が見ている。


 新九郎が見ている。


 庄左が見ている。


 いつの間にか、安西も少し離れて見ていた。


 安西はしばらく黙っていたが、やがて言った。


「山本」


「はい」


「今の踏み込みは、弱い」


「はい」


「だが、逃げてはいない」


 勘助は顔を上げた。


 安西は腕を組んでいる。


「弱く、遅い。だが、逃げていない。それは覚えておけ」


「はい」


「弥平」


「はい!」


「掃除の足を、明日の稽古で見せろ」


「え、俺ですか?」


「お前の掃除から山本が拾ったのだ。なら、お前も拾い返せ」


 弥平は目を白黒させた。


「拾い返す……?」


 庄左が少し笑った。


「弥平も忙しくなるな」


「俺、掃除してただけなのに」


 新九郎が言う。


「掃除も兵法だろう」


「それ、便利すぎません?」


「便利な言葉ほど怖い。先生に聞かれたら、もっと面倒になるぞ」


 その瞬間、奥から卜伝の声がした。


「聞こえている」


 全員が固まった。


 卜伝は屋敷の陰から出てきた。


 どうやら、かなり前から見ていたらしい。


 弥平の顔が青くなる。


「先生、今のは、その」


「便利な言葉ほど怖い。よいことを言った」


 新九郎が少しだけ目を見開いた。


 珍しく褒められた顔だ。


 卜伝は勘助へ向き直った。


「山本」


「はい」


「今の足は何だ」


 勘助は答えた。


「踏み込むというより、次の場所へ体を置く足です」


「次の場所とは何だ」


 勘助は言葉を探した。


「生きる場所です」


 庭が静かになった。


「敵へ向かう足ではなく、まず自分が次に生きる場所へ体を置く。そこから見る。そこから打つ。拙者の足では、まだそれがよいのではないかと」


 卜伝はしばらく勘助を見ていた。


「よい」


 その一言に、弥平が小さく息を呑んだ。


 新九郎も、庄左も、安西も黙っている。


 卜伝は続ける。


「ただし、それだけでは勝てぬ」


「はい」


「生きる場所へ置くだけでは、逃げ足にもなる」


「はい」


「そこから何を見るか。そこから何を捨てるか。そこから誰を生かすか。それを忘れるな」


「はい」


「弥平」


「はい!」


「明日、掃除の足を稽古へ持ってこい」


「はい……!」


「新九郎」


「はい」


「山本の足を見ろ。ただし、自分の踏み込みを押しつけるな」


「承知しました」


「庄左」


「はい」


「言葉にしすぎる前に、山本に歩かせろ」


「はい」


「安西」


「はい」


「弱い足が逃げているか、生きる場所を探しているか見ろ」


「承知しました」


 卜伝は最後に勘助を見た。


「今日は、そこまでだ」


「はい」


「足を冷やせ。明日、腫れた足でまた歩く」


 容赦のない言葉だった。


 だが、勘助は深く頭を下げた。


「はい」


 その夜、勘助は水場で足を冷やしていた。


 弥平が隣に座っている。


「まさか俺の掃除が稽古になるとは思わなかった」


「拙者も思わなかった」


「明日、俺が崩れたらどうしよう」


「崩れたら見る」


「お前が言うと怖い」


「一緒に見ればよい」


 弥平は少し黙った。


 水の音が静かに響く。


「山本」


「何だ」


「今日、お前が俺の掃除を見て何か掴んだ時、ちょっと嬉しかった」


「そうか」


「うん。俺、剣ではまだ全然駄目だけどさ。掃除でも誰かの役に立つなら、少しはここにいる意味あるのかなって」


 勘助は弥平を見た。


 その顔は、いつもの明るさの奥に、少しだけ不安を隠していた。


 卜伝の門下にいて、剣で目立てないこと。


 掃除や水汲みが上手くても、それが本当に鹿島の者としての価値になるのか。


 弥平もまた、悩んでいたのだ。


 勘助はすぐに何か言おうとして、卜伝の言葉を思い出した。


 人の恐れは傷と同じだ。


 無造作に触れば膿む。


 だから、少しだけ間を置いた。


「弥平殿」


「うん」


「拙者は今日、弥平殿の掃除に助けられた」


「……うん」


「それだけは、確かだ」


 弥平は顔を伏せた。


「そっか」


「はい」


「なら、明日も掃除する」


「頼む」


「でも稽古もする」


「それも頼む」


「何でお前が頼むんだよ」


 弥平は笑った。


 その笑いは、少しだけ軽かった。


 勘助も笑った。


 足は痛い。


 明日も痛むだろう。


 だが、今日、痛む足で一歩だけ違う場所へ体を置けた。


 敵を割るためではない。


 自分が次に生きるための場所へ。


 その一歩は、武田の軍師になる道から見れば、笑えるほど小さい。


 けれど勘助にとっては、鹿島へ来てから初めて、自分の足で見つけた踏み込みだった。


 夜の水場で、勘助は冷たい水に足を浸しながら、静かに目を閉じた。


 痛みは消えない。


 だが、もうただ憎むだけではなかった。


 この足で、生きる場所を探す。


 そのために、明日もまた踏み出すのだ。


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