第十七話 鹿島新當流、最初の型
型、と聞いて、山本勘助はどこかで美しいものを想像していた。
無駄なく振られる太刀。
迷いなく踏み込む足。
相手の首筋へ風のように届く木刀。
見る者が息を呑むような、完成された動き。
鹿島新當流。
その名を聞いただけで、諸国の武士が背筋を伸ばす。
ならば、その型もまた、神前に奉じる舞のように美しく、同時に戦場で命を奪うほど鋭いものなのだろう。
勘助はそう思っていた。
だが、朝の庭で卜伝に告げられた最初の言葉は、拍子抜けするほど短かった。
「礼をしろ」
勘助は木刀を持ったまま、少しだけ固まった。
「礼、でございますか」
「そうだ」
「型ではなく」
「礼も型だ」
卜伝の声は静かだった。
庭には門弟たちが集まっている。
新九郎、庄左、弥平、安西。
そのほかの門弟たちも、少し離れて見ていた。
昨日、勘助が正式に道場へ置かれると告げられてから、視線はさらに増えた。
笑う者。
興味を持つ者。
不満を隠さない者。
そして、勘助がどこで崩れるかを待っている者。
それらの視線の中で、勘助は木刀を手にしている。
ようやく、鹿島新當流の型に触れる。
そう思っていた。
だが、最初は礼だった。
勘助は深く頭を下げた。
その瞬間、卜伝が言う。
「違う」
まだ頭を下げきる前だった。
勘助は動きを止める。
「どこがでございましょう」
「全部だ」
庭の端で、弥平が小さく息を吸った。
新九郎は腕を組み、少しだけ顔を伏せた。笑いをこらえているのではない。かつて自分も同じことを言われた顔だった。
勘助は頭を上げた。
「全部、でございますか」
「そうだ」
卜伝は勘助の足元を見た。
「礼をする前から、右へ逃げている」
「……はい」
「頭を下げる時、首だけで下げた」
「はい」
「木刀を持つ手が固い」
「はい」
「相手に敬意を向けておらぬ。自分がどう見られるかばかり気にしている」
その一言が、胸の奥に刺さった。
勘助は言葉を失った。
確かに、そうだった。
卜伝に礼をしろと言われた瞬間、勘助の頭に浮かんだのは、周囲の目だった。
うまくできるか。
笑われないか。
門弟たちにまた侮られないか。
その不安が先に立った。
礼の相手を見ていなかった。
卜伝は淡々と言う。
「礼は、己を小さく見せるためにするものではない」
「はい」
「相手を見るためにする」
勘助は木刀を握り直した。
だが力が入りすぎたのか、卜伝がすぐに言う。
「握るな」
「はい」
「木刀を落とすな」
「はい」
「その間を探れ」
勘助は息を吐いた。
握りすぎず、落とさず。
恐れすぎず、侮らず。
礼ひとつで、これほど難しい。
鹿島新當流とは、太刀を振る前から人を斬ってくる。
勘助はそんなことを思った。
卜伝は新九郎へ視線を向けた。
「新九郎」
「はっ」
「見せろ」
新九郎が一歩前へ出た。
木刀を手にし、卜伝へ向かって静かに礼をする。
それだけだった。
だが、勘助は息を呑んだ。
頭を下げる。
ただ、それだけ。
なのに、そこには乱れがなかった。
木刀を持つ手は緩みすぎず、固まりすぎない。
足は地面に置かれ、体は前へ倒れない。
頭を下げても、隙だらけに見えない。
礼でありながら、すでに構えの前にいる。
新九郎は礼を終え、静かに元の姿勢へ戻った。
勘助は思わず呟いた。
「美しい」
新九郎の耳がわずかに赤くなった。
「黙って見ろ」
「すまぬ」
「謝るな」
弥平が小声で言う。
「新九郎さん、褒められるの苦手ですよね」
「弥平」
「はい、黙ります」
庄左が静かに言った。
「山本。新九郎の礼は美しいが、真似ようとすると崩れるぞ」
「なぜ」
「体が違う。足が違う。積んできた稽古が違う。見たものをそのまま写そうとすると、お前は新九郎の形を着ようとする」
「形を着る」
「そうだ。着物ならまだいい。型は、他人のものを着ると動けなくなる」
勘助は木刀を見た。
型とは動きを覚えるものだと思っていた。
正しい形を写し、繰り返し、身につける。
そういうものだと。
だが、庄左の言葉は違った。
他人の形をそのまま着れば、動けなくなる。
卜伝が言った。
「型とは、己の崩れを知る器だ」
庭が静かになった。
その言葉は、朝の空気の中で水のように澄んでいた。
「器、でございますか」
「そうだ」
卜伝は勘助の前に立つ。
「正しい形を作るためだけに型があるのではない。型に入れば、己の歪みが見える。足の逃げ、手の力み、息の浅さ、目の迷い。普段は誤魔化しているものが、型の中では誤魔化せぬ」
勘助は息を呑んだ。
礼で、すでにそれを見せられた。
自分がどう見られるかを気にしていたこと。
右へ逃げていたこと。
木刀を握りすぎていたこと。
すべて、礼の中で露わになった。
「崩れが見えたなら」
卜伝は言った。
「型は働いている」
安西左馬助が、少しだけ目を伏せた。
その言葉は、門弟たち全員に向けられていた。
型を美しく行える者ほど、自分はできていると思いがちなのだろう。
だが、卜伝にとって型は完成を見せるものではない。
崩れを見るもの。
ならば、完成したと思った瞬間に、型は死ぬのかもしれない。
卜伝は勘助へ言う。
「もう一度、礼をしろ」
「はい」
勘助は木刀を持つ。
新九郎の真似をしようとするな。
卜伝を見る。
礼をする相手を見る。
周囲の視線が気になる。
気になるが、それもあるものとして置く。
右足へ逃げる癖。
左足の痛み。
手の力。
息。
全部を消そうとすると固まる。
なら、消さずに礼をする。
勘助はゆっくり頭を下げた。
今度は先ほどより深く、だが沈みすぎないように。
木刀を落とさぬように。
首だけで下げぬように。
相手から目を逸らしていることを誤魔化さぬように。
礼を終える。
卜伝が言った。
「少しましだ」
弥平が小さく拳を握った。
「出た、少しまし」
新九郎が言う。
「褒め言葉だ」
「知ってます」
勘助は頭を上げた。
「ありがたく」
「礼はよい」
卜伝に遮られた。
勘助は口を閉じる。
卜伝は次に、木刀の構えを命じた。
「正眼」
新九郎が手本を示す。
木刀の先が相手の中心へ向く。
肩は沈み、背は伸び、足は地面に置かれている。
ただ構えているだけなのに、近づきがたい。
安西の構えは重い。
庄左の構えは静か。
新九郎の構えは鋭い。
弥平の構えは、少し不安そうだった。
それぞれ、違う。
同じ型の中に、違う人間がいる。
勘助はそう思った。
「山本」
「はい」
「構えろ」
勘助は木刀を上げた。
自分では正眼のつもりだった。
だが、木刀の先がわずかに右へ逸れる。
片目のせいで、中心が取りづらい。
直そうとすると、今度は左へ行きすぎる。
手元を見れば先がぶれる。
相手を見れば手元が狂う。
足が痛み、腰が逃げる。
肩に力が入り、息が詰まる。
「違う」
卜伝の声。
「はい」
「手で中心を探すな」
「はい」
「目だけで中心を取るな」
「はい」
「足で中心を失っている」
勘助は足元を見る。
「足で、でございますか」
「お前の体が右へ逃げている。木刀の先だけ中心へ戻しても、体が逃げたままだ」
勘助は左足へ重みを置いた。
痛む。
木刀の先が少し戻る。
だが、今度は肩が固くなる。
新九郎が横から言った。
「山本。木刀の先を合わせる前に、腹を相手に向けろ」
「腹を」
「そうだ。お前は顔と手だけで相手を見ている。腹が逃げている」
「腹も逃げるのか」
「逃げる」
弥平が小声で言う。
「山本、今日は色々逃げてるな」
「弥平もだ」
新九郎に言われ、弥平は慌てて自分の構えを直した。
庄左が勘助の横に立ち、静かに補足する。
「中心を取ると考えると、固くなる。まず、自分がどこへ向いているかを知れ」
「どこへ」
「今のお前は、相手に向かっているようで、少し逃げ道へ向いている」
勘助は息を止めた。
まただ。
自分では正面を向いているつもりだった。
だが、体は逃げ道を見ていた。
足も、腹も、肩も。
人は、こんなにも逃げるのか。
いや、自分が逃げすぎるのか。
勘助は少し苦く笑った。
卜伝が問う。
「何を笑う」
「己の体は、拙者より正直だと思いました」
「そうだ」
「困ります」
「困るなら見ろ」
「はい」
勘助は正眼を取り直した。
美しくはない。
新九郎のような鋭さはない。
庄左のような静けさもない。
安西のような重みもない。
弥平のような自然さもない。
ただ、逃げている体を一つずつ戻そうとしている、不格好な構えだった。
門弟の一人が小さく笑った。
「ひどい構えだな」
別の者が言う。
「鹿島新當流が泣くぞ」
弥平がむっとする。
だが、勘助は声の方を見なかった。
腹は立つ。
恥ずかしい。
だが、今は木刀の先が揺れている。
怒りへ目を向けると、構えが崩れる。
卜伝が言う。
「声に斬られるな」
「はい」
「だが、聞こえぬふりをするな」
「……はい」
「聞こえた声で、己がどう崩れるか見ろ」
笑われる。
肩が上がる。
手が強くなる。
木刀の先が右へ逸れる。
足が逃げる。
それを見た。
見ただけで、完全には直せない。
だが、見た。
卜伝は次に、足運びを命じた。
「送り足」
新九郎が手本を見せる。
すっと前へ出る。
大きく跳ぶわけではない。
地面を蹴るというより、体ごと前へ滑るように置く。
次に庄左。
音が少ない。
安西は重いが、軸がぶれない。
弥平は少しぎこちないが、なぜか掃除の時の足を思い出させる一瞬がある。
勘助は見た。
それぞれの違い。
それぞれの崩れ。
そして、自分がそれを真似ようとした時、どう崩れるか。
「山本」
「はい」
「やれ」
勘助は構えたまま、一歩前へ出ようとした。
左足が遅れる。
右足だけが前へ行く。
体が斜めになる。
木刀の先が落ちる。
たった一歩で、すべて崩れた。
門弟たちから小さな笑いが漏れる。
弥平は「ああ」と顔をしかめた。
新九郎は眉間に皺を寄せる。
安西は何も言わないが、厳しい目をしている。
卜伝は静かに言った。
「もう一度」
「はい」
二度目。
今度は左足を意識しすぎて、前へ出られない。
体が止まる。
「遅い」
「はい」
三度目。
足を早く出そうとして、木刀が揺れる。
「手が騒いだ」
「はい」
四度目。
木刀を安定させようとして、足が死ぬ。
「足が死んだ」
「はい」
五度目。
呼吸を忘れる。
「息をしていない」
「……はい」
六度目。
全部を直そうとして、何もできなくなる。
「考えすぎだ」
これは卜伝ではなく、庄左の声だった。
勘助は思わず苦笑した。
「庄左殿に言われるとは」
「俺が言われているから分かる」
庄左は昨日と同じことを言った。
その声に、少しだけ緊張が緩む。
勘助は息を吐いた。
「一つだけ直せ」
庄左が言う。
「全部を直そうとするな。まず一つ」
「何を」
新九郎がすぐに答えた。
「足だ」
安西が言う。
「いや、腹だ」
弥平が恐る恐る言う。
「息……じゃないですか?」
三人が互いに顔を見る。
庄左が軽く息を吐いた。
「ほら、皆違う」
勘助は少し困った。
「どれを選べば」
卜伝が言った。
「自分で選べ」
「……はい」
勘助は目を閉じたい衝動をこらえた。
足。
腹。
息。
どれも大事だ。
全部崩れている。
だが、一つだけ選ぶなら。
「息を」
勘助は言った。
新九郎が意外そうに見る。
「足ではないのか」
「足を直そうとすると、足だけを見る。腹を直そうとすると、腹を固める。息なら、少し全体に届く気がする」
弥平が嬉しそうに小さく拳を握った。
「俺のやつだ」
新九郎が言う。
「調子に乗るな」
弥平はすぐに拳を下ろした。
勘助は息を吸い、吐いた。
木刀を構える。
痛い足はそのまま。
逃げる腹もそのまま。
揺れる手も、そのまま見ておく。
息だけを止めない。
一歩。
まだ崩れる。
だが、先ほどより少しだけましだった。
卜伝が言う。
「それでよい」
勘助は胸の奥で、小さく息を吐いた。
よい、ではない。
それでよい。
つまり、今はそれで始めろということだろう。
型の稽古は、そこから延々と続いた。
礼。
構え。
送り足。
木刀の上げ下ろし。
相手へ向かう目。
呼吸。
どれも単純だった。
単純なのに、難しい。
何度やっても崩れる。
勘助は、自分がこれほど動けない人間だとは思っていなかった。
剣が弱いことは知っていた。
足が悪いことも知っていた。
片目で間合いが取りづらいことも知っていた。
だが、礼をし、構え、一歩進むだけで、これほど自分の中が暴かれるとは思わなかった。
昼近くになる頃、勘助は汗だくだった。
木刀を大きく振ったわけでもない。
打ち合ったわけでもない。
ただ、型の入口を繰り返しただけ。
それなのに、昨日の打ち込みとは違う疲れがあった。
体よりも、心が疲れている。
自分の崩れを見続けるのは、木刀で打たれるより痛い時がある。
休憩になった時、勘助は庭の端に腰を下ろした。
弥平が水を持ってくる。
「生きてるか」
「どうにか」
「型って、もっと格好いいものだと思ってた顔してる」
「顔に出ていたか」
「最近、ちょっと分かる」
弥平は水を渡した。
勘助は飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
「弥平殿は、最初の型でどうだった」
「俺? 俺は礼の時に木刀を落とした」
「落としたのか」
「緊張して手が汗で滑った」
弥平は照れくさそうに笑った。
「その時、先生に『木刀が逃げたのではない。お前が逃がした』って言われた」
「卜伝殿らしい」
「で、新九郎さんには『落とすなら最初から持つな』って言われた」
「新九郎殿らしい」
「庄左さんは黙って拾ってくれた」
「庄左殿らしい」
「安西さんは見てなかった」
「安西殿らしい……のか?」
「その頃は、俺なんて視界にも入ってなかったんだと思う」
弥平は少しだけ遠い目をした。
明るい弥平にも、そういう時期があったのか。
勘助は水を見つめた。
「それで、どうした」
「次は落とさないようにした」
「それだけか」
「それだけ。俺は山本みたいに、何でも深く考えられないからな。落とした。恥ずかしい。じゃあ次は落とさない。そんな感じ」
弥平は笑った。
「でも、たぶん、それでいい時もあるんだよ」
勘助は小さく頷いた。
「そうだな」
自分は考えすぎる。
見すぎる。
見たものをすぐ意味にしようとする。
だが、弥平のように、落としたから次は落とさない、で進む強さもある。
それもまた、稽古なのだろう。
そこへ新九郎が来た。
「山本」
「はい」
「午後は俺が見る」
「まだ続くのか」
「当然だ」
「型は、休ませてくれぬのだな」
「型は逃げない。お前が逃げる」
「手厳しい」
「事実だ」
新九郎は隣に立ち、先ほどの勘助の動きを思い出すように言った。
「お前は礼の時に人の目を気にする。構えの時に木刀の先を気にしすぎる。足を出す時に痛みを予想しすぎる。息を整える時に、整えようとして固まる」
「全部か」
「全部だ」
「朝も言われた気がする」
「今日は型だから、もっと出る」
勘助は苦笑した。
「型とは恐ろしい」
「型が恐ろしいのではない。型で見えるものが恐ろしい」
その言葉は、新九郎にしては妙に深かった。
勘助が見ると、新九郎は顔をしかめた。
「先生の受け売りだ」
「よい言葉だと思った」
「だから、そういうことをすぐ言うな」
「すまぬ」
「謝るな」
いつものやり取りに、弥平が少し笑った。
午後の稽古は、さらに厳しかった。
新九郎は遠慮がない。
卜伝ほどではないが、勘助の崩れを容赦なく指摘する。
「右へ逃げた」
「はい」
「木刀の先だけ戻すな」
「はい」
「腹が逃げた」
「はい」
「息が止まった」
「はい」
「今のは少しよかった」
「本当か」
「驚くな。崩れる」
「はい」
「返事で崩れるな」
「……はい」
勘助は何度も礼をし、構え、一歩進んだ。
たった一歩。
その一歩が、遠い。
門の内側が外より遠かったように、型の一歩もまた、見た目より遥かに遠かった。
夕方近く、卜伝が戻ってきた。
勘助は疲れきっていたが、最後にもう一度、礼から送り足までを通すよう命じられた。
門弟たちも見ている。
朝よりも視線は気にならなくなっていた。
気にならないふりではない。
気になる。
だが、少し置いておける。
勘助は木刀を持つ。
礼。
先ほどより、少しだけ相手が見えた。
構え。
まだ右へ逃げる。
だが、逃げたことに早く気づけた。
送り足。
左足は痛む。
息を止めない。
一歩。
木刀の先は揺れた。
完璧には程遠い。
新九郎のような美しさはない。
庄左の静けさもない。
安西の重さもない。
弥平の掃除の時の自然さにも届かない。
だが、朝よりは少しだけ崩れが減った。
卜伝は静かに言った。
「崩れが見えたな」
「はい」
「では、明日も崩れろ」
勘助は思わず顔を上げた。
「崩れてよいのでございますか」
「崩れぬ者は、崩れを隠しているだけだ」
卜伝の声は静かだった。
「型の中で崩れろ。崩れて、見ろ。見て、戻せ。また崩れろ。それを繰り返せ」
「はい」
「美しく見せようとするな」
「はい」
「だが、醜さに甘えるな」
その言葉に、勘助は胸を突かれた。
醜さに甘える。
それは、今まで考えたことのない言葉だった。
卜伝は続ける。
「お前は、醜いと言われることに慣れすぎている。見苦しいと言われる前に、自分で見苦しいと決めることがある」
勘助は言葉が出なかった。
その通りだった。
自分は醜い。
どうせ笑われる。
どうせ見苦しい。
そう先に決めてしまえば、少しだけ楽だった。
相手に言われる前に、自分で言ってしまえば、傷が浅くなる気がした。
だが、それもまた逃げなのだ。
「型は、お前の醜さを笑わぬ」
卜伝は言った。
「だが、甘えも許さぬ」
勘助は深く頭を下げた。
「はい」
その日の稽古が終わると、勘助はしばらく庭に残った。
礼。
構え。
一歩。
たったそれだけが、頭の中を何度も回る。
弥平が箒を持って近づいてきた。
「山本、掃除手伝うか?」
「よいのか」
「型で疲れてるだろうけど、掃除も型だぞ」
「弥平殿が言うと説得力がある」
「だろ?」
弥平は得意げに笑った。
勘助は箒を持ち、庭の端を掃いた。
朝より少しだけ、箒が軽く感じた。
いや、箒が軽いのではない。
自分がどこへ立てばよいか、少しだけ分かるようになったのかもしれない。
落ち葉を集めながら、勘助は思った。
礼も型。
構えも型。
歩くのも型。
水桶も型。
掃除も型。
型とは、己の崩れを知る器。
ならば、人生そのものもまた、型なのかもしれない。
笑われる時。
打たれる時。
人と飯を食う時。
水を運ぶ時。
誰かの言葉に傷つく時。
そのたびに、人は崩れる。
崩れを見て、戻す。
また崩れる。
それを繰り返す。
夜。
勘助は寝床に横になった。
昨日より少し、門の内側の寝息が気にならなかった。
遠くで、弥平が小さく寝言を言った。
新九郎が咳払いをした。
誰かが寝返りを打ち、床板が鳴った。
人がいる。
近い。
だが、昨日ほど怖くはない。
勘助は目を閉じる。
今日、型は何も華やかなものを見せてくれなかった。
必殺の太刀も、奥義の気配もない。
ただ、自分の崩れを見せられただけだ。
けれど、その崩れの中に、確かに道があった。
「母上」
小さく呟く。
「今日は、礼の仕方を少しだけ学びました」
それは、武田の軍師となる男の歩みとしては、あまりに小さな一日だった。
だが、勘助にとっては、確かな一日だった。
鹿島新當流の最初の型は、敵ではなく、己の崩れを斬るためにあった。




