第40話 没落貴族の王氏、お家再興とセレブ生活のため後宮に殴りこむ⑥
「皇后さま!」
声がした方を見ると、栄春が真っ暗な回廊に立っていた。近くには涼鴛らしき姿も見える。
騒ぎを聞きつけて、房に下がっていた彼らも出てきたのだった。
烈はハッとし、灯りがともった露台の方へ振り返った。そこには、舜がぽつねんと座っていた。
周囲には誰もおらず、呆けたように闇の一点を凝視している。
追いかけてきた美玲が打ちかかってくる。それを跳ね返しながら、烈は叫んだ。
「栄春、舜を連れて避難して。巻き込まれたら危ないから」
栄春は距離をとって回り込みながら、烈のあとをついてくる。
「はい。ですが皇后さまは……」
「私は大丈夫。この女を必ずブッ倒す。手出しは無用だから。早く行って!」
「わかりました」
栄春と涼鴛が、身をひるがえして露台に向かうのが見えた。
烈は目の前の敵に集中することにした。
舜は、露台で彫像のように固まっていた。
侵入してきた女の狙いが自分ではなく烈であること、そのために烈が戦っているのは理解していた。
といっても、彼は凡人であり夜目もきかないため、戦う烈と侵入者の姿を追うことはできなかった。
夜闇を抜けるように聞こえてくる音だけが頼りだった。
暗い庭で時おり揉み合う影が見え、それから居間の方で大きな音がした。その後はガキン、ガキンと木を打ちつけるような激しい打撃音が続いている。
「主上! ご無事ですか」
ほんの数分ぶりであったが、舜は人に呼ばれたことで我に返った。
栄春と涼鴛が駆け寄ってくる。
「主上、こちらは危険です。皇后さまが戦っておられますが、何が起きるかわかりません。いったん霓龍殿の外に避難しましょう」
「あ、ああ……。そうだな」
栄春に腕をとられ、舜も立ち上がった。
そこでやっと気がついた。自分の周囲には誰もいないことに。
舜は辺りを見回すと言った。
「爺の姿が見えぬ。爺はどうしたのだ」
「とっくの昔に逃げたかと。楊内常侍の気質は、主上の方がよくご存知でしょう。他の宦官は、侵入者に倒された模様ですが」
「そ、そうか。残っていたのはわしだけか」
慌てて歩き出そうとした舜の足もとから、ニーという鳴き声が聞こえた。
覗き込むと、卓の下には犬ちゃんがうずくまり、目だけで舜を仰いでいる。
「これ、三毛猫犬。どうしたのだ。逃げるぞ」
舜は呼びかけたが、犬ちゃんは再度ニーと情けない声をあげた。
よくよく見ると、犬ちゃんは地べたにぺたりと這いつくばっており、自分自身の肉に埋もれていた。どうやら自重で動けないようである。
舜は思わず吹き出しそうになった。
「たわけが。動けなくなるほど食うやつがあるか。仕方ない、わしが運んでやろう……って重っ!」
舜は犬ちゃんを両手で抱えようとしたが、デブ猫のあまりの重さにひっくり返りそうになった。
基本的に、箸より重いものは持ったことがない深窓の令息である。
普段からデブ猫を膝に乗せたり、首の後ろを片手で掴んで運んだりしている烈とは筋肉量がまるで違うのだった。
それでも置いていくのは可哀想だと思い、舜はなんとか猫を引っ張り上げた。
腕を回して背中におぶると、よたよたと歩き出した。
犬ちゃんは舜の肩によじ登ると、頭に腕を回してぎゅっとしがみついた。
「主上、こちらです」
涼鴛が珍しく自分から口を開いた。
彼はどこからか手燭を持ってきて先導した。
栄春が舜の手を引く。舜は猫を肩車したまま、そろそろとついていく。
こうして邸内に残っていた三人と一匹は、霓龍殿の外に向かって避難を始めた。
烈と美玲の熾烈な戦いは続いていた。
棍と雑巾箒で百合あまりを打ち合ったあと、二人は息を切らしながらにらみ合った。
少しして、美玲が口を開いた。
「型はてんでなってないけど、棍もそこそこ使えるんだ。お姫さまの割にはやるじゃない」
烈はムッとして言い返した。
「私は垂逸の将軍だから。武術はひととおりやったよ。あんたみたいな我流の婢とは違う」
「我流じゃない。あたしだって棍は師匠についてちゃんと習った。これだけは誰にも負けない。男にも、貴族にも、あんたにも」
婢……その言葉が、美玲の負けず嫌いの心にさらに火をつけた。
確かに自分の身なりは、婢や貧しい下女そのものだ。
実に薄汚れた恥ずかしい格好をしている。
泥と汗にまみれてはいるが、皇后は立派な身なりで軍人然としている。
おまけに、彼女は思っていたよりもはるかに強かった。そのことは認めざるを得ない。
――が。
それでも自分には勝てない。美玲は確信していた。
「あんたは北の高貴な王太女さまで、あたしは没落貴族。生まれも育ちも到底かないやしない。でもあたしは棒状のものさえあれば無敵だから。没落貴族根性を見せてやる!」
目をカッと見開き、美玲は跳び上がった。
雑巾箒を天高く振りかざし、高速回転させる。暴風が巻き起こる。
「食らえ――っ! 一擲に入魂す、一打で千万を撃破する、偽貴族の王者的円舞!」
美玲は叫ぶと同時に烈に突っ込んだ。
「うわあ――っ!」
避けることも受け止めることもできずに、烈は数十メートル吹っ飛び、勢いよく塀に激突した。
痛みに呻く烈に、美玲は容赦なく飛び掛かる。
「とどめよ!」
雑巾箒が振り下ろされる瞬間、烈の右足がまっすぐに突き上げられた。
その足が雑巾箒にあたり、大きく弾かれる。
「まだまだァ! これからァ!」
烈は右手に持っていた棍を突き出した。
棍の先が美玲の額をしたたかに打った。烈は左手を伸ばして雑巾箒を掴んだ。
そして歯を食いしばり、左の手のひらにありったけの力を込めた。
「……ふんっ! 折る!」
「なっ」
美玲がたじろいだ瞬間、バキッと音がした。雑巾帚は烈の怪力によって半分に折れた。
美玲は飛びすさった。
烈に折られてしまった、もはや箒でもない半端な棒切れを見つめた。
まさか武器を破壊されるとは思わなかった。
烈はにやりと笑いながら立ちあがり、再び棍を構えた。
「どう? 今度はあんたが丸腰。こちらから行くから」
対する美玲は、箒を乱暴に投げ捨てた。
「確かに武器は必要。ないとあんたには勝てない。だったら、あんたから奪うまで」
は? と烈は呆気にとられた。
「えっ、ちょ……待って」
「待たない。あんたの棍を寄こせェ!」
美玲は鬼のような形相で叫び、猛然と組みついてきた。
烈の胸を叩き、頬を打ち、足蹴にして棍を奪い取ろうとしてくる。
烈は取られまいと必死に抗う。二人はがっぷりと組み、揉み合いながら地面の上を転げた。
殴ろうとすれば顔をよじってかわし、かわしたところを蹴り上げる。
烈も必死に抗った。絶対に棍を取られるわけにはいかなかった。
雑巾帚でさえ、あの凄まじい威力なのだ。
もし棍を美玲に奪われたら、さらに強力な打撃がくる。
自分はボコボコにされてしまう……。
えっ、この私が……?
この女にボコボコのフルボッコにされる? そんな馬鹿な……!
恐ろしい想像が脳裏をよぎるなか、棍の先端はガツガツと美玲の胸や腕に当たった。
圧迫も痛みもあるはずなのに、美玲は一言も呻かなかった。興奮するあまり、痛みを感じないのかもしれない。




