第37話 没落貴族の王氏、お家再興とセレブ生活のため後宮に殴りこむ③
――夜。
日が落ちてだいぶ経つ頃、美玲の仕事は終わった。
勤務中は無心で手を動かしたため、なんとか一日のノルマをこなすことができた。
殻を剥いたエビの山は、大きな桶にきっちり詰めて指定の倉庫へ運び込んだ。
後片付けを終えて帰ろうとしたそのときだった。
見計らっていたように、同僚の女工二人が美玲の元へやってきた。
「美玲、班長が呼んでいるよ。すぐに班長室へ来いってさ」
「班長が……?」
「言ったからね。ちゃんと行きなよ。バックレたらアタイらが怒られるんだからね。許さないよ」
女工たちは横柄に言い、用は済んだとばかりに踵を返した。
美玲はぎゅっと手を握りしめた。
仕事が終わったこの時間にわざわざ呼び出す……これは間違いない。工場イチの性悪中年女、班長の嫌がらせだ。
彼女は、どうでもいいことをあげつらってネチネチ嫌味を言い、部下を何時間もいびるのが趣味だった。
去りゆく女たちが、チラチラと振り返りながらこれ見よがしに言った。
「あ~かわいそ。でも私たちじゃなくてよかったァ」
「班長も旦那と喧嘩するたびに、八つ当たりすんのやめて欲しいよね。チョー迷惑」
「でもさ、あの子だっておとなしい顔して、とんだ食わせ者っしょ。だって……」
嘲笑とも陰口ともつかない棘のある声に、美玲は耳を塞ぎたくなった。
今日何度目かの大きなため息をつく。
呼ばれたからには仕方ない。重い足を引きずるようにして、班長室へ向かった。
班長室へ入ると、なぜか美玲の詰めたエビの桶が机の前に積まれていた。
机の前に腰かけた班長は美玲の姿を見ると、ニタリと凶悪な笑みを浮かべた。
美玲は嫌な予感がした。
班長は美玲の目の前に、太い手指を突き出した。
指先には、エビの細いヒゲが一本摘まんであった。
「王美玲……あんたさ、何年この仕事やってんだよ。トロい上にその目は節穴? あんたの桶には、大事な商品のエビちゃんのヒゲがさ、一本残ってんだよ。オイ!」
班長は怒鳴ると、足でエビの桶を蹴り倒した。
床に大量のエビが散らばる。
美玲は青ざめながらも、叫ぶように言った。
「そんな、ヒゲなんて……あるはずがないです。あたしは詰める前に確かに確認しました。一匹ずつきれいに洗ってから入れました」
「言い訳やごたくはいいんだよ。こうしてアタイの手には証拠のヒゲがあるんだよ。これはあんたのミスだからね。ほら、今から全部確認しな。再度洗って詰め直しな」
「そんな、あんまりです」
美玲は震える声で反論した。
どうせヒゲだってゴミから拾って、嫌がらせのために用意したものに違いなかった。この女は平気でそういうことをする。
「うるさいよ、いいからさっさと拾いな。やらずに帰ったら許さないよ。そうそう、詰め終わったら床もしっかり掃除するんだよ」
班長は部屋の隅に立てかけてある雑巾箒を、あごでしゃくった。
「……」
美玲は仕方なく、汚れた床に這いつくばってエビを拾い始めた。
エビを拾ったら作業場へ戻り、井戸から水を汲んで一匹一匹洗って、また詰めなくてはならない。十時間かけてやった細かい作業を一からやり直すのだ。
それから班長室の床掃除である。今夜は日が変わっても帰れないに違いない。
本当に惨めで悔しくて涙が出そうになる。
自分はただ真面目に働いているだけなのに、決められたノルマもこなしたのに、どうしてこんな理不尽な目に遭わなくてはならないのだろう。
それでも、美玲は無言のままじっと耐えた。
どんなに辛くても、上司の言うことには逆らえない。
やっとの思いで得た仕事なのだ。ここで失うわけにはいかない。
健気にエビを拾う美玲の耳に、今度は軽い金属音が響いた。
音がした方に目を向けると、銅銭があちこちに散らばっている。
上から酷薄な声が降ってきた。
「あんたの給料だよ」
「えっ……?」
美玲は銅銭を見つめた。
給料は月末にまとめて支払われる。給料日はまだ先のはずだった。
「あんたは明日からはもう来なくていい」
美玲は息を呑んだ。
目の前が真っ暗になり、くらくらと眩暈がした。
少しして、言葉の意味を理解した。
クビだった。美玲はクビを言い渡されたのだった。
「……どうしてですか。なんであたしはクビなんですか」
班長は説明するのも面倒くさげに、鼻を鳴らした。
「口答えなんて図々しいねえ。あんたについてタレコミがあったのさ。よく今まで隠し通せたもんだ。罪を犯して処された官僚の王然、財産没収の上、家はお取り潰しになったらしいけど。あんたはその娘なんだってね」
「……」
美玲は声を失った。
あまりにも唐突かつ残酷な申し渡しだった。
美玲はふてぶてしく笑う班長を、キッと睨みつけた。
「確かに父は罪を犯しました……。けれど罰は十分に受けました。あたしは悪いことはしてないし、これまでもちゃんと真面目に働いてきました。こんなの、クビになる理由にはなりません」
「おお、怖い怖い! 上司に逆らって啖呵を切るなんて、罪人の娘は違うねえ。危ない危ない。そのうちエビやカニも盗まれるところだったよ」
美玲は思わずカッとなった。
「盗みません。そんなことはしません」
「どうだかね。とにかく給金は払ったんだ。仕事を終えたら、とっとと出ていきな。二度とここへは来るんじゃないよ。犯罪者を雇っていたなんて、とんだヘマをしてしまった。工場長にバレたら、こっちがどやされるとこだったよ」
「……犯罪者じゃない。あたしは何もしてない」
引き下がらない美玲に、班長は露骨に舌打ちをした。
「この、馬鹿が。何もしてなくても、親父のやらかしであんたの人生は終わったんだよ。場末の工場じゃバレないと舐め腐ってたんだろうけどお生憎さまだったね。あんたはもう金輪際まともな職にはつけないし、結婚もできない。犯罪者の娘とバレたら即破談だ。せっかく貴族に生まれてもこうなっちゃねえ……」
違う、と美玲は小さく叫び、頭を横に振った。
「あたしは終わってない。まともな職にもつける。こんなクソの掃きだめみたいな底辺職じゃなくて、もっとビッグな仕事についてみせる」
「ふん、負け犬ほどよく吠える」
その瞬間、美玲は頭が沸騰するかのような熱を感じた。
脳内で何かが引きちぎられるような音がした。
彼女の中に眠っていた貴族の誇りが、火山の噴火口から押し出されるマグマのように噴出した。
「……っせえよ。部下をいびって憂さを晴らすしかない能無しの負け犬はお前だろうが」
「ん? なんか言った?」
「バカが歳をとって耳が遠くなった? お前がうるせえから黙れつったんだよ」
美玲は、これ以上ないという大きな声で叫んだ。
もう我慢の限界だった。掴んだエビを放り出すと、バッと勢いよく立ち上がった。
班長は怯んだように、椅子からのけぞった。
「な、なんだい。まさかやろうってのかい。あんた、ここで何かしたら……」
「何? 何をされたら困るの? 言ってみなよ。全部まとめてフルコースでやってやるから」
美玲は激憤のままに怒鳴った。
どうせクビになるのなら、エビなんてもうどうでもいい。
全部チャラだ。全部チャラにして、とにかく目の前のクソババアをブッ飛ばすのが先決だ。
「このパワハラを極めまくった陰湿クソババアが。わかったよ。ヒゲの証拠まで捏造するほどエビが好きなら、耳の穴からエビ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせてやるよ」
そう叫ぶと、美玲は部屋の隅にあった雑巾箒に駆け寄った。
こんな人間のクズに、愛用の棍は使うまでもない。雑巾箒で十分だ。
雑巾箒を両手で持つと、ようやくただならぬ事態を悟って震え出した班長にゆっくりと向けた。
何の迷いもなく攻撃の構えを取ると、美玲は大きく息を吸った。
次の瞬間、彼女は雑巾箒をふりかぶって跳躍した。
少しして、辺りに「いやああ~」という中年女のけたたましい悲鳴が響いた。
ブチキレた美玲は、全力でパワハラ上司をブッ飛ばした。
白目をむいて倒れた女の耳と口にめいっぱいエビを突っ込むと、雑巾箒を抱えて部屋を飛び出した。
作業場を走り抜け、工場の敷地からも出た。
家に戻るつもりはなかった。
とてもじゃないが、家には帰れやしない。
クビになったなんて、無職になってしまったなんて、家族には言えない。
最後の希望であった仕事を失った今、彼女に怖いものはなかった。もう、何も怖くない……が。
同時に自分が失業したことで、家族がどうなるかを考えると胸がひどく痛んだ。
母はショックで卒倒するかもしれない。弟や妹は絶望し、ひもじさも相まって泣きわめくだろう。
一体全体、明日からはどうすればいいのだろう。
自分が王然の娘であることはすぐに広まるだろうし、誰も罪人の娘なんて雇わない。新たな勤め先なんて見つからない。
いっそ都を出て地方へ行くか……?
でもどこへ?
知り合いはいない。地理もわからない。
行くあてがないのに無鉄砲に飛び出したところで、どうにもならない。家族全員で仲良く野垂れ死ぬだけだ。
美玲は全速力で走りながら思った。
こうなったら、死んだ気になって就活だ。
没落してしまったけど、貴族の血と誇りを賭けて身分不問、経歴不問の職にありつく。それしかない。
後宮へ行こう、宮城の奥にあるという後宮へ――。
朝に見た立札は、間違いなく役所が出した正式な布令だった。
後宮へ乗り込んで、かの地の女主人であるという皇后を倒せば、自分は皇帝の妃になれる。それは間違いないことだ。
皇后は、北の蛮族が住まう垂逸国から嫁いできたという。
将軍の位を持っているというが、これは王族に与えられる名誉職みたいなものだろう。
現に皇帝は馬にすら乗らないのに、驃騎大将軍の称号を持っていると聞く。
ならば皇后も同じだ。彼女は生粋の武人じゃない。
誰かと対戦することはあっても、相手は高い身分に阿ってわざと負けているに違いない。
でも、あたしは違う。
あたしは勝つために本気で、全力で戦う。
皇后であっても、手加減は一切しない。
お姫さまの嗜み程度の武芸で、あたしは倒せない。
美玲は大通りに入ると、宮城に向かって一心不乱に駆けた。
彼女は心の内で思いきり叫んだ。
あたしは負けない。絶対に負けない。
棍じゃなくて、雑巾箒で戦っても負けない。
皇后に勝って、絶対に、絶対に、絶対にセレブになってやる!




