第五話「伝心」
「ボミネイ、今日は五回だ。」
昼休みを知らせる鐘が鳴り、教室を出たところで、バーゲストが突然そんなことを言った。
「……何がだ?」
「今日、お前が喋った回数だよ。」
バーゲストは得意げに指を五本立てた。
「朝の挨拶で一回。先生に当てられて一回。あとは……。」
「数えてたのか?」
「もちろん。最近のお前、どれくらい喋るのか気になるんだよ。」
ボミネイはバーゲストを見た。
「……そうか。」
「それだけ?」
「そうだ。」
「ほら、四回増えた。」
バーゲストが笑う。
その横では、背の高いサルーキが呆れたようにバーゲストを見ていた。
「よく数えていられるな。」
「暇だからな。」
「それは違うと思いますよ。」
アザワクも苦笑する。
この三人とは同じクラスで学んでいるため、昼休みになるとこうして一緒に行動することも多い。
サルーキはバーゲストの護衛を務めているが、男爵家の子息でもある。
アザワクもハウンド家の分家筋にあたる伯爵家の次男で、バーゲストの従者を務めている。
二人とも学院では、一人の生徒として過ごしている。
ボミネイたちは、そのまま食堂へ向かった。
食堂にはすでに多くの生徒が集まっている。
貴族向けの料理も用意されているが、平民の生徒も同じ食堂を利用していた。
食事を運ぶのは学院の職員や、給仕を担当する生徒たちだ。
「今日は何にするかな。」
バーゲストが料理を眺めながら言った。
ボミネイも料理を見ている。
人の流れの中から、一人の生徒が料理を載せた盆を持って歩いてきた。
ボミネイが一歩、横へ動く。
その生徒も避けようと横へ動く。
肩がぶつかった。
盆が大きく揺れる。
ボミネイは、とっさに手を伸ばした。
落ちかけた盆を、その女生徒と一緒に支える。
その拍子に、ボミネイの手が女生徒の手に触れた。
料理はなんとかこぼれなかった。
ボミネイは、ぶつかった相手を見た。
平民の生徒だった。
「も、申し訳ありません!」
少女はすぐに頭を下げた。
「カネコリ!」
少し離れたところから、少女を呼ぶ声がした。
振り返ると、よく似た顔立ちの少女が立っている。
「大丈夫?」
「アネッサ……。」
姉のアネッサ・ユキは、妹の様子を確認すると、ボミネイへ視線を向けた。
そして、すぐに頭を下げる。
「申し訳ありません。」
バーゲストが眉をひそめる。
「貴族にぶつかっておいて、それだけか?」
「申し訳ありません。申し訳ありません。」
カネコリは青ざめた顔で、何度も頭を下げた。
ボミネイは、彼女が今にも泣きそうになっていることに気づいた。
貴族が平民より上位にある。
それは、この国で生まれ育ったボミネイにとって当然のことだった。
学院でも、身分による違いは存在する。
貴族に対して平民が礼を尽くすことも、特別なことではない。
目の前の生徒が謝っていること自体に疑問はなかった。
ボミネイは今回のことを問題にする必要があるとは思わなかった。
思い返す。
自分も一歩、横へ動いた。
相手も避けようとしてくれていた。
どちらが完全に悪いのか。
そう考えるほどのことでもない。
それでも、相手が怯えていることだけは分かった。
「……。」
声をかけようとする。
しかし、言葉が出てこない。
相手を責めないと伝えていいのか。
それとも、こちらにも非があったと伝えるべきなのか。
考えているうちに、時間だけが過ぎていく。
「どうしたんだ?」
バーゲストが不思議そうに尋ねる。
ボミネイは答えない。
視線だけを、平民の生徒へ向ける。
怖がっている。
自分を見ている。
その様子を見ていると、胸の奥に感情が込み上げてきた。
怖がらなくていい。
怒っていない。
この人を困らせたいわけじゃない。
そう思った。
その気持ちが強くなる。
ボミネイは、まだ盆を支えていた。
その手が、彼女の手に触れたままだった。
触れたままの手を通して、気持ちが伝わっていく。
言葉ではない。
説明でもない。
ただ、相手を責めてはいないという気持ち。
怖がる必要はないという気持ち。
ボミネイの手から彼女へと伝わっていく。
彼女の表情から、少しずつ怯えた色が消えていく。
張り詰めていた顔から、少しずつ力が抜けていく。
「……あれ?」
本人にも理由は分からない。
ただ、先ほどまで感じていた恐怖が薄れていた。
ボミネイも、その変化に気づく。
「……もういい。」
小さな声だった。
「気にするな。」
彼女が目を丸くする。
「……はい。」
それだけ答えて、その場を離れていく。
バーゲストが納得のいかない顔をした。
「ボミネイ、お前は甘すぎるんじゃないか?」
ボミネイはバーゲストを見る。
「……そうか?」
「平民が貴族にぶつかったんだぞ。」
「分かっている。」
ボミネイは短く答えた。
身分の違いを否定するつもりはない。
平民が貴族に無礼を働いたなら、相応の注意を受けることも当然だと思っている。
けれど、今回のことはそこまで大きな問題ではない。
料理もこぼれていない。
怪我もない。
ただ、肩がぶつかっただけだ。
バーゲストは何か言おうとした。
しかし、その前に別の声が響いた。
「ボミネイ様の判断なら、それでよろしいのではありませんか?」
食堂の空気が静まる。
声の主は、少し離れた場所にいた少女だった。
公爵令嬢、アリザリン・アップホールド。
その隣には、王太子セルリアン・ドラゴンベインもいる。
「アリザリン嬢。」
バーゲストが振り返る。
アリザリンは平民の生徒が去っていった方向を見た。
「今回の件で、これ以上騒ぎ立てる必要はないでしょう。」
「しかし……。」
「ボミネイ様ご自身が、問題ないと判断されたのです。」
バーゲストはそれ以上、何も言わなかった。
身分の高い者が判断を下した以上、ここで話を続ける理由もない。
「流石、アリザリン様ですわ。」
近くで様子を見ていた令嬢の一人が、感心したように呟いた。
ローズ侯爵家の令嬢、ロザリンド・ローズだった。
「このような場でも、騒ぎを大きくすることなく収められるなんて。さすがはアリザリン様ですわね。」
ロザリンドは、尊敬の眼差しでアリザリンを見る。
「公爵令嬢として、なんてお見事な振る舞いなのでしょう。」
ボミネイは三人のところへ戻った。
何も言わず、歩き出す。
バーゲストがその後に続き、サルーキとアザワクも歩き出した。
少し離れた場所では、アリザリンがまだボミネイを見ていた。
「……やはり、おかしいですわ。」
セルリアンが彼女を見る。
「何が?」
「先ほどの平民です。」
アリザリンはボミネイの手を見る。
「不安がっていた生徒の表情が明らかに変わりました。」
「そうだな。」
セルリアンもボミネイを見る。
「何かをしたようには見えなかった。」
「ええ。」
アリザリンは考える。
「偶然とも思えません。」
セルリアンは小さく笑った。
「覚えておこう。」
「はい。」
ボミネイは席に着き、静かに食事をしていた。
先ほどの出来事を考えている。
自分は、あれでよかったのだろうか。
貴族として、平民に必要以上の配慮をする必要はない。
それは分かっている。
相手を怖がらせたままにしておくことも、正しいとは思えなかった。
「……。」
ボミネイは自分の手を見る。
先ほど、あの生徒に対して強い感情を抱いたとき、相手の様子が変わった。
偶然なのだろう。
そう思うしかなかった。
キャラクターイメージ:AI生成画像を使用しています。
© 池田興継
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