第三話「我儘」
八年前。
ボミネイ・ションア、六歳。
廊下を、小さな少年が駆けていく。
その後ろを、もう一人の少年が必死に追いかけていた。
「ボミネイ様、お待ちください!」
「嫌だ!」
ボミネイは振り返り、楽しそうに笑った。
「ターニップが遅いからだぞ!」
「ボミネイ様が速すぎるんです!」
「言い訳は聞かない!」
廊下の先に、シワひとつない執事服を着た大人の姿が見えた。
執事長のパースニップである。
顔立ちは、ターニップをそのまま大きくしたような感じだ。
ボミネイは走る足を止めることなく、ぱっと顔を輝かせた。
「パースニップ!」
「はい、坊ちゃま。」
「ターニップが遅いの!」
ションア家の幼い跡継ぎは、今日も元気に走り回っている。
パースニップの息子であるターニップを振り回しているというのに、少しも悪びれない。
パースニップは、小さく息を吐いた。
「坊ちゃま。廊下を走るのはお控えください。」
「ターニップが速くなればいいんだぞ!」
「そういう問題ではありません。」
パースニップが静かに答えた。
パースニップがボミネイを引き留めている間に、ターニップはようやくボミネイに追いついた。
ボミネイは廊下の角を曲がると、ぴたりと足を止めた。
そして、くるりと振り返った。
「ターニップ。」
「……はい。」
「馬になって。」
「……はい?」
「馬。」
「僕は人間です。」
「今は馬なの。」
「……。」
ターニップは困ったように眉を下げた。
その様子を、少し離れた場所からパースニップが見ていた。
「ターニップ。坊ちゃまのお相手も大切ですが、服装を乱しすぎないように。」
「……はい、父上。」
「それから、この前の宿題ですが、三問目の答えが間違っていました。後で教えますので、私の部屋に来なさい。」
「今、それを言うのですか。」
ボミネイは、そんな二人のやり取りを聞いて笑った。
「パースニップ、ターニップは馬だから、走ってもいいんだぞ。」
「坊ちゃま。馬であっても、屋敷の中を走り回ってよいわけではありません。」
「そうなの?」
「はい。」
「……じゃあ、歩けばいいの?」
「そういう問題でもありません。」
パースニップはまた静かに息を吐いた。
ボミネイは不思議そうに首を傾げた。
「難しいなあ。」
そう言いながらも、少しも反省した様子はなかった。
そこへ、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「坊ちゃまー。どちらにいらっしゃいますか。」
声の主は、ボミネイ付きのメイド、フェンネルだった。
フェンネルは、栗色の髪をきちんとまとめた、柔らかな顔立ちの若いメイドである。
穏やかな笑みを浮かべたその表情には、幼いボミネイのわがままにも慣れた、落ち着いた雰囲気があった。
手にはきちんと畳まれた上着と新しいハンカチを持っていた。
先ほどからボミネイの姿が見当たらず、屋敷の中を探し回っていたのだ。
「……あら。」
廊下の先で、四つん這いになったターニップと、その背中に跨っている小さな主人を見つけた。
「坊ちゃま、またター坊に無理をおっしゃっているのですか。」
「無理じゃないぞ。」
ボミネイは胸を張った。
「ターニップは馬なの。」
「僕は人間です。」
「馬なの。」
「……はい。」
ターニップが諦めたように答える。
フェンネルは困ったように笑った。
「ター坊も大変ね。」
「分かってくださいますか。」
「ええ。ですが、坊ちゃま。」
フェンネルはボミネイに向かって、そっと手を差し出した。
「そろそろお着替えのお時間です。奥様のお部屋へ行かれるのでしょう?」
「……おかあさま。」
その言葉に、ボミネイの顔がぱっと明るくなる。
「行く。」
「では、ター坊から降りてくださいませ。」
「嫌だ。」
ボミネイはわがままを言った。
「ターニップ、行け。」
「どちらへですか。」
「おかあさまのところ。」
ボミネイは、出発の号令を掛けるように腕を振り上げた。
フェンネルは思わず口元を押さえた。
そこへ、別の女性の声が割って入った。
「フェンネル。ボミネイ様をお探しでしたか。」
現れたのは、眼鏡の奥に冷静な眼差しをたたえたメイド長、サルシファイだった。
整った顔立ちには、かつての男爵令嬢らしい気品が残っている。
その足元には、小さな男の子がぴったりと寄り添っていた。
男の子は母親のスカートを両手で握り、半分ほど身を隠していた。
見慣れない騒ぎが気になるのか、スカートの陰から、つぶらな瞳だけで周囲の様子をうかがっている。
フェンネルは、その姿に気づくと、ふっと表情を和らげた。
「あら、スコルツォネラ君。今日もお母さんと一緒なのね。」
男の子は返事をせず、サルシファイのスカートに顔を半分隠した。
フェンネルは屈み込み、目線を合わせた。
「ふふ。本当に、メイド長によく似ているわね。お目々がくりくりで、とっても可愛らしいわ。」
そう言って微笑むと、まだ三歳のスコルツォネラは恥ずかしそうに母親の陰へ隠れてしまった。
「まあ。隠れなくてもいいのに。」
「フェンネル。あまりからかわないであげてください。」
サルシファイがたしなめるように言った。
「からかってなんていませんよ。可愛いと思っただけです。」
「……そうですか。」
サルシファイは困ったように微笑み、息子の頭をそっと撫でた。
その様子を見ていたボミネイが、ぱっと目を輝かせる。
「スコルツォネラだ。小さいサルシファイみたい。」
スコルツォネラはびくりと肩を震わせ、再び母親のスカートに顔を埋めた。
「ボミネイ様、あまり驚かせないでくださいね。」
「遊びたいだけだよ。」
「もう少し大きくなったら、遊んであげてくださいませ。」
「……分かった。」
ボミネイは素直に頷いた。
「メイド長。坊ちゃまにお着替えをお願いしようと思っていたのですが……。」
フェンネルが困ったように視線を向けた。
サルシファイは状況を一目見て、静かに息を吐いた。
「ボミネイ様。ターニップを困らせてはいけませんよ。」
「困ってないよ。」
「ターニップは困っているように見えますが。」
「……ターニップ。」
「はい。」
「困ってるの。」
「……少しだけ。」
ボミネイは不思議そうに首を傾げた。
「ボミネイ様。使用人に何でもお命じになってよいわけではありません。」
「……でも、ターニップは馬になってくれたぞ。」
「ターニップは、ボミネイ様のご命令だから従ったのです。本人が望んでいたかどうかは、別の話でございます。」
サルシファイの声は穏やかだったが、言葉にはきちんとした重みがあった。
ボミネイは少しだけ頬を膨らませる。
「……おかあさまなら、いいって言うかもしれない。」
「奥様は、そのようなことをおっしゃらないと思いますよ。」
「……そうかな。」
「ええ。」
サルシファイは、しゃがんでスコルツォネラの頭を撫でた。
「それに、ターニップにも勉強があります。ボミネイ様のお相手ばかりしていてはいけません。」
「……分かった。」
ボミネイはようやくターニップの背中から降りた。
ターニップがほっと息を吐く。
「ありがとうございます、メイド長。」
「いいえ。あなたも、ボミネイ様を甘やかしすぎてはいけませんよ。」
「……はい。」
「それから、服装を整えなさい。執事長に見つかったら、また注意されますよ。」
「もう注意されています。」
「あら。それは失礼しました。」
サルシファイが微笑んだ。
サルシファイのスカートの陰から、スコルツォネラがそっと顔を出した。
ボミネイは小さな男の子を見て、もう一度声をかけようとしたが、フェンネルに差し出された上着に気づいた。
「フェンネル。おかあさまのところへ行こう。」
「はい、坊ちゃま。」
フェンネルが微笑み、サルシファイも静かに一礼した。
「奥様がお待ちですよ。」
ボミネイは嬉しそうに頷くと、今度は走らず、フェンネルの手を取って歩き出した。
ボミネイとフェンネルの後ろ姿を見送りながら、サルシファイは小さく笑った。
「……奥様の前では、少しはおとなしくなるとよいのですが。」
「それはどうでしょうね。」
パースニップが、いつの間にか隣に立っていた。
サルシファイは彼を見て、苦笑した。
「執事長も苦労なさいますね。」
「お互い様ですな。」
そう言って、パースニップは自分の息子へ視線を向けた。
「ターニップ。いつまで四つん這いでいるのですか。」
「……今、立ちます。」
屋敷には、今日も幼い跡継ぎの声が響いていた。
ションア家の嫡男であるボミネイは、跡継ぎだからと周囲に甘やかされ、強く叱られることも少なかった。
そうした環境の中で、ボミネイは少しずつ勘違いしていった。
自分は偉い。
ションア家の跡継ぎなのだから、皆が自分の言うことを聞くのは当然なのだと。
そんなボミネイを、母のアフェシアは決して甘やかさなかった。
どれほど駄々をこねても、いけないことはいけないと叱った。
身分が高いからといって、何をしても許されるわけではない。
アフェシアは、そうしたことを息子に繰り返し教えていた。
キャラクターイメージ:AI生成画像を使用しています。
© 池田興継
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