第二章:顕微鏡の向こうの戦場
一
明治八年(1875年)、東京医学校の門を叩いた北里柴三郎を待ち受けていたのは、阿蘇の天地のような大らかさとは無縁の、冷徹なる序列の世界であった。当時の医学校は、ドイツから招聘された教師陣による厳格な講義が行われ、学生たちは官僚としての出世栄達を競い合っていた。
柴三郎は、ただひたすらに学問の真理を追い求めたが、その妥協を許さぬ一本気な性格は、たちまち硬直化した学校組織と摩擦を生んだ。
「北里、お前はまた教授の説に異を唱えたそうだな。少しは身を修め、組織の和というものを考えたらどうだ」
同郷の友人であり、のちに独自の道を歩むことになる古賀調は、夜の寄宿舎にて、机に向かって顕微鏡を覗き込む柴三郎を心配そうに諌めた。
「古賀、私は出世のために医学を修めているのではない。いま教壇で語られているのは、西洋の書物をそのまま書き写しただけの死んだ学問だ。目の前で病に倒れる日本の民を救うために、何が正しいのかを突き詰めることこそが医徒の務めではないか」
柴三郎は顔を上げ、燈火に照らされた鋭い眼光で友を見据えた。彼は、教官の講義を鵜呑みにせず、自ら原著を紐解き、実験によって確かめねば得心がいかなかった。その峻烈なる態度は、知識を独占して権威を振るおうとする一部の教授陣の目には、不遜極まる反逆と映ったのである。
二
明治十六年(1883年)、柴三郎は三十歳という異例の遅さでようやく大学を卒業した。成績自体は優秀であったが、教授たちの不興を買ったために進級を遅らせられた結果であった。同期生たちが陸海軍の軍医や、大学の華やかな椅子へと就職していく中で、柴三郎が選んだ道は、内務省衛生局への出仕であった。
当時、初代衛生局長を務めていた長与専斎は、日本の近代衛生制度を創り上げた大立者であり、柴三郎の非凡なる才能と、国を憂う熱き志を高く評価していた。
「北里、大学の奴らは病理の解剖や治療の技術ばかりを重んじる。だが、国を救うのは、病そのものを発生させぬ『予防』の学問、すなわち衛生学だ。お前にはその先頭に立ってもらいたい」
長与の言葉に、柴三郎は深く頷いた。これこそが、かつてマンスフェルトから示された「国家を治す医学」の実践であった。
しかし、当時の内務省衛生局は予算も限られ、名ばかりの組織に過ぎなかった。さらに、東京大学の医学部という巨大な学閥は、官僚組織と深く結びつき、野に下る異端の学説を徹底的に排除しようとしていた。柴三郎は、己の志を果たすためには、国内の狭い権力闘争に付き合う時間など一刻もないと確信した。彼は世界最高峰の医学が集まる地、ドイツへの留学を勝ち取るため、昼夜を分かたぬ猛勉強と研究成果の蓄積という、地道にして果てしない戦いへと自らを追い込んでいった。
三
十九世紀末の欧州は、目に見えぬ微小な生物――「細菌」が人間の命を奪う元凶であるという大発見に沸き立っていた。それは、それまで天災や業病として諦められていた病魔に対し、人類が初めて反撃の狼煙を上げた歴史の必然の瞬間であった。地政学的に見れば、日本は未だコレラや赤痢といった感染症の脅威に常に晒される脆弱な島国であり、その防波堤を築くことこそが急務であった。
柴三郎の執念は、ついに長与専斎を動かし、国費によるドイツ留学の切符を手にすることとなる。明治十八年(1885年)、彼は三十二歳という、当時の留学生としては決して若くない年齢で、横浜港から欧州へと旅立った。
彼が向かう先は、細菌学の開祖として世界中にその名を知られる、ローベルト・コッホ(Robert Koch)の研究所である。
「日本の医学が、ただの真似事ではないことを証明してみせる。そして、必ずや我が国の民を救う武器を持ち帰る」
船の甲板から遠ざかる祖国を見つめながら、柴三郎は心に誓った。それは、大学内のしがらみという狭い檻を飛び出し、世界の碩学たちが命を懸けて競い合う、真の戦場へと赴く覚悟の決断であった。彼が掴もうとしたのは、個人の栄誉ではなく、日本の衛生の未来そのものであった。
(第三章へ続く)
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