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小説 北里柴三郎 不屈塊 1853-1931  作者: 山田 誠一


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第一章:不本意なる門出

「柴三郎、お前は武士の子だ。天下国家のためにその命を役立てる大望を持て。決して、小細工の才に溺れるな」

肥後国阿蘇郡小国郷(現・熊本県阿蘇郡小国町)の、冷涼なる風が吹き抜ける総庄屋の屋敷にて、父である北里惟信きたざとこれのぶは、いまだ元服を迎えぬ我が子を鋭く見据えて言い放った。嘉永五年(1853年)十二月二十日の極寒の日に生を享けた北里柴三郎きたざとしばさぶろうは、幼少の頃より阿蘇の峻険なる自然の中で育ち、その気性は不屈にして剛毅、悪く言えば頑固一徹であった。


祖父の北里惟澄きたざとこれずみからも武士の覚悟を説かれて育った柴三郎にとって、己の生きる道は天下を動かす軍学者か、あるいは国を動かす政治家以外にあり得なかった。しかし、時代は明治という激動の奔流へと変わりつつあった。

「これからは学問の世だ。軍事のみが国を救うのではない。柴三郎、古川古松軒ふるかわこしょうけんの『西遊雑記』を読め」

母のていは、武張る息子を宥めるようにそう諭したが、若き柴三郎の胸中に燃える火は消えなかった。彼は熊本の古城医学所病院へ入ることを命じられたとき、激しく反発した。当時、医学とは他人の身体の不潔に触れ、頭を下げる「敗者の学問」であり、畳の上で死ねぬ武士のすることではないという偏見が、少年の心を支配していたのである。


「私は国を興す大仕事をしたいのです。病人の手を握り、薬を調合するような、そのような小さな生き方のために生まれてきたのではありません」

十九歳となった柴三郎は、古城医学所に入学したものの、学業に身が入らず、教官に向かって不満をぶちまけた。その時、彼の前に立ちはだかったのが、オランダから招聘された医師、マンスフェルトであった。


マンスフェルトは、柴三郎の燃えるような眼光の中に、単なる反抗心ではなく、何事かを成し遂げんとする強烈な志が眠っていることを見抜いた。

「北里、お前は勘違いをしている。医学とは、目の前の窮民を救うだけのものではない。一国の衛生を正し、流行病を防ぐことは、何万人、何十万人という国民の命を救い、国力を興す根幹なのだ。これ以上の大仕事が他にあるか」

通訳を介したその言葉は、雷霆のごとく柴三郎の脳裏を撃ち抜いた。個人の病を治す「医術」ではなく、国家の基盤を支える「医学」という大局的な視点。それこそが、己の命を懸けるに値する大義であると、彼はこの瞬間に深く悟った。柴三郎は自らの不明を恥じ、それまでの驕りを捨てて、顕微鏡という未知の道具の向こうに広がる、目に見えぬ広大な戦場へ身を投じる決断を下したのである。


明治という時代は、西洋の文物という巨大な津波が、数百年続いた島国の秩序を容赦なく塗り替えていく、必然の転換期であった。地理的に東洋の辺境に位置する日本が、欧米の列強と渡り合うためには、軍備や産業のみならず、国民の健康を保つ「衛生」の確立が急務であった。柴三郎が熊本の地で抱いた志は、まさにこの歴史の必然性と強く結びついていた。


マンスフェルトは、この若き俊英の才能が国内に留まるべきではないと確信し、東京へ、そしていずれは西洋へ進むべきだと強く勧めた。明治八年(1875年)、二十二歳となった柴三郎は、更なる高みを目指して東京医学校(のちの東京帝国大学医学部)へと進学する。しかし、そこには熊本の自由な気風とは全く異なる、官僚主義と学閥という、分厚く冷徹な「組織のしがらみ」が待ち受けていた。


柴三郎は、自らの意思を曲げぬ頑固さから、教授陣としばしば激しい論争を引き起こすことになる。それでも彼は、己の選択した道に些かの迷いもなかった。失うべきはちっぽけな保身の地位であり、掴むべきは日本全土の民を救うための真理であったからである。青年期の助走を終えた柴三郎は、いよいよ国家という巨大な怪物との闘争へと足を踏み入れていく。


(第二章へ続く)

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